古代「山陰道」の駅家(うまや)を辿る
 (郷土史の談話 57)
古代「山陰道」の駅家(うまや)を辿る
  古代「山陰道」が奈良平安時代において、経路を定め一定距離間隔で駅家を置き、駅制として整えられてきたのは律令制度「大宝律令」以後のことです。
  「山陰道」は、概ね日本海側を西方に向かい、基本的には山間部を辿り、山陽道とは比べ物にならないほど険しい経路です。平安時代中期に編纂された律令のマニュアル的古文書『延喜式』には、古代「山陰道」は、畿内の都から、山城國、丹波國、丹後國、但馬國、因幡國、伯耆國、出雲國、石見國、隠岐國を通る経路であった。概ね現在の、国道372号、176号、483号、9号を経由しています。(左写真:小野驛址の碑)
 また、瀬戸内海側の主に平野部を通過する山陽道と違って、大規模農地整備や都市開発に伴う工事や発掘の機会が少なく、これに伴う考古学的検証がほとんどされてこなかったこと、また古代「山陰道」に関する記述のある古文書も限定されていて、経路や駅家の地についてもその概要すら定かでない地域が多い。
 その中で、駅間距離や古くからの地名字名、最近に多く生み出された研究成果(発掘)などを参考にして、一考察を試みた。
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(47)古代の道と駅家
(うまや)〜兵庫県内〜
●「山陰道」の経路(兵庫県内と一部京都府内)
 京都府側の丹波國から、天川峠(篠山市)を越えて、兵庫県側の丹波國に入ります。本道は、篠山市から丹波市へ、朝来市、養父市、香美町、新温泉町を通り、としみ峠または蒲生峠を越えて因幡國(鳥取県)へと行きます。途中、篠山で分岐し、丹後路(支路)を北上し、丹波市から京都府側へ入り、福知山市、与謝野町、宮津市、また与謝野町から岩尾峠(豊岡市)を超えて、以後豊岡市を東から西へ横断し、村岡(香美町)で本道に合流する経路があります。
(左写真:山陰道が京都府から兵庫県篠山市に入る天川峠)
●「山陰道」の駅家(兵庫県内と一部京都府内)及び配備駅馬数
丹波國 大枝*(おおえ、8疋)、野口*(のぐち、8疋)、小野(おの、8疋)、
長柄(ながら、8疋)、星角(ほしずみ、8疋)、佐治(さじ、8疋)、
日出(ひず、5疋)、花浪*(はななみ、5疋)
丹後國 勾金*(まがりかね、5疋)
但馬國 粟賀(あわが、8疋)、郡部(こうりべ、8疋)、養耆(やぎ、8疋)、
山前(やまさき、5疋)、面治(めじ、8疋)、射添(いそう、8疋)、
春野(かすがの、5疋)
※『延喜式』より。ただ、記載の順は、経路上の順とは一致しない。
※駅名の「*」印は、京都府側の駅家。
●駅家の配置と経路(兵庫県内)
駅配置別説@
駅配置別説A
経路別説@
経路別説A
経路別説B
※経路別説図における「・・・・・」が別説による経路
●駅家と分岐・合流の比定
小野(おの)驛
 天引峠から丹波國(篠山市)に入り西方へ、京都の野田驛より国道372号を約13kmで小野(篠山市小野奥谷あるいは同市小野新)に到る。「小野驛」は、手前の小さい峠を西に越えたところ、沿道沿いの谷合にあったと思われます。峠には、「史蹟 延喜式 小野駅址」の碑が立つ。発掘などによる考古学的な遺跡は見つかっていない。
                        (右写真:「史蹟 延喜式 小野駅址」の碑)
長柄(ながら)驛
 小野驛から日置を通り、篠山盆地を西に約13km。昔は「長柄驛」は篠山市丹南町(日置郡)野中ではないか、と言われていたが、近年の周辺の遺跡の発掘事例から、官衙(役所)が東浜谷遺跡(篠山市寺内字堂前)で、西に隣接して、建物群や井戸・土器類が出土した西浜谷遺跡(篠山市西浜谷)が、西接して字名の地「名柄芦(ながら)」があって、この遺跡が「長柄驛」の可能性が高い。
                     (右写真:「長柄驛」と思われる西浜谷遺跡周辺)
(篠山分岐)
 「長柄驛」を出て黒田の丘陵の麓を西進し、3kmの宮田の地(篠山市宮田)で更に西進する路と北進する路に分岐する。山陰道の本道は、国道176号と並行して瓶割峠(鐘ケ坂の山)を越えて柏原(丹波市)方面の「星角驛」に向う。北へ分かれた丹後路(支路)は、佐仲峠を越えて春日町国領(丹波市)を通り「日出驛」へ向う。
 分岐は、この他に、鐘ケ坂峠を超えて春日町国領(丹波市)に出る経路と、次の「星角驛」まで行って、そこから水分れ街道を辿って「日出驛」へ向うのを経路とする別説がある。

