郷土の今昔物語(神戸地域)・2中央

郷土の今昔物語(神戸地域)・2中央

●神戸(21)  「弧状市街」(中央区)
(昭和初期)
 神戸市は六甲山脈と大阪湾との間に、東西に横はる弧状市街である。海岸は数本の河川によって沖積された出洲の為めに数條の弧状をを呈してゐる。漁村、碇泊地、開港場として海岸より山腹へ市街の発展を見たる為め、街路殆ど弧状海岸地形と一致して同心弧を描いてゐる。圖は海岸通より三宮驛に至る所謂神戸の中心地域を瞰下せる空中写真で、弧状市街の特色を見る事が出来る。右より、海事関係家屋を連ねる海岸通の銀行・会社・事務所多き榮町通、日用娯楽高級商品街の元町通、及び東海道本線等であって、右方上大建築物多き一劃は元居留地である。 
(現在)
 東西に細長く、弧状に曲る市街地が連なる神戸。現在では、六甲山中にJR新幹線が新神戸駅部分を除いてトンネルで走り、山手幹線道路、阪急電鉄、JR神戸線、国道2号線、阪神電鉄、榮町線、国道43号線、阪神高速道路神戸線と湾岸線、遂には空の玄関口神戸空港などの幹線交通網が発達。市街地の拡がりに伴い、埋立地への南北幹線として、ポートラーナー、六甲ライナーなどの新交通システムがある。
 これらにより、市街地においては高層ビルを含む多くの産業・住宅などが建ち並び、神戸の繁栄を示している。
●神戸(22)  「兵庫縣廳」(中央区)

(昭和初期)
 兵庫縣廳は市の中央下山手通4丁目に在り。明治35年5月の竣工にかかり工費34萬圓を費した輪奐の美を極むる市内屈指の建築である。日本の大玄關、開港場として諸外国との應接上當時に於は少く共もかかる宏壮なる外観内容を必要としたのである。近時其の周囲に続々として近代的大建築設立さるるに至ったが、古色蒼然として舊式乍らも堂々たる威厳を有する縣廳に比すべくもない。現在敷地8,593平方米餘、建坪2,577平方米餘である。圖の中央は縣廳であって、後方建築物は縣會議事堂及び工業試驗所、其の左方は縣立第一高等女學校である。

(現在)
 山口半六により設計されたフランス・ルネサンス様式のこの旧県庁舎は、1945年の戦災により内部を焼失したが、復旧工事により県庁南庁舎として使用されました。1985年から迎賓館や県政資料室の機能を併せ持つ「兵庫県公館」となっています。2003年に国の有形文化財に登録。
 周辺の県立第一高等女学校も県庁舎の一部として使用されてきたが、県議事堂などと同様に建て替えられ、県庁舎は公館のほか、1号館、2号館、3号館、議会棟、西庁舎、防災棟、公社館、県民会館などが建ち並ぶ。北側の尖塔を持つゴシック様式の栄光教会は、1995年の阪神・淡路大震災で倒壊したが、2005年に再建された。
●神戸(23)  「神戸市役所」(中央区)

(昭和初期)
 神戸驛を降りて北に進めば役218米で湊川神社、其境内の東門から東に進むと裁判所になる。其東隣が即ち神戸市役所で、寫眞の正面に見える鐵筋コンクリート2階立がそれである。事實神戸の市政は此處で献立され料理される。神戸は明治初年までは一寒村に過ぎなかったが、今や人口65萬の大都市となり、狐狸の栖處であった湊川神社附近に表玄關たる驛も出来、市役所も其近くに建った。其所在地橘通1丁目邊りが繁栄の中心地となり、人家櫛比、殷賑の巷になってゐる。

(現在)
 裁判所の東にあった神戸市役所は、1889年に建てられたものであったが、その後、1909年に北隣の現在の兵庫県弁護士会館がある所に移り、1945年には市立第一高等女学校と勧業館のあった現在の湊川公園内の兵庫区役所がある位置に移転していた。1957年に市の繁華街・中心地が三宮周辺へ変わるに連れて、加納町のフラワーロード西側の現在地に新築移転した。
 昔、裁判所の東にあった市役所跡には、神戸法務総合庁舎が建っている。
●神戸(24)  「山手方面」(中央区)
(昭和初期)
 左の大きな道路は山の手の電車の幹線路で、路の右に中央部にある大きな建物は兵庫縣廳で、我国屈指の開港場の縣廳は夙に建築に留意して美観を備へてゐる。その前が四圍の建物もよく道路も廣く神戸の都心である。縣廳の右は小學校でその右は市を貫く東海道線である。踏切が多くそれが常に列車の通過によってとめられるので、今は巨費を投じて高架線建設中である。その右手にこれと並ぶ町並は西国街道に發達した神戸の買物町元町通である。銀ぶらに對して「元ぶら」と稱するのはここである。元町の中央から右手に高く見えるのは大丸デパートメントストアである。圍で線路を界にし右は商業圏、左は住宅區で、この部分は神戸の中心部である。

