平清盛が目指した大輪田の泊・兵庫津の賑わいを辿る
 (郷土史にかかる談話 32)
 古来から、中央政権の都との交通物流の要衝として、都を目指す瀬戸の海を行き来する船舶・人々がやってきた浪速津(大阪)の対岸に見えた務古(武庫=むこ)の浦の重要拠点、大輪田の泊(兵庫津)は、和田岬によって風のさえぎられた天然の良港で、代々、繁栄と衰退を繰り返しながら発展してきました。
 特に、12世紀に権勢を振るった平氏の頭領、平清盛がこの地、福原、大輪田に注目して国際港湾を抱えた都の整備を進めたことから、現在の神戸の発展の基礎を築いたのです。
 このように、新興都市と言われた神戸も、奈良や京都に劣らず日本の長い歴史の舞台として、今も語り継がれ、特にこの兵庫津周辺(東西1.5q、南北2qの狭い地域)には縁のものが数多く伝わっているのです。神戸の歴史を通観できる歴史探訪の街でもあります。地図と解説書を持って、散策されることをお薦めします。(2011年12月)
兵庫県立兵庫津ミュージアム「初代県庁館」と「ひょうごはじまり館」が2021年と2022年に相次いでオープン!

 ここ「兵庫津」には、明治4年の廃藩置県に先駆けて1868年(明治元年)に兵庫県が誕生し、最初の県庁舎としての「旧大阪町奉行所兵庫勤番所」が置かれました。
 県立兵庫津ミュージアムには、この度最初の県庁者を復元した「初代県庁館」と、兵庫津の歴史や県の成り立ちや兵庫五国の魅力・多様性を発信する博物館「ひょうごはじまり館」があります。
  「初代県庁館」は2021年(令和3年)11月にオープン、「ひょうごはじまり館」は2022年(令和4年)11月オープンしました。


初代県庁館

ひょうごはじまり館


初代県庁館入り口


県庁舎玄関

伊藤博文も使った知事デスク

「初代県庁館」の見取り図

3次元映像でのバーチャル空間の説明

日本庭園

「清盛隊」のレビュー
●奈良時代、平安時代
 記録が残り始めた奈良時代には、「大輪田」と呼ばれ、摂津・播磨地域での重要な港「摂播五泊」の一つとして発展しました。しかも、大輪田の少し北側(県立兵庫高校の南、室内周辺)には、「兵庫」の名の由来となった兵器庫が設けられていました。
 その後平安時代には、嵯峨天皇が勅をもって大輪田の泊を修理(812年)させたり、三善清行の泊修築の意見具申(914年)などがあります。
※摂播五泊=河尻(尼崎)、大輪田(兵庫)、魚住(明石)、韓(からさき、的形)、室津(姫路)の五つの港が、奈良時代、高僧行基によって整備された。
 この頃までに、この和田岬周辺においては、神功皇后ゆかりの三石神社(602年)、行基菩薩開基の薬仙寺(746年)、唐から帰朝した伝教大師の能福寺(805年)、菅原道真を祭る柳原天神社(901年)、 以前からのものを清盛が修法したという和田の燈籠堂跡(三石?)、元は西国街道近くにあった神明社、柳原のえびすさん柳原蛭子社などがありました。

三石神社

薬仙寺

能福寺

柳原天神社

和田の燈籠堂跡か

神明社

柳原蛭子社
     
●平清盛の登場
 そして、大輪田の泊を飛躍的に発展させた平清盛が登場してきます。平治の乱(1159年)の後、この地(摂津国八部郡)に注目(1162年)した清盛は、福原に住まいし(1169年)、日宗貿易の拠点として大輪田の泊を経ヶ島を築造(1173年)して大修築工事を施し、遂には福原に遷都(1180年)しました。半年で京都に戻りますが、清盛が死去(1181年)した後の源平合戦により、平家は滅亡(1185年)してしまいます。
 この頃の大輪田の地には、港の守り神で七宮神社(1161年)、元蛭子の森にあった和田神社、西出町の鎮守稲荷神社(1170年頃)、平清盛遺愛の範国寺の時雨松の碑(1170年頃)、最近発掘された津の基礎石の大輪田石椋(いわくら、1171年)、経ヶ島築造のために削り取った塩槌山跡(1173)、元は来迎寺だった築島寺(1173年頃)、経ヶ島築造の人柱となった松王の碑(1173年頃)、隆善法師開基の金光寺(1173年)、清盛が後白河法皇を押し込めたという萱の御所跡(1180年)、清盛の愛妾を祭る妓王塔(1180年頃)、鎌倉初期の歌人にも詠われた和田の笠松跡(1192年)が記録に現れてきます。

