兵庫の農林水産品
 兵庫県は、日本の縮図とも言われるように、二つの海と広大で変化に富んだ地形、そして様々な気候が存在するなど他府県には類を見ない多様な自然環境を有しています。
 その多様な自然環境のもとで営まれる多彩な兵庫の農林水産業は、全国的に有名な産品を多く生み出しています。そして県内には、神戸・阪神の大消費地や食品関連産業が多数あって、多くの消費者・実需者にも恵まれています。
 ここに紹介する各地域の特産品は、生産者の努力と気候・風土が育んだこだわりの農林水産品ばかりです。
 なお内容については、平成15年3月にまとめられたものです。
【全国順位上位を占める主な農林水産物】
 全国1位に、山田錦(酒米)(シェア79.9%)、ズワイガニ(同31.2%)、ハタハタ(同21.5%)、ハモ(同17.1%)。
 全国2位に、イカナゴ(同22.5%)、ノリ養殖(同16.3%)、スズキ類(同13.5%)、アナゴ類(同10.9%)、タコ類(同7.7%)、カレイ類(同6.3%)。
 全国3位に、黒大豆(同7.0%)、たまねぎ(同9.3%)、レタス(同6.9%)、いちじく(同11.0%)、カーネーション(同10.7%)。
 その他全国トップクラスには、はくさい(8位)、二十世紀なし(6位)、びわ(8位)、花壇用苗もの(4位)、チューリップ(5位)、ブロイラー出荷羽数(9位)、生乳生産量(10位)。
(資料および写真は、兵庫農林統計協会から提供いただきました。)
●丹波黒大豆
1 地域の概要
 篠山市を中心とする丹波黒大豆の産地は、兵庫県の中東部に位置し、北と東は京都府の丹波、南は三田市、西は播磨と丹波の氷上郡に接し、地勢は中国山地の最東部に当たり、丹波高原の中に形成された盆地です。
 北部には県立自然公園多紀連山がつながり、瀬戸内海にそそぐ加古川、日本海にそそぐ由良川の上流にあたる地域です。
2 生産のはじまり
 丹波の黒大豆の歴史は古く1711年頃の篠山封譚誌に黎豆(クロマメ)を栽培し、土産としていたことが記されています。
 また、1918年の「多紀郡誌」によると、江戸時代中期に篠山藩主青山公が年貢を黒大豆で納めさせ、さらに精選したものを幕府に献納していた記録が残っており、振興に力を注いだとされています。
 これを機に江戸で黒大豆が全国的に有名になりました。
 明治時代の中期には博覧会で賞に輝いたことから宮内庁が買い上げるなど黒大豆の評価は一層高まりました。
 現在は「丹波黒大豆」として全国にその名を博しています。
3 生産の現状
 丹波地方を中心に古くから生産されてきた「丹波黒大豆」はその品質の高さから全国に知られています。
 世界−の大粒として知られ100粒では75gもあります。丸くて厚みがあり、大粒にもかかわらず裂皮は少なく、表面に白い「ろう粉」をふくのが外観上の特徴です。
 現在では生産調整の対応作物として主体的に取り組まれており、篠山市における転作面積の半分以上を黒大豆の栽培で占めています。
 また、近年は丹波黒枝豆が出荷されており、特産物として注目されています。
4 「黒大豆」栽培のはじまり!?
