(昭和初期) 明石市の東方で、電車汽車の便に恵まれている。この付近一帯は松林で、北に歌敷山の丘陵を負い、南は海岸、明石海峡を隔てて淡路島と相対し、風光明媚、気候温暖である。付近に有史以前の遺物遺跡が少なくない。この地は、明和3年明石の町人小屋掛け茶屋を町奉行に願い出て、初めて旅人の休憩の便にした。明治時代になって公園となり、天下に名声を博するに至った。園内には、写真のように高さ約9メートルの青松が繁茂し、潮風に翻弄されて枝や幹が曲りくねり、その有様は、人が舞う如く、爬虫が蟠る如く、奇観驚異に値する。加えて、海浜は砂白く、淡路島との間には白帆の船が去来して、絵のような風景である。
(昭和初期) 鐵拐・鉢伏山が明石海峡に迫ったところで僅かに一路が東西を連絡してゐる。「淡路島通ふ千鳥・・・幾夜ねざめぬ須磨の関守」のゐた関所はこんな要地に置かれた。一の谷の戦の時は平氏はこの西門と生田の東門とを守ってゐたのである。鵯越の位置については諸説あるが背後の處を衝かれたことが屋島まで落延びる原因になったのは事實であらう。さもあれ白砂青松は昔も今もその景色を改めず、過ぎる人をしてその景に酔はしめるのである。
(昭和初期) 六甲山つづきの花崗岩の禿山が明るい気分で須磨までつづいてきてゐる。左手は一の谷の戦記で知られてゐる鐵拐鉢伏山の一部である。山麓線からの後傾斜な扇状地はこの圖で最もよくわかる。左手の山麓臺地の高所には武庫離宮があり、諸々の別荘が並んでゐる。東郊の洋風の文化村に對して我が國在来の休養地帯の建築風のものの多いのも又気持がよい。下の段はもとの海崖下の磯でそこに西國街道を山陽線が走り左端の邊に關址がある。
(昭和初期) 神戸市より西に向へば須磨附近より海岸傳ひに山腹直ちに海に迫って三紀層の段丘を作ってゐるが、垂水海岸に至って再び福田川の洪積平野に眼界が展開する。寫眞は垂水海岸上空150米より撮影せしもので、砂濱に臨める避暑住宅地後方を白く通ずるは神明新國道山陽線。兵庫電鐵の三交通線である。寫眞海岸に並行せる白線は新築の國道であってアスファルトの坦道である。其の左右は垂水町で元漁村と避暑客相手に発展したが、近時郊外住宅として居住を榮むもの多く活況を呈し町制を布くに至った。中央に福田川を流してゐる。市街の左右に黒く森の見ゆるは舟乗りの嵩信する海神社で、其の後方に垂水驛がある。
(昭和初期) 景勝を以って聞える須磨舞子の海岸に沿って、坦々と山陽線の鉄路が走っている。この地は四季を通じて遊覧の場所であると共に又人生の悲劇の行われる所である。京阪神と中心とした稠密な都市の付近にあるから、それらの都市の生活苦にあえぐ人や、処世上恋愛上の煩悶に悩む人が、死出の旅路をこの風光明媚な地に選び、或いは海に或いは鉄道にその貴重な生命を断つ者が1年に多数に上る。 神戸の社会事業家、城女史がその悲哀を救わんがため、十数年前鉄道沿線或いは海岸に「一寸待て」と言う木杭を立てて、このために救われた人が少なくない。それよりこの地方の方面委員が写真にある様な「思い直せ今一度」の標木を立てて景勝の地の浄化を計っている。