七宮神社

和田神社

鎮守稲荷神社

時雨松の碑(福海寺)

大輪田石椋

塩槌山跡

築島寺

松王の碑(築島寺)

金光寺

萱の御所跡(薬仙寺)

妓王塔(築島寺)

和田の笠松跡
     
●鎌倉時代、室町時代、戦国時代、安土桃山時代
 戦乱後の修築(1196年)が重源によって行われ、大輪田の泊から「兵庫津」と呼ばれるようになった。その後、経ヶ島に「兵庫関」(1308年)が設けられたが元寇で活動低下。湊川の合戦(1336年)を経て日明貿易(1404年)で賑わいを取り戻す。この頃は、兵庫津は正に瀬戸内海の海運の一大拠点として発展していることが、最近発見(1964年)された「兵庫北関入舩納帳」(1445年)からも窺えます。が、応仁の乱(1467年)でまたまた灰燼に帰した兵庫津は、その後の繁栄が見えて来ませんでした。戦国時代を越えて、池田摂津国太守によって兵庫城(1581年)が築かれ、この頃になると、西国街道沿線の繁栄が見えてきます。
 この地に縁のものは、土佐に配流途中寄港された法然上人の碑・千僧跡(1207年)、浄音上人開基の阿弥陀寺(1271年)、北条貞時が建立したお墓ではなかった十三重塔の清盛塚(1286年)、遣唐僧の恵萼が草創した真光寺(1289年)、真光寺でお亡くなりになった時宗の開祖の一遍上人廟(1289年)、清盛の弟経盛の子の平経俊塚(1300年)、後醍醐天皇ゆかりの福厳寺(1333年)、病床の後醍醐天皇にこの霊水を献上したという薬仙寺の湧水(1333年)、足利尊氏が在庵に開山させた福海寺(1334年)、魚族の供養のための魚の御室跡(1336年)、湊川の合戦ゆらいの和田の遠矢碑と松跡(1336年)、室町以前からの旧家の正直邸跡、古代からの旧家豪商の北風邸跡、楠木正成の首を洗ったという楠公石(1336年)、錦江省文禅師が創建した恵林寺(1346年)、日融上人開祖の法蓮寺(1394年)、日隆上人開基の浜の寺と呼ばれた久遠寺(1429年)、北風家の菩提寺だった藤の寺(1447年)、荒田にあったが江戸時代にここへ移った湊八幡社(1483年)、西国街道の兵庫城下への東門の湊口惣門跡(1581年頃)、同じく西門の柳原惣門跡(1581年頃)、池田信輝が築造した兵庫城跡(1581年)、兵庫の町の外郭堤防だった都賀堤跡(1581年)が残っています。

法然上人の碑・千僧跡

阿弥陀寺

清盛塚

真光寺

一遍上人廟(真光寺)

平経俊塚(鎮守稲荷神社)

福厳寺

薬仙寺の湧水

福海寺

魚の御室跡(阿弥陀寺)

遠矢碑と松跡

正直邸跡

北風邸跡

楠公石(阿弥陀寺)

恵林寺

法蓮寺

久遠寺

藤の寺

湊八幡社

湊口惣門跡

柳原惣門跡

兵庫城跡

都賀堤跡
   
●江戸時代
 長期安定期に入った徳川幕府は、瀬戸内海の西廻り航路開設(1672年)、兵庫津周辺の西国街道宿駅の整備により、外国の使節、参勤交代など、瀬戸内海における人々の往来、物流の最大拠点として興隆発達しました。地場旧家豪商の正直屋(?井家)、北風家に、高田屋嘉兵衛たちが活躍。兵庫津は大層な賑わいを続けてきました。
 この頃には、西国街道の本宿で多くの本陣・脇本陣跡、港があったためか珍しい浜本陣跡、幕府の高札場だった札場の辻碑、津の自治行政を担った北浜惣会所跡、同じく南浜惣会所跡、浜に面していない町の自治行政を担う岡方惣会所などが整備され、元古墳跡だったが平経正の塚と呼ばれるようになった琵琶塚(1680年)、 松右衛門帆を発明した工楽翁墓(1785年)、 淡路の豪商の船問屋の高田屋本店跡(1790年)、海の豪商を称える高田屋顕彰碑(1792年)、兵庫の魚を禁裏調達した生洲跡(1796年)、海上交通安全を祈って献上された高田屋献灯籠(1800年)、佐比江の港を守っていた竹尾稲荷神社(1813年)、江戸末期に開拓された吉田新田の碑(1833年)、黒船以来の摂海防備のため勝海舟が設計した和田岬砲台(1864年)、津の賑わいで人があふれるため迷子石(1865年)、などが伝わっています。