 黒大豆がいつごろから栽培され始めたかは記録にありませんが、篠山には次のような民話が語り続けられています。
「昔、旅の僧が病気で苦しんでいるのをみて庄屋が家で療養させました。ところが、その年は大干ばつで、村人は、よそ者を村に入れたためだといって旅の僧を追い出そうとし、白い大豆を炒って黒くし、これを植えて芽が出たら村に置くと難題を持ちかけました。僧は念仏を唱え一粒蒔くと、不思腫なことに芽が出て、秋には黒豆が実りました。村人は非礼を詫びて、以後その黒豆を大事に栽培し続けました。」
●岩津ねぎ
1 地域の概要
 岩津ねぎの産地である朝来町は、兵庫県の中北部に位置し、1、000m級の急峻な山々に囲まれており、山岳霊場の岩屋観音・青倉神社が、先人たちの広い信仰を集めたことでもよく知られています。
 かつて、錫精錬の町として栄華を極めた時代もありましたが、現在では、東洋−を誇る揚水発電所を中心にすえ「水と緑のロマン都市」を目指しています。
2 生産のはじまり
 岩津ねぎの歴史は古く、江戸時代、生野銀山が幕府直轄地として運営されたころに始まります。当時の生野代官所は、鉱山労働者の定住を促すために食料の増産と生鮮野菜の栽培を奨励しました。時の代官所役人が京都の九条ねぎの種を持ち帰り、栽培させたのが始まりであろうと伝えられています。
 明治36年発行の「朝来詩」によると、「享和3年(1803年)、岩津(津村子)にねぎを産す、佳品を以って称される」とあり、この頃からすでに栽培され、広く一般に評価されていたことがうかがえます
3 生産の現状
 JAたじま・朝来郡岩津ねぎ部会では、現在178戸の農家で栽培を行っています。
 出荷は毎年11月から翌年3月頃までの約5ヶ月間続きますが、最盛期には京阪神市場への出荷量が毎日1、200ケース(3kg入り)にのぼることもあって集出荷場は活気づきます。
 今後、平成17年の作付目標面積を25haの規模に設定していますが、拡大につなげるためには生産工程に省力用の機械(移植機・皮むき機など)の導入が早急に必要です。
 また、部会では経営に関する記帳を徹底することはもちろん、減農薬栽培を試みるなど、環境にやさしい生産に力を入れ、消費者から信頼される産地づくりに確信を持って取り組むことにしています。
 岩津ねぎは、九州の博多万能ねぎ、関東の下仁田ねぎと並ぶ日本三大名ねぎの一つとして全国的に有名です。
●淡路のたまねぎ
1 地域の概要
 たまねぎの産地淡路島は兵庫県の最南端に位置し、四方を海で囲まれています。
 北部は比較的傾斜地が多いものの、南部は三原平野が広がり淡路農業の中心地となっており、たまねぎもここで多く栽培されています。
2 生産のはじまり
 淡路のたまねぎ栽培は、明治21年外国より輸入した種子を南淡町(旧賀集村)で数戸の農家が試作したのが始まりといわれています。
 現在栽培されているのは、大阪府泉州から導入したもので、大正9年に約7haの栽培が行われ、当地方の集団栽培の始まりとなりました。
 大正10年には麦の価格が暴落したため、麦に替わる代用作物として各町村が奨励普及させました。翌11年には、三原郡各地で規模拡大の機運が熟し、急速に普及して、それに伴い市場性も認められ集団栽培体制が確立されました。
 戦時中、栽培面積は激減しましたが、戦後は栽培の範囲も概ね全島に広がり、昭和40年には全国第1位の生産量を誇る産地となりました。
 43年頃より北海道がめざましい進展をみせ首位の座を譲ったものの、今日全国有数の産地としてその名をとどろかせています。
3 生産の現状
 近年、淡路のたまねぎの作付面積は、後継者不足や高齢化、また、収益性の高い作物への転換が図られるようになり年々減少しています。