(現在)
 兵庫県庁など公共機関を中心とした山手地域は、周辺に住宅街、マンション街と、元神戸市長の小寺邸宅の相楽園、栄光教会、学校などが集まっている。南側には、JR神戸線、阪神電鉄、阪急電鉄、神戸高速鉄道、地下鉄、国道等が東西に走り、港に臨み、元町商店街や南京街、大丸デパートなども頑張っている。山裾から港まで南北1kmほどに狭く帯状に、神戸の中心街を形成している。

●神戸(26)  「三宮附近」(中央区)
(昭和初期)
 白い大きな建物は大丸呉服店であって三越と並ぶデパートメントストアで、然も相前後して比較的新しくこの神戸に両店が進出し、元町の両端に陣取った。右横の電車通りはやがて左へまがって居ることは、三越横と同じで買物町元町を避けてゐる。中央を貫いてゐるのが元町通で、外人向日本品を売る店の多いのはこの町の古くからの開港場、又我が国有数の貿易港となることを語ってゐる。
(現在)
 元町地域の東側の旧居留地を含めて発展してきた三宮地域は、港湾の中心部に近く、税関や神戸市役所のほか、銀行、企業、三宮センター街などがあり、JR新幹線駅を含めて各所の交通機関の結節点を形成し、ビジネスや商業、飲食の中心地となって神戸で一番賑わっている。
 旧居留地西北端の大丸、その向うに見えるのは元町商店街。
●神戸(27)  「元町西端」(中央区)
(昭和初期)
 白い大きな建物は三越で、その左の町が買物町の元町である。元町には電車がなく、安心して買物がしてまはれ、元町の店が全部で一大デパートメントストアであったのであるが、新たに西端に本物のデパートの三越ができ、東端には大丸ができた。電車は元町を避けて右に廻り、鐵道線路は元町と並んで左にある。
(現在)
 昭和初期から戦後にかけて賑わってきた元町商店街西端にある三越デパートは、1984年(昭和59年)に閉店撤退し、ホテルに建て直されたが、そこもホテルからマンションへと転用されている。神戸のターミナル駅であった神戸駅の東部周辺は、元町商店街を迂回して敷設された市電がL字型に走っていた既に廃止され、新しく地下鉄海岸線が通っている。神戸駅南側の貨物ヤードも再開発され、ハーバーランドとして今やこの地域の拠点となっている。
●神戸(28)  「神戸榮町通」(中央区)

(昭和初期)
 榮町通は海岸通と元町通(西国街道)との間に、明治6年に開かれた通りであって、明治初年の古き石造建築物が物々しく建ち並んだ特色ある通りである。
 寫眞は榮町2丁目の市電停留所から西方を望んだもので、左側建物は手前より横浜正金銀行神戸支店、一軒おいて川崎第百銀行、明治生命保険株式会社等であり、右側は三十四銀行、一軒おいて三十八銀行、三井銀行神戸支店、帝国海上保険会社等である。その他この通りには各種銀行すこぶる多く、1丁目から6丁目まで続く銀行街で、神戸市のウォールストリートである。

(現在)
 世界金融の舞台、ウォール街と並び称せられていた栄町通。昭和46年に市電は全廃されて今は無い。両側に林立する金融機関のビル群も、時代の流れに代替わり、建替えが進み、横浜正金銀行神戸支店は昔の写真撮影直後の昭和10年に現在の神戸市立博物館のビルに移転していた。そして阪神淡路大震災にて当時のビル群はほとんどその姿を消しており、都会型マンションが増加しているものの、今も神戸のビジネス街の中心地であることに変わりは無い。
●神戸(29)  「元町通」(中央区)

(昭和初期)
 写真は神戸元町である。道は綺麗にアスファルトで畳まれ、外人向きの雑貨店等も並んで、何となく垢抜けした美しい町である。町幅は余り広くはないが、電車も通らないので、買い物も落ち着いてできる。散歩時間には神戸在住の外国人が踵を接していて、さながら外国の街に行った観があり、また各国人種の展覧会のようでもある。
 維新前は西国街道に沿っていた神戸村、二つ茶屋村がその前身で、明治以後神戸が開港場となるに及んで、居留地も付近に出来たので、元町通も次第に発達した。海岸の方に元町に並行して出来た栄町通には一流の銀行・会社等が多く、大取引が行われている。更に南の海岸通には船も着き、貨物回送店、旅館等がある。神戸が港として命を保つ以上、この付近を中心として繁栄したのも無理は無い。