本陣・脇本陣跡
浜本陣跡

札場の辻碑

北浜惣会所跡

南浜惣会所跡

岡方惣会所の碑

琵琶塚

工楽翁墓(八王寺)

高田屋本店跡

高田屋顕彰碑(竹尾稲荷神社)

生洲跡

高田屋献灯籠(鎮守稲荷神社)

竹尾稲荷神社

吉田新田の碑

和田岬砲台

迷子石(湊八幡神社)
     
●明治維新から昭和初期
 新政府とともに、兵庫津も新しい動きが顕著になります。諸外国への開港(1868年)により、兵庫津周辺(旧湊川以西)は「兵庫港」、その東に居留地を設営して「神戸港」となった(1892年)。 表玄関となった神戸港の後ろ盾として、兵庫港周辺(旧兵庫津)は、運河、鉄道などのインフラ、教育インフラなどの整備に併せて、主流産業が次々と進出立地し、日本の近代化、殖産興業を支える基地、神戸の屋台骨として、ますます発展しました。
 明治維新の国際騒動の犠牲になった滝善三郎碑(1868年)、九条公爵家の拝殿だった月輪影殿(1868年頃)、兵庫鎮台から裁判所の名称を経て最初の兵庫県庁跡(1868年)、神戸で最初の学校だった明親館跡(1868年)、 文学の拠点として漢学塾慎明舎跡(1868年)、戦時の金属回収令により出征された旧兵庫の大仏(1870年)、鬱蒼とした木々の景勝の地だった和田山の開拓(1870年)、港の拡張と振興のために神田兵右衛門らによって掘削された新川運河(1875年)、 兵庫駅から港周辺を連絡開通した鉄道和田岬線(1888年)、和田岬沖を迂回しないで航行できる兵庫運河(1889年)、私営の遊園地と博覧会協賛施設だった和楽園と水族園跡(1890年)、能福寺の縁起を英語で紹介したジョセフヒコ英文碑(1892年)、 明治期の神戸日本の成長を支えてきた川崎造船所(1896年)、幕末明治に活躍した北風家頭首の北風正造の碑(1896年)、新川掘削に併せて大阪から分霊された兵庫住吉神社(1898年)、今は女子寄宿舎が病院に活用されて残る鐘淵紡績兵庫工場(1905年)、現在も神戸の主要産業を構成する三菱神戸造船所(1905年)、明治の神戸の近代化を導いた神田兵右衛門の顕彰碑(1911年)、 扇の港と称せられた神戸港の開港50年を記念した扇港50周年碑(1918年)、兵庫運河建設の功労者の八尾善四郎の銅像(1919年)、アメリカ由来の庶民が祀るビリケンさん(1920年)、惣会所跡に造られた会館の旧岡方倶楽部(1927年)などが見られます。

滝善三郎碑(能福寺)

月輪影殿(能福寺)

兵庫県庁跡

明親館跡

漢学塾慎明舎跡

旧兵庫の大仏(能福寺)

和田山の開拓

新川運河

鉄道和田岬線

兵庫運河

和楽園と水族園跡

ジョセフヒコ英文碑(能福寺)

川崎造船所

北風正造の碑(能福寺)

兵庫住吉神社

鐘淵紡績兵庫工場

三菱神戸造船所

神田兵右衛門の顕彰碑(和田神社)

扇港50周年碑

八尾善四郎の銅像

ビリケンさん(松尾稲荷神社)

