湊川隧道を通り抜けよう
  (郷土史にかかる談話 69)

湊川隧道を通り抜けよう


旧湊川隧道の入り口
 明治維新後、神戸港開港や兵庫の港、外国人居留地やその周辺の発展を背景に、市街中心部を流れる旧湊川からの流出土砂による港埋没の危険性や、 天井川状態による東西交通の阻害、豪雨氾濫による市街地水害(明治29年等)などの問題から、「旧湊川の付け替え」プロジェクトがスタート。明治30年に地元有力企業が協力して湊川改修(株)を設立し、 旧湊川上流の石井川と天王寺川の合流する菊水橋付近から本川を西方面に向け会下山をくり抜ける「湊川隧道」を通り(日本初の近代的土木工事)、長田神社南にて苅藻川に合流する付け替え事業を明治34年8月に竣工し、 新湊川とした。旧湊川の旧流路・河川敷は天井川状態の堤防を掘削し生まれた土地に「新開地」なる都市開発を行った。
 その後、昭和3年に神戸電鉄(当時は「神有電車」と呼ばれていた)が会下山を通過するコースで敷設された際に、上流側坑口を66m東に延伸させた。これにより、隧道延長は604mから670mに増設されました。
 平成7年の阪神淡路大震災で、吐口坑門工が崩落、隧道本体にも被害が及び、応急補強工事を実施した後、災害復旧で新しい隧道を建設し直すこととなった。旧隧道については、歴史的にも技術的にも地域の貴重な近代土木遺産として、将来の活用も考えて保存されるのが望ましいとして、平成13年に市民も参加して組織された「湊川隧道保存友の会」が結成され、旧隧道の定期的な一般公開や保存顕彰などに取り組んでいる。

坑門呑口(上流側)

坑門吐口(下流側)

旧湊川隧道の内部(見学・通り抜け)
●小学生のむかし、冒険心をくすぐった「湊川隧道」の通り抜け
 僕たちの子供の頃は、一人前の子供(?)と仲間内で認められるためには、@自転車(補助輪なし)に乗れること、 A高い木に登れること、B夜に墓場(墓園)を通り抜けること、のほかに、湊川沿線の校区にあって湊川隧道の近所の子供たちにはもう一つの条件が加わっていた。 最後の関門とも言えるクリア条件は、湊川隧道を上流側坑門(兵庫区)から入って下流側の吐坑門(長田区)へと通り抜けることであった。小学校低学年は、 上級生の餓鬼大将が付き添ってもらって肝試しに暗いトンネルへ挑戦していた。もちろん流量が少ない渇水時に限られていましたが。
 最近、11月22日の「土木の日」に開催された“新湊川ウォーク”〜湊川隧道通り抜け〜に参加することができた。実に60数年ぶりの再体験で、感慨一入(ひとしお)であった。

湊川隧道の説明版(旧道入り口)

旧湊川隧道の横断図*

湊川隧道の所在地***

湊川隧道の平面図*
●19世紀末から20世紀初頭にかけて、世界最大級の「湊川隧道」
 湊川隧道は、創設時は606mの延長を昭和3年に670mに延伸、 断面は馬蹄形で高さ7.7m、幅7.3m、
隧道内壁は煉瓦覆工で背面には栗石を埋め込み材として充填され、インバート部には煉瓦上に花崗岩の切石を敷いています。また、側壁はイギリス積み、アーチ部は長手積み、天井部の一部に堅積み技法がとられています。
 上流側の坑門呑口には「湊川」の下流部の坑門吐口には「天長地久」の扁額が掲げられました。「湊川」扁額は昭和3年の延伸時に埋設され、「天長地久」の扁額は平成7年の阪神淡路大震災で崩落しましたが、平成12年の復興時の新しい両坑門に扁額は元通りに掲げられました。

扁額の拓本

坑門呑口(上流側)扁額

坑門吐口(下流側)扁額

旧隧道の坑門呑口の要石*

旧隧道に使用されていた煉瓦等

旧隧道入り口通路の展示

旧湊川隧道を歩く

旧隧道の煉瓦壁

旧湊川隧道の銘板1諸元**
(現在埋設済みで見れません)

旧湊川隧道の銘板2説明**
(現在埋設済みで見れません)

旧隧道から新隧道への連絡出口通路

通り抜けた隧道吐口を振り返る
【参考資料】
」:パンフレット『湊川隧道』(湊川隧道保存友の会編、兵庫県神戸県民センター神戸土木事務所発行)より
**」:説明資料『湊川隧道について』(神戸県民局神戸土木事務所・湊川隧道保存友の会)より
***」:『水の土木遺産/湊川隧道』(独法・水資源機構広報誌「水とともに」)より
(2017年2月)

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