(現在)
 アスファルト舗装は大正2年(1913)、昭和2年(1927)のすずらん灯、昭和28年(1953)の西側からの日本初の商店街アーケードと整備が続いてきた。そのアーケード軒に阻まれて、大丸百貨店は見えない。
 今でも西洋文化導入の先駆けとして、神戸の日本の文化形成をリードしてきている。100年以上の歴史を誇る老舗が20店余り、50年以上でも約90店があり、老舗と最近の流行を取り入れた店が発展を続けている。
(史料展示室の広告マッチラベル、昭和初期の元町の店をご覧ください)
●神戸(30)  「二階住まいの領事館」(中央区)
(昭和初期)
 元居留地は神戸市の東部、旧生田川下流の海岸を占め、街路整然、建築物は開國当時のまま保存されて異国の観を呈している。慶応3年(1867年)に兵庫港開港と共に居留地と指定され、各國の領事館、貿易商人の代理店が建設されて外国人居住地の一画を為していた。
 寫眞は、前町通より西北に向かって浪花町の一角を見た所。右建物の2階に翻る旗はフィンランド國旗で、同國領事館が2階借りをしている。
 中央の2階建左の3階建は、共に元領事官や外国人の家であったが、神戸における外商の衰退と世界大戦の影響とで転々と人手に渡り、今は貸事務所となって邦人が利用している。古風な外観のみが昔を物語る。
(現在)
 当時の建築物が今も残っているのは、この元十五番館(1881年頃竣工。国指定重要文化財。)のみで、上の写真の中央の建物です。その右は神戸市立博物館になっています。今、旧居留地で見ることの出来る古い建物は、昭和初期に建てられたものがほとんどです。領事館はそのほとんどが大阪などに移転し、今ではパナマ共和国総領事館と韓国総領事館が残るのみです。それでも、居留地の異国情緒を継承しており、ビジネス街として賑わいを見せています。
●神戸(31)  「南京町」(中央区)

(昭和初期)
 神戸市元町通と榮町通との間、東部の一角に頗る変わった色彩を有する猥雑な通りがある。中國人(当時の資料の呼び名から変更)の商舗が多く、俗に南京町と呼んでいる。神戸市在住の中國人は殆ど6千人を数え、市の東部に居を構えて、多くは商業貿易業を営んで、その勢力は中々侮り難い。南京町は即ち彼らの市場であって、日本商人も共に軒を並べ、頗る繁盛している。
 寫眞は、榮町の入口より北を見たものであって、右側には萬生堂漢薬舗、両替店、中華料理店第一楼や、「成興發廣洋雑貨發客」の連を掲げた店もある。焼き豚、青物、中華雑貨から酒場に至るまで、中國風の臭が道に溢れて頗る異國的な一廓をなしている。

(現在)
 居留地内に進出を許されなかった当時の華僑たちは、西隣に続く元町通と榮町通に挟まれた地域に集まって中華街「南京町」が形成されてきました。
 今は、南京南路の海榮門を潜ったところで、中華料理店第一楼はずっと以前に旧居留地内の神戸市役所西側に移転済みである。南京町は、東西約270m、南北110mの範囲に、100を越えるr中国風の店舗が並ぶ。横浜、長崎とともに日本三大中華街となって、エキゾチック神戸の特色を具現する一番の観光スポットとなっている。
●神戸(32)  「外人墓地」(中央区)

(昭和初期)
 神戸市東遊園地の東側に松青く砂白い居留外国人の墓地がある。圖中墓碑の最左端、圓荘形十字碑には「1868年3月8碑堺市に於けるデュプレイ號犠牲者11人の水平の記念」と書いてある。明治2年堺で上州兵を佛國水平との衝突した妙國寺事件の犠牲者の墓碑である。現在では居留地は廢止になったが、この附近には外事用のテニスコートなどもあり特に異国情緒が濃厚である。

(現在)
 東遊園地の東側、小野浜にあった外人墓地は、1899年に満杯となって春日野(中央区篭池通4丁目)に移転した。 ここも狭く、新たな公園墓地計画を進めつつあったが、阪神大水害(昭和13年、1938年)や太平洋戦争で中断。1961年(昭和36年)、再度山の再度公園、修法ケ原池の西北に、 約14haの外国人墓地公園(欧米外国人家族専用)が完成し、移転を完了した。世界61カ国、約2,700柱が眠っている。2007年に国の名勝に指定された。
 小野浜の元墓地のあったフラワーロード東側は、現在ビジネス街となり、関西国際文化センターなどが立地している。
●神戸(33)  「神戸市を通ずる省線高架線」(中央区)

