戦国播磨の英傑、黒田官兵衛
 (郷土史の談話 49)
戦国播磨の英傑、黒田官兵衛
御着城跡の黒田官兵衛顕彰碑
 戦国時代、播磨に生まれ、織田信長や豊臣秀吉や徳川家康の下で天下統一を成し遂げた黒田官兵衛孝高は、稀代の軍師と言われています。
 当時、播磨の一地域を押えていた小寺氏の家臣で姫路の城代家老をしていた父、黒田職隆の嫡男として生まれ、16歳の時に増改築した姫路城普請見聞に訪れた主君の小寺政職に見出されて主君の直属に召され、 17歳の初陣・著しい働きで認められ官兵衛を名乗る。22歳で東近隣の志方城主の娘を妻に迎え、隠居した父に代わり小寺家の家老・姫路城主となった。
 その後、織田信長側に組して、西の雄、毛利氏と戦い、本能寺の変に際して明智光秀を討つべく中国大返しを進言したり、関ヶ原の戦いにおいては離れた地、九州からの制覇を試みるなど、その存在はとみに高い。
  官兵衛のイメージは、一般的に「軍師」と万人認めるところ。しかし、これは官兵衛の人物像が巷間に余り知られていなかったところに、司馬遼太郎氏が書かれた『播磨灘物語』が有名になり、稀代の軍師、秀吉付きの「ナンバー2」とのイメージが浸透し、天下の策士・謀略家であるとされてきた。
 播磨での誕生、成長、武人として大き動いてきた内容を読み解いていくと、違った新しい官兵衛像が浮かび上がってくる。無骨な武人だけでなく一級の文化人・知識人であったし、一介の軍師に留まらず、時の趨勢をリードして行くであろう織田信長や豊臣秀吉の側に居て、その行動を示唆・観察しながら、 あわよくば天下が狙え得る有力な戦国大名として千載一遇のチャンスを窺っていたとしか思えない動きが際立ってくる。
 官兵衛の生涯を年代毎に追って、そのあたりから読み取れる官兵衛とはどんな人物で、何を目指していたのか、検証してみましょう。

黒田氏の発祥地は定説(黒田家譜)で近江国の木之本(滋賀県長浜市)とされているが、播磨国の黒田庄(兵庫県西脇市)とする説(播磨鑑など)もある。当時の戦国大名と同じく本当にルーツは不明です。(写真左:本黒田駅の「黒田官兵衛生誕地」の看板、写真右:黒田庄の荘厳寺)
●黒田官兵衛にかかる年譜
(1)曽祖父、祖父、父の時代、官兵衛誕生
1523年(大永3)
1524年(大永4)
1525年(大永5)
1531年(享禄3)
1545年(天文14)
1546年(天文15)
曽祖父の高政、没。(注1)
父の満隆(職隆(もりたか))生まれる。
祖父の重隆、備前国内の赤松家内紛を嫌い、争いを避け、播磨龍野の赤松氏に仕える。
重隆、御着(現、姫路市)の小寺則職に仕える。赤松政秀を見切り、御着の小寺氏を頼る。
小寺則職隠居、政職が城主。重隆は姫路城を任せられる。
11月29日、万吉(孝高、官兵衛)誕生。(注2)
(注1)足利将軍家内紛の余波で、近江国伊香郡黒田村(現、滋賀県長浜市木之本町黒田)を追われ、嫡男重隆とともに備前国邑久郡福岡村(現、岡山県瀬戸内市長船町)に移ってきていた。
(注2)「雪」の姫路城で誕生したという。「雪や雲が降るとき生れた子は大成する」(黒田家譜)
(2)官兵衛家督継承〜秀吉播磨入り
1561年(永禄4)
1562年(永禄5)
1564年(永禄7)
1567年(永禄10)
1569年(永楽12)
1573年(天正1)
1575年(天正3)
1576年(天正4)
1577年(天正5)
重隆、職隆、姫路城を修復する。
万吉元服、官兵衛孝高を名乗る。初陣。
重隆、御着にて没。職隆家督を継ぐ。
官兵衛、結婚。職隆が隠居し、官兵衛家督を継ぐ。(注3)
青山合戦。官兵衛、赤松政秀軍に大勝。(注4)
職隆、妻鹿の国府山に築城。
小寺氏、播磨隣接の毛利氏ではなく、織田氏につくことを決定。(注5)
5月、毛利軍英賀へ来襲。官兵衛撃退。英賀合戦。
秀吉、播磨入り。佐用城、上月城を落す。但馬も平定。
(注3)志方城主(現、加古川市)の櫛橋伊定(これさだ)の娘の光(てる)15歳を娶る。官兵衛生涯ただ一人の妻。
(注4)5月、龍野の赤松政秀軍3000が来襲。夢前川を挟んで300の軍で青山合戦に大勝。
(注5)家臣の主意見は毛利であったが、官兵衛が織田の将来性を見越して進言(小寺評定)。官兵衛、美濃へ使者に赴き、木下藤吉郎(秀吉)の仲介で織田信長とよしみを通じ、城主の小寺をさしおいて、「圧切(へしきり)の名刀」を授かる。