 このようななか、作業の軽減化を図るため、淡路のほ場に適した「収穫機」が普及し、さらには小型の「定植機」の普及が進められています。また、貯蔵形態を区分することにより周年出荷を行い、労力配分・出荷調整をしながら有利販売につなげています。
また、平成14年度からあわじ島農協では「JAあわじ島安全安心野菜システム」を構築し、「ほんまもん、安心・安全・信頼」をキーワードに、あわじ島ブランドの消費者の増加・定着を図るため取り組みを進めています。
●三原のレタス
1 地域の概要
 レタスの産地淡路島は、兵庫県の最南端に位置し、四方を海に囲まれた島国です。
 温暖な気候と消費地に近いという立地条件を生かし、三原郡を中心に多く栽培されており、平成10年には本州と結ぶ「明石海峡大橋」が開通し、さらに交通が便利となって京阪神の食料供給基地としてその名声を博しています。
2 生産のはじまり
 昭和37年、三原普及所の普及員が西淡町志知の農家のほ場で5aの試作展示をしてから翌年、志知・市・榎列地区で栽培が始まり、40年には阿万地区にも導入されました。
 同年、管内13農協が合併して三原郡農協が発足したことを契機に野菜の基幹作物として振興することとなり、産地育成と販売対策のためレタス部会を作って推進を図りました。
 44年に三原の冬レタスが、また、51年には春レタスが国の指定産地になり、現在ではたまねぎに並ぶ淡路三毛作の主流作目となっています。
3 生産の現状
 レタスの作付面積は増加傾向で、淡路の作付面積は昭和44年当時と比べると30倍近く増加しています。
 その要因としては、近年の食生活の変化からレタスの需要が仲び、淡路の基幹作物であるたまねぎに比べて収益性が高くなってきたことや、労働時間の多くかかる出荷作業を限られた労力で行えるよう、作型を組み合わせて出荷時期を分散させたこと、また、レタスをセロハンに包む「自動包装機」の導入により労働時間の軽減が図られたことも大きく貢献しています。
 淡路の三毛作は早<から行われており、今から20年前の組み合わせで多かった「水稲−はくさいーたまねぎ」は減少し、今では「水稲−レタスーレタス」「水稲−レタスーたまねぎ」の組み合わせが増加しており、なかには「レタスーレタスーレタス」の組み合わせも見られます。

●とどろき大根

1 地域の概要
とどろき(轟)大根の産地である関宮町は、兵庫県の中北西部に位置し、水ノ山・鉢伏山を中心とした連峰は「兵庫の屋根」と呼ばれ、周辺が「氷ノ山・後山・那岐山国定公園」に指定されています。
 氷ノ山山系には、ブナの原生林をはじめ、天然記念物のイヌワシが生息し、森と水の豊かさではほかに類をみないほど手つかずの自然を多く残しています。
2 生産のはじまり
 とどろき大根は、水ノ山の東尾根に位置する標高750mの杉ケ沢高原で栽培されています。
 昭和40年県営開拓パイロット事業により農地が造成され、基幹作物として栗・桑を、間作に夏だいこんを試作したのが始まりです。
 高原の冷涼な気候は、きめ細かく、みずみずしい品質に優れただいこんの生産にとっては最も適した条件でした。品質の良さは、市場においても大変好評を得て、今では夏だいこんの確固たる地位を築いています。
3 生産の現状
 昭和44年、生産戸数21戸、作付面積3haで発足した轟大根生産組合は、夏だいこんの主力産地として歩み始め、55年に国の指定産地を受けた後の58年には、最高の販売金額を記録するなど、地域の農業生産の先頭に立ち順調に活動を進めてきました。
 平成元年、但馬地域畜産基地建設事業による大区画の再造成やUターン者の出現など有利な条件が整ったものの、高齢化や後継者不足により、4年からは減少に転じ、13年には生産戸数13戸、作付面積17haとなりました。
しかし、同年にIターン青年3人が新規就農し、いずれも農業への関心は高く、若さに加え新たな生産活動の可能性に、生産組合はもとより地域においても大きな期待を寄せています。
●丹波やまのいも