旧岡方倶楽部
     
●戦後から現代
 戦災からの復興、高度経済成長と産業構造の変化、阪神・淡路大震災などを経て、多極化広域化した神戸にあって、いま直、中心地であることには変りはない。現在、私達が見ているものが全てであるが、エポックとなるものは輝いている。
 空襲で橋のたもとで亡くなった多くの犠牲者を鎮魂する大輪田橋戦災碑(1945年)、鎌倉時代の印塔と併せて神戸の偉人平清盛の供養塔を造った八棟寺殿平相国廟(1980年)、再開眼された日本三大仏の一つ兵庫大仏(1991年)、新川沿いに造られた散策道で再整備されたキャナルプロムナード(1995年)、阪神淡路大震災で倒壊したが鋼鉄製で再建された和田神社大鳥居(1996年)、同大震災の後に建立された阿弥陀寺の石碑(1996年)、競輪場から球技場そしてサッカーのワールドカップに併せて改装された神戸ウィングスタジアム(2001年)など。
 また、兵庫県立兵庫津ミュージアムの「初代県庁館」(2021年)と博物館の「ひょうごはじまり館」(2022年)が相次いでできました。

大輪田橋戦災碑

八棟寺殿平相国廟(能福寺)

兵庫大仏

キャナルプロムナード

和田神社大鳥居

阿弥陀寺の石碑

神戸ウィングスタジアム

初代県庁館

ひょうごはじまり館

●兵庫〜平清盛が、最後に夢をかけた場所〜
かって日本の首都を兵庫においた男がいる

 たった半年の幻の都、福原京。

 平清盛はなにを想い、なにを兵庫に託したかったのか。

 63歳。男が最後に貫きたかったものがある。
 英雄か。暴君か。歴史に消えた物語を感じる旅へ。
 彼以降、遷都を成し遂げた武将は一人もいない。
●偉人、平清盛に迫る〜暴君説はウソだった!?
 悪逆非道の男、清盛。果たしてその人物像は正しいものだったのか。専門家の研究を改めて検証し、真実の姿を追った。
@窮地からの逆転劇、知略を武器にした常勝将軍
A神戸港の繁栄を、平安時代に描いた男
B鎌倉幕府以前に、武士政権を樹立した革命家
C情に厚く、だれよりも部下を信頼した指導者

清盛塚

雪見御所旧跡
●福原京の夢〜清盛、最後の願い〜

 既成の枠に囚われることなく自分の道を突き進んだ清盛、その行動は時代に大きなインパクトを与え、人々の心を激しく揺らした。反平家の反乱が全国化し、わずか半年で幕を閉じた「福原京」。彼が兵庫に託したかったものとは。彼が描いた日本の未来とは。@国際貿易都市の建造に、日本の未来を託した清盛
A福原京が目指した、新しい国家のかたち

古代大輪田泊の石椋

荒田八幡神社
●清盛の夢路をたどる旅

(1)大輪田泊を巡る
@来迎寺(築島寺) →(1分)→ A古代大輪田泊の石椋 →(5分)→ B金光寺 →
→(3分)→ C能福寺 →(7分)→ D清盛塚 →(5分)→ E薬仙寺 →(9分)→
→ F和田神社

(2)福原京を巡る
@荒田八幡神社 →(15分)→ A祇園神社 →(7分)→ B雪見御所旧跡 →
→(15分)→ C氷室神社 →(7分)→ D熊野神社 →(15分)→ E願成寺 →
→(15分)→ F厳島神社
●兵庫に眠る源平の物語〜清盛と源氏のそのゆかりの地をめぐる
 後白河上皇の皇子「以仁王」の反乱が火種となって始まった源平合戦。源頼朝、木曽義仲、武田信義が次々と挙兵するなかで、 最高権力者であった清盛が病死。巨星を失った平家勢力は京都から落ち延び、福原へと戦場を移すことになる。兵庫を舞台にした「一の谷合戦」は、 追いつめられた平家と、勢いに乗る源氏の命運をかけた戦いでもあった。
(1)一の谷の合戦で描かれる、人間と人間の物語
(2)兵庫の各地に残る清盛・源平ゆかりの地

 源平合戦にまつわる史跡・伝説が、現在も数多く残されている兵庫。清盛の夢路をたどった後に、彼が愛した家族の最期や各エリアの落人伝説を訪ねてみるのも面白い。

平敦盛と熊谷直実の一騎打ち像(須磨寺)
※「兵庫〜平清盛が、最後に夢をかけた場所〜」関連のキャンペーン資料は、兵庫県産業労働部観光局観光振興課から提供いただきました。
 
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