御着城跡・黒田家廟所(祖父の重隆と生母・明石を祀る供養塔)

姫路城(但し、黒田氏城代のものではない)

英賀城跡(元、赤松氏の居城)

青山古戦場跡。小寺氏と赤松氏が戦った、官兵衛初陣。
(3)別所、荒木氏の反乱〜秀吉中国大返し
1578年(天正6)
1579年(天正7)
1580年(天正8)
1581年(天正9)
1582年(天正10)


1583年(天正11)
1584年(天正12)
秀吉第二次播磨入り。上月城が毛利の手に落ちる。別所、荒木反乱。官兵衛幽閉。(注6)
10月、伊丹有岡城陥落。官兵衛、栗山善助に救出される。
三木落城。秀吉に姫路城献城。播磨山崎で初の大名(1万石)に。幡幟を制定。(注7)
淡路の志知城、由良城を攻略。
備中高松城を攻撃(水攻め)。本能寺の変。官兵衛、秀吉に明智討伐を進言。中国大返し、山崎合戦。秀吉天下へ。(注8)
賤ヶ岳の戦い。キリスト教へ帰依。
山崎、篠ノ丸城に。
(注6)別所長治が三木城で謀反。荒木村重は有岡城(伊丹市)で謀反。荒木の説得に赴いた官兵衛が有岡城に幽閉される。
(注7)戦国の無情か、兵糧攻めで「三木の干殺し」。

有岡城跡(伊丹市)

三木城跡(三木市)
秀吉の毛利攻めの拠点にと、足場の良い姫路城を秀吉に明け渡して、妻鹿の国府山城へ移る。 「時に孝高秀吉に告げて日く 此の城(三木)偏也 我居所の姫路山は国の中央にして舟筏の便り有り 国主の可居地也」(赤松播城録)、と官兵衛の城譲り。
(注8)高松城を包囲中に毛利への使者を押えたか、茶人・長谷川が変を知らせた?
本能寺の報に接して、「秀吉御愁嘆浅からず。茫然として居給ふ」「孝高申されけるは、信長公の御事は言語を絶し候。御愁傷尤至極に存候。さても此世中は、畢竟貴公天下の権柄を取給ふへきとこそ存じ候え」「明智を討給はんことたやすかるべし。その後は信長公御子息を守立るが、天下を治める器量にはあらず。謀叛乱逆を起こす者多く出来。それを誅罰し給はば、貴公の威勢つよくなりおのずと天下の権をつかさどり給ふべし」、と官兵衛が進言。
 ※「秀吉の中国大返し」については、右のLINKボタンをクリックして下さい。
(4)九州中津〜秀吉没
1587年(天正15)
1589年(天正17)
1592年(天正18)
1591年(天正19)
1592年(天正20)
1593年(文禄2)
1594年(文禄3)
1597年(慶長2)
1598年(慶長3)
山崎から、九州の中津12万石へ。
転封を拒否し城井谷に籠城した宇都宮氏を謀殺。家督を嫡男長政に譲る。
小田原へ出陣、講和をまとめる。
名護屋城を縄張り。
朝鮮半島へ出兵。渡鮮。この時、病と称して帰国。
秀吉に叱責を受ける(三成讒言)。この時「如水」を名乗る。(注9)
許され名護屋城へ。
再び渡鮮、朝鮮連合軍に大勝。
明鮮連合軍に大勝。8月、秀吉没。
(注9)文禄2年(1593)に秀吉の勘気に触れた後、「如水」を名乗る。これは、老子にある「上善如水=最上の善は水の如し」、から。
(5)関ヶ原合戦〜官兵衛没
1600年(慶長5)

