郷土の今昔物語(神戸地域)・2中央
(昭和初期) 兵庫縣廳は市の中央下山手通4丁目に在り。明治35年5月の竣工にかかり工費34萬圓を費した輪奐の美を極むる市内屈指の建築である。日本の大玄關、開港場として諸外国との應接上當時に於は少く共もかかる宏壮なる外観内容を必要としたのである。近時其の周囲に続々として近代的大建築設立さるるに至ったが、古色蒼然として舊式乍らも堂々たる威厳を有する縣廳に比すべくもない。現在敷地8,593平方米餘、建坪2,577平方米餘である。圖の中央は縣廳であって、後方建築物は縣會議事堂及び工業試驗所、其の左方は縣立第一高等女學校である。
(昭和初期) 神戸驛を降りて北に進めば役218米で湊川神社、其境内の東門から東に進むと裁判所になる。其東隣が即ち神戸市役所で、寫眞の正面に見える鐵筋コンクリート2階立がそれである。事實神戸の市政は此處で献立され料理される。神戸は明治初年までは一寒村に過ぎなかったが、今や人口65萬の大都市となり、狐狸の栖處であった湊川神社附近に表玄關たる驛も出来、市役所も其近くに建った。其所在地橘通1丁目邊りが繁栄の中心地となり、人家櫛比、殷賑の巷になってゐる。
(現在) 兵庫県庁など公共機関を中心とした山手地域は、周辺に住宅街、マンション街と、元神戸市長の小寺邸宅の相楽園、栄光教会、学校などが集まっている。南側には、JR神戸線、阪神電鉄、阪急電鉄、神戸高速鉄道、地下鉄、国道等が東西に走り、港に臨み、元町商店街や南京街、大丸デパートなども頑張っている。山裾から港まで南北1kmほどに狭く帯状に、神戸の中心街を形成している。
(昭和初期) 榮町通は海岸通と元町通(西国街道)との間に、明治6年に開かれた通りであって、明治初年の古き石造建築物が物々しく建ち並んだ特色ある通りである。 寫眞は榮町2丁目の市電停留所から西方を望んだもので、左側建物は手前より横浜正金銀行神戸支店、一軒おいて川崎第百銀行、明治生命保険株式会社等であり、右側は三十四銀行、一軒おいて三十八銀行、三井銀行神戸支店、帝国海上保険会社等である。その他この通りには各種銀行すこぶる多く、1丁目から6丁目まで続く銀行街で、神戸市のウォールストリートである。
(昭和初期) 写真は神戸元町である。道は綺麗にアスファルトで畳まれ、外人向きの雑貨店等も並んで、何となく垢抜けした美しい町である。町幅は余り広くはないが、電車も通らないので、買い物も落ち着いてできる。散歩時間には神戸在住の外国人が踵を接していて、さながら外国の街に行った観があり、また各国人種の展覧会のようでもある。 維新前は西国街道に沿っていた神戸村、二つ茶屋村がその前身で、明治以後神戸が開港場となるに及んで、居留地も付近に出来たので、元町通も次第に発達した。海岸の方に元町に並行して出来た栄町通には一流の銀行・会社等が多く、大取引が行われている。更に南の海岸通には船も着き、貨物回送店、旅館等がある。神戸が港として命を保つ以上、この付近を中心として繁栄したのも無理は無い。
(昭和初期) 神戸市元町通と榮町通との間、東部の一角に頗る変わった色彩を有する猥雑な通りがある。中國人(当時の資料の呼び名から変更)の商舗が多く、俗に南京町と呼んでいる。神戸市在住の中國人は殆ど6千人を数え、市の東部に居を構えて、多くは商業貿易業を営んで、その勢力は中々侮り難い。南京町は即ち彼らの市場であって、日本商人も共に軒を並べ、頗る繁盛している。 寫眞は、榮町の入口より北を見たものであって、右側には萬生堂漢薬舗、両替店、中華料理店第一楼や、「成興發廣洋雑貨發客」の連を掲げた店もある。焼き豚、青物、中華雑貨から酒場に至るまで、中國風の臭が道に溢れて頗る異國的な一廓をなしている。
(昭和初期) 神戸市東遊園地の東側に松青く砂白い居留外国人の墓地がある。圖中墓碑の最左端、圓荘形十字碑には「1868年3月8碑堺市に於けるデュプレイ號犠牲者11人の水平の記念」と書いてある。明治2年堺で上州兵を佛國水平との衝突した妙國寺事件の犠牲者の墓碑である。現在では居留地は廢止になったが、この附近には外事用のテニスコートなどもあり特に異国情緒が濃厚である。
(昭和初期) 神戸市は東西に延長する幅狭き市街をなしてゐる。其の中央を省線は縦貫してゐる路面なる為、危険且つ不便であったので省線は數年前より神戸市街を横断する高架線工事を開始するに至った。圖は三宮驛附近より東面したもので、東は縣廳より西は鷹取驛附近に至る延長略6哩に亙り、鐵筋コンクリートの頗る堅固なものである。之に沿へる三宮驛、神戸驛、兵庫驛の改築と共に神戸市街に取っては築港に次ぐ大計劃改築工事である。一方阪急電車は此の省線の側に高架線を、阪神電車は亦之に沿うて地下線を作り、三宮驛附近に乗入れる計劃である。
(昭和初期) 生田川の上流布引鑛泉より山径を登れば、渓谷漸く迫る所長廊を掛け渡して本圖に見る雌瀧がある。更に一道を傳ひて急坂を喘ぐこと數町、究極する所に又白布を引く雄瀧がある。布引渓谷は凡て花崗岩より成り、奔下する水勢は數段の断層に掛って侵食後退しつゝ今日の如き状態に落付いたものと考へられる。現今上流に布引貯水池を設置したる為め、水勢全く衰へるに至った。下流生田川は貯水池設置以前屡氾濫の為め災を及すことが多かったので、明治4年其の流路を熊内村字馬淵より小野濱海岸に付替へて今日の新生田川となった。