(宮田の篠山分岐)
星角(ほしずみ)驛
 「長柄驛」を出て約16km、本道は大山(篠山市)から鐘ケ坂峠の少し手前で分かれて瓶割峠を越え、春日町国領(丹波市)を通り、柏原町石生(丹波市)附近に到る。ここは、篠山から来た国道176号と加古川・明石から来た国道175号との交通の結節点であり、また、日本海側に流れる由良川と瀬戸内海に流れる加古川との標高が極端に低い分水嶺でもある。この石生附近(西北)に隣接する北近畿豊岡自動車道氷上IC周辺の市辺遺跡(丹波市氷上町市ノ辺)から、奈良平安時代の建物群等が発掘されて、郡衙か駅家かが想定されています。

(「星角驛」に想定される市辺遺跡周辺)
佐治(さじ)驛
 「星角驛」から、佐治川(加古川)沿いに西北上、約16kmで丹波國と但馬國の境の遠坂峠手前の谷の麓周辺で「佐治驛」(丹波市青垣町中佐治)に到る。特に考古学上の証左は出ていないが、駅間距離や地名等から、この地が「佐治驛」として無理はない。
                        (右写真:「佐治驛」と思われる中佐治周辺)
粟賀(あわが)驛
 「佐治驛」から険しい大峠、遠坂峠を越えて但馬國へ入る約12km。粟賀(朝来市山東町)には柴、一品(いっぽう)、早田、和賀の各地のうち、和賀が駅名と似た地名から、または早田の大同寺遺跡が驛と想定されていたが、最近、国道427号から約200m北方の山裾にある柴遺跡(朝来市山東町柴)から奈良平安時代の建物跡、木簡、当時のお金(神功開寶)が発掘されました。木簡には、駅家運営を示す「驛子」と書かれており(委文部豊足十束代稲籾一尺 =駅子である委文部豊足が稲十束の代わりに稲籾一石を納めた)、ここが「粟賀驛」と比定されます。

(正面山裾の柴遺跡周辺)

(柴遺跡から出土した驛子の木簡。「ひょうごの遺跡」40号より)

(柴遺跡を背後にする柴の集落)
郡部(こおりべ)驛
 「粟賀驛」を出て、矢名瀬(朝来市山東町)から国道9号を踏襲して進むこと約18km。この間、難儀の大河円山川を渡河する。渡河西進して大屋川を挟んで養父の郡衙に接して、北の広谷(養父市)あるいは南の上野(養父市)に「郡部驛」があったと見られる。明確な遺跡等は発掘されていない。
 円山川をどう渡河するかで経路や駅家の想定も違うので、諸説ある。『日本後記』に大同3年(808年)に但馬國の3つの「高田驛」「米地驛」「米里驛」を廃止したとあり、朝来市和田山町高田にあった「高田驛」と、養父市鉄屋米地にあった「米地驛」を廃止して、養父市大塚に「郡部驛」を設けたとする駅家配備別説、経路別説がある。

(「郡部驛」と想定される養父市広谷)

(別説「高田驛」とされる朝来市和田山町高田)

(別説「郡部驛」とされる養父市大塚)

(別説「米地驛」とされる養父市鉄屋米地)
養耆(やぎ)驛
 「郡部驛」から更に西へ、朝倉(養父市八鹿町)から八木川沿いに進んで、14kmで中世の八木城跡の麓(養父市八鹿町八木)に到る。この城の殿屋遺跡発掘時に奈良時代の土器や道具類が出土、この周辺に「養耆驛」があったと考えられる。
 朝倉西の北近畿豊岡自動車道養父IC周辺の米里(養父市八鹿町)から、奈良時代の墨書土器等が出土しており、ここに「米里驛」があって後に廃止されて「養耆驛」となった、とする別説がある。

(「養耆驛」と考えられる養父市八鹿町
八木の周辺)

(別説「米里驛」とされる養父市八鹿町
米里)

山前(やまさき)驛
 「養耆驛」から西へ、関宮(養父市)から距離が短縮される経路で国道9号沿いに八井谷峠を越えて、17kmで香美町村岡区福岡字前田に出る。ここの前田遺跡からは、墨書土器等が出土し、「山前驛」の可能性が高い。この遺跡は、山が谷筋の真中に張り出しており、正に山の前の地勢にある。
 ただ、「山前驛」の配備馬数が5疋と、他の驛の8疋に比べて少なく、丹後路(支路)上の駅家ではないか、と見る向きもあり、丹後國から岩屋峠を越えて但馬國に入った唐川(豊岡市但東町)もしくは出石神社周辺(豊岡市出石町宮内)が「山前驛」とする別説もある。 

(「山前驛」と考えられる前田遺跡のある香美町村岡区福岡字前田)

(別説「山前驛」とされる出石神社周辺)