1 地域の概要
 篠山市を中心とする丹波やまのいもの産地は、兵庫県の中東部に位置し、北と東は京都府の丹波、南は三田市、西は播磨と丹波の水上郡に接し、地勢は中国山地の最東部に当たり、丹波高原の中に形成された盆地で、県立自然公園多紀連山がつながる風光明媚な田園地帯です。
2 生産のはじまり
 丹波やまのいもの伝来については、江戸時代の初期に大阪府東能勢の妙見まいりのみやげとして持ち帰ったのが栽培の始まりともされています。
 明治の初期頃から販売を目的とした栽培が始まり、大正期に入って消費が拡大するにつれ、栽培面積も増加していきました。
 このころから農会によるー元集出荷が行われるようになり、仲買業者による取引が始まりました。
 昭和初期に入って、高級な作物として限られた生産の下で高い希少価値をもつ特産物として取り扱われてきたため耕種法は、篤農技術の色彩が強く出ていましたが、戦後、試験研究や消費動向の調査と相まって栽培の基礎が確立され、耕種法も著しい発展を遂げてきました。
 昭和36年頃から農協の系統出荷が始まり、周年出荷を目指して40年には低温貯蔵施設が完備され、丹波特産やまのいもとして不動の栽培地帯が形成され特産地の基礎が形成されました。
3 生産の現状
 丹波やまのいもは「キリイモ」と呼ばれ、丹波地方に降霜が始まる11月頃収穫を迎えます。
 近年、生産者の高齢化や連作が困難なことから栽培面積は延び悩んでいます。
 品種は、青山(あおやま)、高城(たかしろ)、三岳(みたけ)などがあります。
 流通・販売は、農協系続と独自の販売ルートとして古くから産地農家と結び付いた仲買人のルートがあります。
●但馬牛
1 地域の概要
 但馬地方は、兵庫県北部の豊岡市・城崎郡・出石郡・美方郡・養父郡・朝来郡の1市5郡で構成しています。
 中央には中国山脈が東西にのび「氷ノ山」をはじめ中心に1、000m級の山々がそびえ、その山間に深い谷がいくつも形成されています。
 この地形の影響もあって、降水(雪)量は多く、日照時間が少なく、夏と冬の気温較差が大きい独特な気候をもっています。
2 飼育のはじまり
 但馬地方に牛が渡来した時期は290年〜390年頃というのが定説です。―方で定かではありませんが家牛も古くから存在し、この牛が農耕に取り入れられたのは弥生時代(紀元前300年頃)であると伝えられています。
 古代、我が国における牛の使用について「続日本記」(797年)によると『出雲牛農耕に適す。五島牛農役に適す。但馬牛耕うん、輓用、食用に適す。』と記され、当時の牛の主な用途が農耕であったことがわかります。
 さらに同書には、『但馬は古来、牛を愛育し良畜を産す。』とあり、この地方が古くから良牛の産地であったことをよ<物語っています。
3 生産の現状
 神戸牛・松阪牛などの高級牛肉の素牛として評価が高い但馬牛ですが、子牛価格の動向を見ると、昭和50年代半ばにピークを迎えた後、−時下降しましたが、59年からは上昇に転じています。
 特に牛肉の輸入自由化が打ち出された63年以降は、高級嗜好が高まり、国内生産農家が但馬牛の血統を取り入れた改良を進めたため、平成3年のピークまで高値が続きました。
 最近の動向をみると、13年に発生したBSEの影響を受け、価格は大帽に下落しましたが、14年は回復傾向を見せています。
4 但馬の地形が生んだ蔓(つる)
 蔓とは優良な和牛の系銃をいい、その系銃の特性が固定され、産まれてくる子牛の多くは良い特質を備え持っています。またその系銃を備えた牛を蔓牛といいます。
周囲を山で囲まれ、他地域の牛の交配が困難であった但馬では、その谷あいの中だけで交配が続けられました。その結果、美方郡東部の「あつた蔓」、美方郡西部の「ふき蔓」、城崎郡の「よし蔓」、養父郡の「やぎだに蔓」、出石郡の「いなきぱ蔓」などの素璃らしい蔓がつくりあげられました。
