湊川の合戦に散った楠木正成
 (郷土史の談話 54)
湊川の合戦に散った楠木正成

楠木正成の騎馬像(湊川公園)
 鎌倉幕府を倒し、後醍醐天皇の「建武の新政」(1334年)に貢献した楠木正成は、圧政に反発して武家政権を目指して九州で1336年4月挙兵し京の都へ攻め上ってくる旧友、足利尊氏の軍に対峙するため、新田義貞とともに湊川の地に陣を構えた。
 湊川を一望できる小高い会下山に布陣した正成軍わずか700騎あまり。眼下の兵庫津和田岬には義貞軍1万。海と陸から押し寄せる尊氏軍3万5千を前に、正成の心中は如何ばかりであったでしょうか。
 尊氏との和睦策や、比叡山遷幸、苦心の迎撃態勢などの建議も公家たちに入れられず、天皇側に馳せ参じる援軍も無く、僅か700の手勢で湊川に赴く正成は、街道途中の摂津国桜井の駅で嫡男正行と今生の別れ。湊川決戦直前には天皇への民心乖離と敗戦覚悟を上申し、その日、5月25日を迎えた。
1.湊川の合戦の実態
 合戦については、南朝後醍醐天皇側の『太平記』と、勝者の尊氏側の記録誌『梅松論』に詳しい。両史料からその実態を見てみよう。
(1)陣構え
『太平記』
『梅松論』
天皇側(楠木側)
足利側
天皇側(楠木側)
足利側
新田軍は、新田義貞が和田岬、脇屋義助が経が島、大館佐馬助が燈籠堂の南。楠木軍は、湊川ノ西ノ宿 尊氏が海上に。その他、足利直義が指揮する陸上軍は須磨上野(現在の須磨寺附近)、鹿松岡、鵯越。 新田軍は、和田ノ見崎ノ小松原ヲ後ニアテ・・・三キレニ引ヘタリ。楠木軍は、湊川ノ後ノ山ヨリ里マテ、に布陣した。 尊氏は海上に。陸上から、大手は須磨口、山手、浜手の三方に。
 これによると、楠木側の陣は、湊川の西で、山裾から平野部にかけて、足利側の大手軍、浜手軍の進路を塞ぎ、眺望抜群の夢野の二本松古墳(会下山の一角、神戸市兵庫区で神戸市水道局浄水場内)あたりと思われる。
(2)合戦の経過
『太平記』
『梅松論』
@海路、足利軍が和田岬沖から東方へ移動。
A和田岬の新田軍も東へ誘導され移動し、楠木軍と分断される。
B海路、足利軍本隊が和田岬に上陸、陸路の足利軍と合体して楠木軍を攻撃。
C楠木軍、壊滅。
D楠木軍を破った足利軍が生田森方面の新田軍を攻撃。
E新田軍、一時押し戻すが敗退。
@足利軍、少弐頼尚が和田岬の新田軍に西方から攻撃。
A足利軍、欺波高経が山手(鵯越)から楠木軍の背後に。
B足利軍、細川定禅が海路を東へ、同じく東方へ移動した新田軍を、生田森(神戸市中央区、灘区あたり)から本隊が上陸して挟撃。
C新田軍、京の都へ敗走。
D足利本隊、陸路足利軍と合流し、楠木軍を壊滅。
 両史料によると、会下山の楠木軍、和田岬の新田軍に対して、和田岬沖の海路足利軍が東方へ移動したの併せ、新田軍が東へ動き、楠木軍が会下山に取り残された。そこを須磨口から足利大手軍、背後から足利山手(鵯越)軍、西の海岸沿いに足利浜手軍が寄せる中で、生田森附近に上陸した足利本隊が加わり、完全に包囲されてしまい、まさに少数での孤軍奮闘を余儀なくさせられたものと思われます。足利軍は、3倍以上の兵力を背景に、新田軍を陽動作戦で楠木軍と分断した戦略勝でした。
 多勢に無勢、果敢に防戦するも敗走を重ねて楠木軍73騎は、大倉山(生田森と和田岬との中間に位置する小高い山)の麓の民家(現在の湊川神社奥の森)に辿り着き、手負いの者たちを布引方面に逃がして残った楠木一族は火を放って全員自決した。正成は弟、正季と「七生まで人間に生まれ朝敵を滅ぼそう(七生滅賊)」と誓い合い、差し違えました。

大楠公湊川陣之跡碑(会下山公園)