(昭和初期)
 神戸市は東西に延長する幅狭き市街をなしてゐる。其の中央を省線は縦貫してゐる路面なる為、危険且つ不便であったので省線は數年前より神戸市街を横断する高架線工事を開始するに至った。圖は三宮驛附近より東面したもので、東は縣廳より西は鷹取驛附近に至る延長略6哩に亙り、鐵筋コンクリートの頗る堅固なものである。之に沿へる三宮驛、神戸驛、兵庫驛の改築と共に神戸市街に取っては築港に次ぐ大計劃改築工事である。一方阪急電車は此の省線の側に高架線を、阪神電車は亦之に沿うて地下線を作り、三宮驛附近に乗入れる計劃である。

(現在)
 省線高架は1934年(昭和9年)に完成。阪急電鉄は、上筒井までだったのを1936年(昭和11年)に西灘(王子公園前)から三宮へ高架で乗り入れ。西灘〜上筒井の上筒井線は1940年まで地上で残っていた。阪神電鉄は、1938年(昭和13年)に岩屋から瀧道(三宮)までの地上線を地下線にてそごう百貨店に乗り入れ。その後、1968年(昭和43年)に神戸高速鉄道にて、阪神電鉄、阪急電鉄、山陽電鉄、神戸電鉄の私鉄4社線が繋がった。
 なお、右写真はJR三宮駅東端の高架線上から望む。左方に阪急の高架線が並行して走っている。
●神戸(34)  「湊川神社、楠公墓」(中央区)

(昭和初期)
 神戸市兵庫多聞通3丁目鎮座祭神は楠正成朝臣である。終始後醍醐天皇に奉仕して一族國難に殉ぜられた成忠は史乗に顕著なり事で、 慶応4戊辰年即ち明治元年4月明治天皇畏くも千歳之一人臣子之○鑑なりとして、當社を創立し社壇造営を仰出だされ明治2年境域劃定に就ては初代兵庫縣知事伊藤博文公の縄張りせられたもので、 當時は荒涼たる一寒村の阪本村の畑中に孤立せる嗚呼忠臣の御墓所と、殉節の遺跡たる楠寺無為庵の跡地を入れて現在の如き地域を定め明治5年造営に着手、5月鎮座、別格官幣社に列すせられたものある。
 爾来上皇室を始め萬民の尊崇の厚い事は實に宜なりと言ふべきである。寫眞上は神門を入って拝殿を望む所。
 下は御廟所で延元元年5月湊川に自刃せられてより360餘年を経て、元禄5年徳川光圀郷御墓所の荒廢を慨し碑を建て公自ら嗚呼中心楠子之墓の8字を書し裏に明の朱舜水の撰文を彫せすめられたもので、今は之に屋根を覆うて、境内東南の隅にある。
(現在)
 1934年(昭和9年)に社殿改築した後、戦災にて焼失。1953年(昭和28年)に当時としては画期的な鉄筋コンクリートで本殿・拝殿等が建立された。本殿西奥の森が楠正成自刃の場として墓碑とともに国の史跡に指定された。1963年(昭和38年)には、篤志家の寄進により、宝物館が建設された。
 また、楠公墓碑の所に建立者徳川光圀の水戸家に伝わる史料に基づく実寸大の像が1955年(昭和30年)に建てられた。これによると約164p(5尺4寸)と、細身で当時としては中位の上背だったようです。