 これらの但馬牛の子牛が素牛として県内外の産地に売られ、神戸牛、三田牛、松坂牛などに育てられているのです。

●ワインぶどう

1 地域の概要
 ワインぶどうの産地である神戸市は、瀬戸内海に面し、古くから貿易港として発展を遂げてきました。総面積は594.81平方kmで県下−を誇り、人□も県全体の4分の1を占める県下最大の都市です。
2 生産のはじまり
 「神戸ビーフに神戸ワイン」のキャッチフレーズのもとに神戸市園芸振興基金協会(神戸市、北農協、西農協)が昭和54年からぶどう栽培に着手しました。
 ワインの製造も許可され、押部谷町高和の農業公園内にワイン工場「ワイン城」を建造し、昭和58年から本格的醸造に入り、神戸の新しい特産を目指しました。
 本県のぶどう栽培の歴史は古<、明治12年に内務省勧農局でぶどうに関する試験場開設の企画が具体化しました。
 当時の加古郡長北条直正は、ぶどう園設置を陳情、勧誘に成功し、土地30haをひとまとめにして買収、翌13年国営ぶどう園が印南村に開園されました。ここでの事業の結果が我が国のぶどう作りに対して貴重な基礎資料を提供しています。
3 生産の現状
 ワインぶどうは、神戸市西区押部谷町・平野町、北区大沢町で栽培されています。
 品種は、赤ワインは「力ベルネソーヴィニヨン」「メルロー」、白ワインは「リースリング」「シャルドネ」などのヨーロッパ系ワイン専用品種を使用しています。
 栽培は、ヨーロッパ式垣根栽培といわれる方法で行われており、棚栽培に比べて1本の樹になる房はかなり少量ですが質が高くなり、また、管理がしやすいのが特長です。
 現在、財団法人神戸みのりの公社が管理運営を手がけています。
●香住の二十世紀
1 地域の概要
 二十世紀なしの産地香住町は、兵庫県北部にあり、北側を日本海に面し、但馬海岸のほぼ中央に位置しています。
 海岸一帯は山陰海岸国立公園に指定されており、日本−のトレッスル式余部鉄橋や沈降海岸の美しさを求めて多くの観光客が訪れます。
 また、磯の香りとともに松葉がにをはじめとする多くの魚介類が水揚げされていますが、これら海の幸と山の幸「なし」がふるさとの味として存在するのもこの町の特徴です。
2 生産のはじまり
 現在の海に面したなし栽培の中心地域住民は当時、耕地が狭小なことから、米・麦の栽培により生計を立てることができず、海と山の両方にその活路を求めざるを得ませんでした。
 以前より隣県鳥取県のなし栽培についての関心は深く、後に大きな影響を受けることになります。
 本県におけるなしの栽培は、大正14年矢田地区の山田虎蔵氏が長十郎を5a栽植したのが始まりとされています。
 また、二十世紀なしの栽培についても、昭和4年、矢田地区に委託試験場を設置し、沢井長次郎技師の指導のもとに二十世紀なし58本を栽植したのが始まりとされています。
3 生産の現状
 昭和11年に県の集団生産地の指定を受けたことにより、農家が栽培意欲を高め、翌年には15ha、40年には100haの栽培規模となりました。
 しかし、生産量県下一を誇る生産地も生産者の高齢化に加え、傾斜地での作業効率の悪さなどにより減少を続け、現在ではピーク時の半分程度の栽培規模に落ち込んでいます。
そうしたなか、省カ的で労カ分散可能な晩生品種の定着を目的として、平成9年には「晩生梨研究会」が設立され「二十世紀なし」「晩生なし」による産地化に力を入れています。
4 日本でのなしの栽培の歴史
なしは「日本なし、洋なし、中国なし」の3種に大別されますが、日本でなしといえば日本なしのことで和なしともいいます。日本なしは果肉が堅く、サクサクした歯触りが特檄で。多汁ではありますが芳香は少ないです。最近では果肉のやわらかい改良種が開発されています。