嫡男正行との桜井の別れ(絵馬)

大楠公終焉の地の森(湊川神社)
(3)楠木正成の人物評
『太平記』
『梅松論』
智・仁・勇の三徳を備へ、命をかけて道を守るは古(いにしえ)より今に至るまで正成ほどの者は未だいない。 誠に賢才武力の勇士とはかような者を申すべきとて、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける
 本来、勝者側の『梅松論』でさえ、敵将である正成について絶賛している。湊川の合戦で、大軍で包囲した足利軍が、極少勢の会下山になかなか一斉攻撃に出なかったのも、旧友、正成の降伏を待っていた(約6時間)かのような戦術と思われないでもありません。
 しかしながら尊氏死後、結局、幕府は正成を武家社会の逆賊として扱うこととなりました。
2.後日談
(1)逆賊であるが故に、正成終焉の地は田圃の小さな荒廃した塚しかありませんでした。しかし、江戸時代前期の天下の副将軍だった水戸の徳川光圀(黄門様)が、正成の忠誠心を人間の鑑で武士はその精神を見習うべしとして、 1692年(元禄5)10月に、佐々木介三郎(介さん)を派遣して、光圀自筆の「嗚呼忠臣楠子之墓」と記した碑を建てさせました。江戸時代後期の1813年(文化10)には、地元の篤志家(庄屋)が周辺土地を寄付し、墓域が広がりました。
 現在では、墓碑の側に、徳川光圀公の像(1955年・昭和30)が建っています。
(2)天皇親政による明治維新を成し遂げた1872年(明治5)5月24日に、楠木正成(大楠公)を奉斎する「湊川神社」が創祀され、鎮座祭が、翌5月25日の命日に楠公祭が執り行われました。
(3)1935年(昭和10)5月に、「大楠公600年大祭」が執り行われました。

楠公供養石(尊氏が陣を置いた
魚の御堂跡=阿弥陀寺)

徳川光圀が建立した楠木正成墓碑
(湊川神社)

墓碑の隣に徳川光圀像(水戸の黄門様)

大楠公が祀られている湊川神社

大楠公600年祭記念碑(湊川公園)

初詣で賑わう湊川神社
3.慕われる「楠公さん」
 北条の鎌倉幕府から、地方の豪族たちがそうであったように、幕府に逆らう「悪党」のうちと見られていた楠木一族は、後醍醐天皇側の敗戦に完全に「逆賊」(1331年)とされてしまいました。その後、1333年の千早赤坂の戦いに勝利し、後醍醐天皇の「建武の新政」(1334年)に貢献して一躍朝廷幹部に。翌1335年の足利尊氏挙兵は失敗したが、1336年に九州より大軍を率いて京の都を目指して「湊川の合戦」を迎えることになりました。室町幕府下では、当然「逆賊」扱いとなりましたが、江戸時代、黄門様からの顕彰があって、当時の「摂津名所圖絵」にも紹介されいるように、庶民や武士たちからも影ながら慕われている様子が窺えました。そして、明治維新で逆臣との評価は消され、一転、「大楠公」として湊川神社に祀られ、太平洋戦争敗戦でその評価が揺らぐ場面もありましたが、今なお楠木正成の遺志、人となりは、神戸の地域のみならず、多くに人々に親しまれ敬われています。
4.多聞丸(正成の幼名)時代のエピソード
 大楠公の絵本(私が幼少期に読んだ)に、正成幼少の頃の多聞丸のエピソードが載っていた。
 多聞丸が一族家中の者たちと寺に参拝に行った際、大きな鐘楼を指1本で動かしてみせると話して、誰も(住職も)が無理な子供の話と笑った。しかし、多聞丸は、鐘楼の端を指でゆっくりと何度もリズムを取りながら押していると、やがてさしもの大きな鐘も揺らぎ始めて、遂には大きく揺れることとなった。皆びっくりして、多聞丸の幼少ながらも知恵と行動力に驚嘆したという。
 私も子供ながらに、大人たちを感心させた同年若輩の多聞丸を見習うべき人と心に残したものです。
(2014年6月)
※参考資料:『“太平記”のヒーロー往還の地』兵庫県商工部新観光課、『神戸と楠公さん〜悲運の名将楠木正成公の生涯』神戸新聞総合出版センター、その他
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昭和初期の絵葉書
(2)大楠公600年大祭
記念絵葉書
(昭和10年5月)

昭和初期の絵葉書
(39)湊川神社絵葉書
(昭和40年代)

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