(村岡合流)
 「山前驛」から湯船川沿いを北上すると、7kmで耀山(香美町村岡区)で但馬国府(豊岡市日高町祢布)(旧「高田驛」)から金山峠を越えてきた支路と合流する。神鍋高原を踏破するかなりの難路である。
                         (右写真:香美町村岡区耀山の村岡合流)
射添(いそう)驛
 村岡合流から北上し5km、「山前驛」から12kmで湯船川が矢田川と合流する川会(香美町村岡区)、長楽寺の麓に「射添驛」があったと考えられる。特に、考古学的遺跡は見つかっていない。
                   (右写真:「射添驛」と考える長楽寺麓の川会附近)
面治(めじ)驛
 「射添驛」から西北へ、春来峠を越えて約13km、面治神社の麓の竹田(新温泉町竹田)が、近くに小字「米持(めじ)」もあって、「面治驛」と考えられる。ここも、考古学的遺跡は見つかっていない。
 「面治驛」からは西方へ、蒲生峠を越えると因幡國(岩美郡)に入る通説に対し、短距離になるとしみ峠越え(新温泉町鐘尾〜岩尾町岩井)の方が適当と思われる。因幡國の「山埼驛」まで約14km。
                  (右写真:「面治驛」と考える面治神社麓の竹田附近)

日出(ひず)驛
 「長柄驛」から篠山分岐(篠山市宮田)して、佐仲峠を越え丹後路を福知山方面へ。由良川支流の竹田川沿いに北上(国道175号沿い)し、右岸から左岸に渡った段宿(丹波市市島町上竹田)に到達する。ここが「日出驛」と考えられます。高山寺本『和名抄』には、山陰道の丹波國「白出驛」となっている。
  「日出驛」から京都府の福知山方面へ、塩津峠を越えて次の「花浪驛」(福知山市瘤木)に向う。この驛も、高山寺本『和名抄』には「前浪驛」となっている。
(右写真:丹後路「日出驛」と考えられる丹波市市島町上竹田段宿)


春野(かすがの)驛
 京都丹後國の「勾金驛」を出て、丹後支路は県道宮津八鹿線に沿って國境(県境)の岩屋峠を越えて但馬國に入る。約15kmで唐川(豊岡市但東町)に、または3km西(前驛から18km)の福知山からの道(県道56号)と合流している出合市場(豊岡市但東町)に「春野驛」があったと思われる。
 ただ、唐川には「山前驛」があって、また但馬国府を通って支路を国道482号沿いに金山峠越えで本線の村岡合流に向う途中の神鍋高原の栗栖野(豊岡市日高町)附近を「春野驛」とする駅家配置別説がある。これは主に、本道は整備馬数8疋、支路は5疋だからというのが根拠の一つである。
  なお、高山寺本『和名抄』には、山陰道の但馬國「春部驛」となっている。

(「春野驛」と考えられる豊岡市但東町
唐川)

(別説「春野驛」とされる豊岡市但東町
出合市場)

高田(たかた)驛
 「春野驛」から支路(国道482号沿い)を通って、18km(唐川から21km)で但馬国府跡(豊岡市日高町祢布)の祢布ケ森遺跡に到る。但馬国府は、『日本後記』によると延暦23年(804年)に同じ高田郷(但馬國気多郡)に移転されたとあり、また、天平勝宝9年(757年)の正倉院文書に「高田驛」の記載があり、この地に国府を移転した際に、駅家を廃止(『日本後記』に大同3年(808年)に但馬國の3つの驛を廃止、そのうち1つが「高田驛」)したものと考えられます。
 また、廃止された「高田驛」は、元は朝来市和田山町高田にあって、後に 「郡部驛」になった、という別説もある。

(元「高田驛」の近隣と考えられる祢布ケ森遺跡に立つ但馬国府・国分寺館)
不詳(仮に栗栖=くりす)驛
 但馬国府(旧、「高田驛」)を出て西へ向う支路は、本線の村岡合流に到るまで険しい神鍋高原、金山峠を越える。どうしても、距離的に金山峠の手前で駅家が必要になってくる。国府から約12kmの栗栖野(豊岡市日高町)附近に駅家が想定される。ただし、『延喜式』に記載されていない不詳の「驛」である。ここを「春野驛」とする説もあるが、「春野驛」は既に但馬國の東部、京都府寄りに比定しているので、ここは仮に「栗栖驛」とでもしておきたい。
 この驛から約9kmで、金山峠(現在では蘇部トンネル)を越えて村岡合流に到る。次の「射添驛」まで約14km。

(驛があったと推測される豊岡市日高町栗栖野)
 この様に、山陰道の駅家や経路の比定には、まだまだ遺跡発掘や研究調査が必要と思われます。例え一箇所の発掘事例であっても主力となる新学説が提唱される機会が多くなるでしょう。今後の一層の進展を期待します。
(2014年11月)
※参考資料:『歴史の道調査報告書全集10“近畿地方の歴史の道10”兵庫2』兵庫県教育委員会(海路書院)、『完全踏査・続古代の道(山陰道・山陽道・南海道・西海道)』武部健一著(吉川弘文館)、『ひょうごの遺跡』兵庫県立考古博物館 など
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(47)古代の道と駅家
(うまや)〜兵庫県内〜

(18)古代の道
「山陽道」
駅家(うまや)を辿る

(61)古代の道
「南海道」
駅家(うまや)を辿る

(62)古代の道
美作道・因幡道」
駅家(うまや)を辿る
 

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