 日本なしは弥生時代の登呂遺跡で種子が発見されたことから、日本で最も古い栽培果樹の一つといわれています。江戸時代には果樹園での集約栽培が盛んに行われ、たくさんの品種が作られました。明治20年代に、長+郎、二十世紀の二大品橿が育成され、大正時代以降に品種改良が進み、三水と呼ばれる「幸水、豊水、新水」が広<普及しました。
●綾部山のうめ
1 地域の概要
うめの産地綾部山梅林は、兵庫県南西部に位置する御津町にあり、広大な綾部山の山腹から山頂に至るまで、2万本の梅が山を覆い尽くしています。
 また、山頂に立てば瀬戸の海が一望できる眺望絶景地として知られています。
2 生産のはじまり
 綾部山梅林の歴史は比較的新しく、昭和43年に加工用梅林として、標高144mの綾部山を開墾したことに始まります。以降10年、梅酒用の最高品質として折紙がついている玉英を主とした梅園が誕生しました。
 昭和51年には、観梅園として開放し、美しい海岸線、なかでも新舞子の砂浜、七曲りの海岸など景観を生かした西日本一の梅林を目指し、今では「ひとめ2万本、海の見える梅林」として多数の観光客に親しまれています。
 当初は、47戸の農家による任意組合で管理を行っていましたが、49年には生産法人の認定を受け黒崎梅園組合として現在に至っています。
3 生産の現状
 現在、黒崎梅園組合では24haを35戸の農家で管理運営を行っています。
 品種は栽培面積の7割を占める玉英(梅酒用)のほか林州(梅干し用)や小梅(梅干し用)で、それらを中心に年間約50tを出荷しています。
 また、加工品としては梅園で名物の「梅べんとう」や梅干し、梅ジュース、梅ジャムを手がけており、平成8年からは玉英を使った梅ワインの生産も始めています。
 2月上旬から3月中旬までは、観梅を楽しむことができ、綾部山―面が紅白に彩られ、14年は約9万人の観光客が訪れました。
組合長は「開園から30数年が経過し、生産者の高齢化と樹木の老齢化が進み、課題は多いですが、現状を維持していきたい。」と話されています。
●松葉がに
1 地域の概要
 「松葉がに」は、兵庫県、鳥取県、島根県などの山陰沿岸で水揚げされているずわいがにの雄がにの呼び名で、兵庫県では、豊岡市、竹野町、香住町、浜坂町で水揚げされています。
2 漁獲のはじまり
 松葉がに(ずわいがに)が農林水産省統計表に品目として計上されたのは昭和26年で、当時の漁獲量は全国で5、363t、うち兵庫県は1、834tで全国に占める割合は34%でした。
 松葉がにの需要が高まり始めたのは、その10数年前からで、それ以前は需要も少なくあまり漁獲されていなかった模様で、全国的に漁獲量が急増したのは30年代に入ってからです。
 松葉がには日本海の水深200〜500mの海底に生息しているため、但馬の中心漁業である「沖合底びき網漁業」により水揚げされています。
「沖合底びき網漁業」は20t〜100 t の大型漁船で海底に網(ロープの長さ1、000m〜2、000m)を入れて漁獲します。松葉がにのほかに、かれい類、はたはた、にぎす、えび類などもこの漁法で漁獲されています。
 昭和30年代後半のピーク時には5干t〜6干tの漁獲量がありましたが、乱獲の影響で平成に入ってからは漁獲量が20分の1にまで減少しました。
 このため平成3年から資源保護策として、魚礁づくりや保護区の設定、稚がにの再放流事業、また、漁業者の自発的な禁漁区の設定などに取り組みました。
 これらの結果、ここ数年漁獲量は回復傾向にあります。
3 漁獲期間
 雄がに(松葉がに):11月6日〜3月20日
 雌がに(せこがに・子持ちがに):11月6日〜1月10日
 水がに(脱皮直後のかに):12月21日〜3月20日
4 松葉がには名前もち
 「松葉がに、ずわいがに、越前がに」どれも憲華な冬の昧覚ですが、これらは地方によって呼び方が違うだけで、全て同じ「かに」です。