●神戸(35)  「神戸海洋気象臺」(中央区)
(昭和初期)
 神戸市宇治野山上にあり、東京の中央気象臺、茨木縣筑波郡小野川村舘野にある高層気象臺と共に日本の3気象臺である。他の測候所と同様に一般気象の観測もする。主に艦船に對する気象事務を執ろ唯一のものである。
 全国からの観測の結果を1日3回取纏め、毎回之を一定時刻に無線電信で放送し、艦船内で天気圖を作らせる。東京中央気象臺も發信するが、神戸と重複しない様にし、是は北海方面の船に知らせるを主意とす。艦船の行動に差支へる様な見込の際は又警報を發するのである。
(現在)
 大正9年に創設された海洋気象台は、昭和2年に観測船「春風丸1世」を配置し、国営移管させた後、「神戸海洋気象台」と改称した。その後、阪神淡路大震災で被災、平成11年から、脇浜のHAT神戸に神戸防災合同庁舎にて観測、予報等を続けている。平成17年に神戸空港出張所を設置、翌18年に関西空港地方気象台に組織変更された。
 旧気象台の建物は取り払われ、園地となっており、震災を潜り抜けた元庁舎のステンドグラスが現在の庁舎に飾られている。
●神戸(36)  「諏訪山金星観測記念碑」(中央区)
(昭和初期)
 諏訪山は神戸市の背後に在り、もと前山と稱し、天正年間池田輝政之に據って花隈城を攻めた城址である。明治7年12月9日金星の太陽面を通過せる際、佛國の星學士ジ・ジャンサン氏来り、之が観測を行った。其の記念として碑を建て、金星観測に因んで此の地を金星臺と稱した。
 碑は圓柱形の花崗岩で丈8尺、表に佛文を刻し、裏に日本譯を表してある。圖中下段藤棚の中央がそれである。其の後明治36年金星臺の地一帯は遊園地として開拓せられ面目を一新するに至った。圖中上段の碑は海軍営碑であって、元治元年小野濱に建てたのを大正4年此の地に移したものである。
(現在)
 フランス隊が金星観測した広場は「金星台」と呼ばれ、昭和3年にこの展望台を併せて「諏訪山動物園」としてオープンしたが、昭和21年に閉園。当時周辺にあった諏訪山温泉や高級料亭なども、そのほとんどがなくなり、閑静な住宅地域と公園に戻っている。動物園跡は遊具広場「子供の国」、その他、金星台にある観測記念碑、海軍営碑、ラジオ塔のほか、ヴィーナスブリッジ、眺望レストラン、愛の鍵モニュメント、桜の広場等になって、市民の憩いの場と親しまれている。
●神戸(37)  「布引瀧」(中央区)

(昭和初期)
 生田川の上流布引鑛泉より山径を登れば、渓谷漸く迫る所長廊を掛け渡して本圖に見る雌瀧がある。更に一道を傳ひて急坂を喘ぐこと數町、究極する所に又白布を引く雄瀧がある。布引渓谷は凡て花崗岩より成り、奔下する水勢は數段の断層に掛って侵食後退しつゝ今日の如き状態に落付いたものと考へられる。現今上流に布引貯水池を設置したる為め、水勢全く衰へるに至った。下流生田川は貯水池設置以前屡氾濫の為め災を及すことが多かったので、明治4年其の流路を熊内村字馬淵より小野濱海岸に付替へて今日の新生田川となった。

(現在)
 日光華厳の滝、那智勝浦の那智の滝とともに三大神滝と並び称せられている。上方に雄滝で高さ43m、下方のは雌滝14m、雄滝近くに夫婦滝、鼓ガ滝などがある。現在、滝への登山口にはJR新幹線の新神戸駅があり、遊歩道が整備されて新緑・紅葉を気軽に楽しめるようになった。また、平安時代から有名な宮廷人や歌人たちが大勢訪れて、布引の滝の情景を歌に詠んだり、「平治物語」「伊勢物語」などにも逸話が伝わっている。明治初期から現在にかけて、その歌碑が遊歩道沿線に多く建てられ、今もその約半数が所々に残っている。
●神戸(38)  「ダンロップ・ゴム工場」(中央区)
(昭和初期)
 神戸ダンロップゴム會社は初め英國ダンロップゴム會社の分身であったが、大正6年新に日本商法の規定に従って株式會社を組織した。爾来経営の規模年と倶に發展し、殊に大戦中は他國の商品の減少せるに乗じて大いにその手足を東洋市場に伸ばし、印度以東の市場を殆ど獨占するに至った。
 製品の種目は、自動車タイヤを始めとして、自轉車その他各種のタイヤ、ゴム製品に亙って居るが、震災後我國自動車數の激増せるに及んで、主力を自動車タイヤの製造に注ぎ、今では國内随一の自動車タイヤ供給會社たるに止まらず、その製品は遠く支那、瓜哇等にまで及んでゐる。
(現在)
 現在本社のある脇浜地域は、神戸の基幹産業をなす製鉄、機械などの工場が集まり、地域経済を支えてきた。昭和12年に「日本ダンロップ護謨」と改名。戦後は、昭和38年に住友グループの傘下となり、「住友ゴム工業」と社名を変更した。
 平成11年(2009年)には創業100年を迎えて、タイヤ、スポーツ用品などを製造、タイヤは世界6位を占める。国内6工場、海外5工場10事務所。国内グループ企業も多数抱えている。
【取材未了・未掲載の項目】
●神戸(25)  「舊居留地」(中央区)

●神戸(39)  「護謨製造工業」
(中央区)
(参考資料:昭和4年改造社発行『日本地理体系第7巻近畿編』より)

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