1601年(慶長6)
1602年(慶長7)
1603年(慶長8)
1604年(慶長9)
幸圓(官兵衛の妻)、ねね姫大阪脱出。9月9日、長政関ヶ原出陣。如水九州征討開始。 15日に家康、三成を破る。家康停戦命令。長政、筑前52万石に入封。(注10)
筑前福崎を福岡と名称変更。
連歌の会。
茶会。
3月20日、官兵衛死去。
(注10)
@関ヶ原の合戦では、長政は東軍家康側へ(官兵衛は中津)。長政、福島正則と共に先陣争い。東軍勝利に功績を挙げる。
Aその時、如水は自ら軍を率いて九州統一を目指す。兵を募集し9千の軍勢で、瞬く間に九州一円に展開(関ヶ原の後も、関ヶ原の9月決着を無視して九州を押えにかかる)。大半を制圧し、あと島津を残すだけのところで、11月12日、家康から停戦命令が来る。予想外の早期決着に、九州制圧の目算が狂う。
 「九州を平げ中国へ押し渡り、兵船を播州室の港に集め姫路へ押し寄せ〜〜我が故郷なれば、近国ことごとく従うべし。それより都に攻めのぼり 家康公への忠義を尽くす」(黒田家譜)
※参考資料:『BanCul』2013秋号(No.89)、ほか
●黒田官兵衛は、天下を狙った武将政治家
  やはり、「軍師」または「参謀」、「知将」といったイメージが先行している。しかし、その範疇に治まりきれない行動、言動、事象が垣間見受けられる。
(1) 黒田家は代々、主君を冷静に評価し、自身の行動の最適選択をしている。高政(曽祖父)は足利将軍家の内紛の余波を避けて近江国木之本から備前国福岡へに変転。重隆(祖父)は赤松家内紛を嫌い龍野の赤松氏を頼る。 職隆(父)とともに龍野の時に、広峯神社御師の神符と家伝の目薬を扱って財政を豊かにするほか、また赤松氏を見切り、御着の小寺氏に仕える。官兵衛の代で、主君(小寺氏)を差し置いて織田信長の信任を受け、羽柴秀吉とともに活躍することになる。 この黒田家代々の変わり身こそ、将来を見据えた的確な決断が行える家系であったのでしょう。
(2) 秀吉は官兵衛を優秀なナンバー2と重宝していただけであろうか。確かに、秀吉は官兵衛の才能と力を認めており、官兵衛なくして秀吉は天下を取れなかったあろうし、協働で戦国時代に終止符を打つことになった。 しかし、秀吉はその反面、官兵衛を単なる軍師ではなく、恐るべき存在になる人物として警戒を緩めなかったのである。 ある時、秀吉がお側衆との戯れ言の場で「自分の亡き後の天下は誰が取るか」と聞いたら、みんなは石田、徳川などを挙げたが、秀吉は「官兵衛だよ」と宣言したという。警戒感の表れか、論功行賞には不足の九州中津12万石だけで、遠ざけてしまっている。
(3) 関ヶ原の合戦には長政(息子)を差し向け、自分は島津氏を相手に九州制覇一歩手前まで行っていた。そして、徳川方と石田方との東西決戦が長引き、両者が疲弊した隙に、割って入って天下を手中に収める思惑であった、と思われる。 関ヶ原の合戦が、長期化予測に反して極めて短時間で収束したのは一大誤算であった。それだけに、その際のエピソードとして、「家康公と治部郎(三成)と百日手間取れば、筑紫より切り上げ勝相撲に入り、天下を取るべし」(「武辺吐聞書」「名将言行録」)の記録、九州から家康の停戦命令に馳せ戻り、家康と面談して手を握り合った長政(息子)に、「内府(家康)の握った手は、右か左か。その時お前(長政)の手は何をした(・・・その手で殺せた)」(金子堅太郎「黒田如水伝」に引用)、というのが残る。
(4)これらから、黒田官兵衛は軍師からの進化し、秀吉をサポートしていただけではなく、織田信長亡き後、秀吉と協働で天下を狙っていた。いわば秀吉とはパートナーであり、対等の位置を心得ていたようである。戦国の有力大名の一人として「いずれ天下を」と狙っていたのであるまいか。それだけに、世間のその認識、風評も存在する。秀吉、家康という稀代の人物とあいまみえ、自身の際立つ才能への評価とともに警戒感を与えることとなって、千載一遇の逆転のチャンスをモノに出来なかった不運の武将でもある。
 歴史の展開に「もし」ということがあれば、関ヶ原の合戦の長期化による徳川・豊臣両陣営の疲弊を背景に、九州島津を押えた黒田官兵衛が仲裁・治戦の結果、天下は黒田家が執ることになって、徳川江戸幕府ではなくて「黒田姫路幕府」になり、江戸時代ではなく「姫路時代」であった可能性は高いのではないでしょうか。(2013年12月)
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(38)秀吉の中国大返し、
一考察

あいたい兵庫
黒田官兵衛

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