横溝正史と神戸
  (郷土史にかかる談話 12)

横溝正史と神戸

 戦後、最大の探偵小説のブームを巻き起こした横溝正史
舞台は、岡山・兵庫播磨の奥地、瀬戸内海の小島、東京のお屋敷街のほか、神戸の新開地、須磨、淡路など。
 急激な近代化を進めている社会情勢に抗するかのような時代遅れの風采の上らない和服、もじゃもじゃ髪とよれよれ帽子で現れ、都会の荒廃や戦後の没落華族、田舎の古い因習や地縁血縁、倒錯した性モラルなどを織り込んだ複雑怪奇な事件を次々と推理し解決する名探偵金田一耕助が活躍する。
(左写真は、東川崎公園内の横溝正史生誕地の碑)
 このおどろおどろしい「横溝ワールド」を生み出した偉大な探偵小説作家は、神戸の繁華街と造船工場のある新開地周辺が生誕地で、ここで幼少青年期を過ごしました。
 横溝正史は、1902年(明治35年)5月24日、父・宣一郎、母・波摩の三男として、新開地の近く川崎造船所の製缶場赤煉瓦塀が連なる道に面した東川崎町3丁目に生まれました。(JR神戸駅の西南、ハーバーランド西隣地域)
生誕の地:碑より東に数10m、川重神戸工場敷地内、東川崎3丁目
繁華街、新開地本通の南口付近
川崎重工業重神戸工場(元、川崎造船所)正門
 その後、1909年(明治42年)4月東川崎尋常小学校に入学、1913年(大正2年)には近くの7丁目101に転居。
1915年(大正4年)に神戸ニ中に合格し、ニ中2年の時に探偵小説好きの友人(西田徳重)と机を並べたのが探偵小説に興味を持ち始めました。1920年(大正9年)にニ中卒業。当時、神戸のウォール街と称されていた栄町通の第一銀行神戸支店に勤め始めました。しかし、同年秋、友人西田君が急死し、引き続き探偵小説翻訳家であった彼の兄との交際が深まったことが探偵小説にのめり込む契機となったようです。 
薬局:実家の生薬屋「春秋堂」があった周辺。東川崎7丁目101

神戸第ニ中学校:現在の県立兵庫高等学校(神戸市長田区)

第一銀行神戸支店(神戸市中央区)
 その頃、処女作「恐ろしき四月馬鹿」を創刊間もない「新青年」に投稿、一等に入選します。1921年(大正10年)4月に1年勤めただけの銀行を退社して、家業を継ぐため、大阪薬専に進学しました。
  翌年、江戸川乱歩との運命的な邂逅。1926年(大正15年)9月には乱歩の招きで上京する。博文館入社。1927年「新青年」編集長。1932年(昭和7年)廃刊に伴い退社。専業作家となります。
 しかし、突如吐血し、結核と判明。その後信州にて養生6年間を過ごしました。
 その後、1939年(昭和14年)に帰京して、「人形佐七」シリーズを執筆。
1945年(昭和20年)4月、激しくなった空襲を逃れて、両親の出身地岡山(吉備郡真備町岡田:倉敷市真備町)に疎開。ここで終戦を迎え、戦中には書ける情勢ではなかった本格的推理小説を手掛けます。
 名探偵金田一耕助という戦後一大ヒーロー・キャラクターの登場です。この命名には、東京で戦時中隣組だった金田一春彦の父京助の一字除いて借用されたとか。この時期、近隣から青年たちが訪れ、日本の農村社会に語り継がれている伝説や口碑が大いに横溝を刺激したそうです。
 そして、昭和40年代半ばに熱狂的ブームが訪れ、文庫本の大普及を背景に、映画やテレビドラマに何回も取り上げられるようになりました。
 金田一耕助が活躍する有名な作品には、下記の名前を見ただけでも、映画やテレビドラマの画面が思い出される方も多いでしょう。
「本陣殺人事件」、「獄門島」、「八つ墓村」、「犬神家の一族」、「悪魔が来たりて笛を吹く」、「三つ首塔」、「悪魔の手毬歌」、「悪霊島」、「病院坂の首縊りの家」などなど。
 横溝正史は、神戸第二中学校(現在の県立兵庫高校)を大正9年に卒業(8回)された大先輩(私は49回)にあたります。この偉人を顕彰するものとして、東京都世田谷区成城にあった横溝の書斎(1955年建築)が、山梨県山梨市に移築され、2007年3月25日より「横溝正史館」として公開されています。
 なぜ、生誕地の神戸新開地ではないのか。後輩として、また郷土史探訪ツーリズムの振興を標榜する者として残念でなりません。
(2009年8月)
※朝日新聞出版DVD『横溝正史&金田一耕助シリーズ』に写真提供(2014年10月)
郷土史の談話室
(14)名探偵金田一耕助とひょうご

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