標準和名がクモガニ属ズワイガニ科ズワイガニで、山陰地方で獲れたものを「松葉がに」。北陸で獲れたものを「越前がに」と呼んでいます。さらに雌はまた別の呼ぴ方があり、せごがに、せいこがに、子持ちがに、こっぺなどと呼ぱれています。
●西播磨のかき
1 地域の概要
 養殖かきの主な産地は、兵庫県の南西部に位置し、相生市や赤穂市をはじめとする西播磨の瀬戸内海沿岸で営まれています。
海岸線は深く湾入し兵庫県の瀬戸内海では珍しく自然の海岸線を残しています。
2 養殖のはじまり
 この地域は古くから地先の岩場に付着する天然かきや、入江の浅瀬に石垣を積んでかきの付着場を作り、これに付着するかきを採取してむき身にし出荷していました。
 相生市の相生漁協では昭和53年、岡山県からかき養殖の技術を導入し、かき生産の復活を試みたところ成育もよく、まれにみる良質のかきが生産されました。
 赤穂市の坂越漁協でも同じ頃、岡山県から指導員を迎え工夫を重ね養殖技術を確立していきました。
 両漁協ともに50年代後半から養殖に力を入れるようになり、その後近代的・衛生的な加工施設を建設し、本格的な生産・出荷体制が確立しました。
3 生産の現状
 相生漁協・坂越漁協でのかき養殖はいかだ式と呼ばれる方法により行われています。
 ホタテ貝の殼にかきの種を付けたものを約5〜7mのロープに約10cm間隔で付けて、竹で組んだ筏に1台当たり約1000本を吊します。
 種付けは5月から始まり、収獲は毎年10月頃から翌年3月頃まで行われています。
 現在、相生・坂越漁協で併せて295台のいかだを浮かべ、年間約5千t(殼付き)を出荷しています。
  「海・森・川」からの大自然の恵みで生育するかきですが、いかだの台数制限や海底清掃など人間のたゆまぬ努力により漁場の資源管理を行っていることが、かきの生育に好条件をもたらしています。
●兵庫ののり
1 地域の概要
 兵塵県は佐賀県と並ぶ全国有数ののりの産地で、東は神戸市、西は赤穂市、南は淡路島と瀬戸内海一円で養殖業が営まれています。
2 養殖のはじまり
 本県では、日本海において天保14年(1842年)の『広益国産考』に「但馬国木の崎辺の海より浅草のりに似たもの産せり」と記されており、かなり有名であったことがうかがえます。
 瀬戸内海においては、『日本物産学引』によれば明治8年(1875年)になって初めて網干が登場しています。
 瀬戸内海の養殖が本格化したのは大正15年で、三重県から種子を導入して始められました。
 昭和初期に入って、遠浅の海岸を持つ網干・赤穂の両地区で営まれていましたが、満州事変(昭和6年)以降は養殖漁場が軍需工場敷他に埋め立て転用されたため減少し、太平洋戦争ぼっ発前後からは壊滅状態になりました。
 30年代に入り、赤穂や網干に採苗場が新設されたことから、のり糸状体の培養が行われるようになり人工採苗が普及しました、また、乾燥機等の加工設備の改良によってようやく生産量は上向きに転じました。40年代に入ると浮き流し式養殖による新漁場が開発され、さらに、のり種網の冷凍保管及ぴ養殖技術の進歩と併せてのり養殖が急速に拡がりました。
3 生産の現状
 明石海峡を中心とした潮流の早い漁場で育まれた『兵庫のり』は、潮と寒冬の季節風にもまれ、やや硬いものの、その分色が黒くつやが良いのが特徴です。
 平成13年度は共販量17億350万枚、共販金額157億675万円で全国生産の約2割を占めています。集荷された乾のりは「乾のり共販事業」を通じ、全国ののり問屋等に販売され、これら生産された『兵庫のり』は、全国的にも業務用のブランド品として位置付けられ、焼きのり、味付けのり等に加工し全国で販売されています。
『兵庫の特産』平成15年3月(近畿農政局兵庫統計情報事務所 編集、兵庫農林統計協会 発行)より
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