郷土の今昔物語(阪神地域)

郷土の今昔物語(阪神地域)

●阪神(1)  「阪急沿線仁川」(西宮市・宝塚市)
(昭和初期)
 仁川は六甲山の東麓にあり、六甲山の階段断層地を流れ下る川で、山麓に於て著しく白い砂礫を扇状に堆積してゐる。六甲山が花崗岩から成ってゐるので、それの砕けたのが白砂となり、又断層崖下にあるから扇状地をなしてゐる。雨の降った時は急に多くの水が出て氾濫し夥しく白砂を流すが、平素は水無川で白い砂礫の河原である。
 阪急沿線の新住宅地として経営するために、その川を改修して圖に見るが如く両岸に堤防を設けた。もとは森の中に両岸の白く見える住宅の邊まで川幅があった。初めは一つも家がなく、ただ河原であった。河は左から右へ流れてゐる。白いのは砂礫で水は殆ど見えない。
(現在)
 阪急電鉄は、大阪の池田や箕面、兵庫の宝塚に続いて武庫之荘などで住宅開発を進めていた。仁川沿岸の丘陵地帯は、関西学院の上ヶ原立地を契機に、川沿いの両岸の道路を挟んで駅周辺から住宅が建ち並んでいった。近年では、駅に近く阪神競馬場(戦中まで川西航空機宝塚製作所)、マンション等を含めて阪急沿線(今津線各駅周辺を中心に)全体に市街地化している。
●阪神(2)  「甲子園附近」(西宮市)
(昭和初期)
 阪神の中間には文化住宅が著しく近年發達した。阪神商工業地帯の發達につれて當然起るべき現象である。六甲山の麓大阪灣を見下す傾斜地に松ノ木の間白砂の庭に青い芝生をそだて、赤青の屋根家、その様式の千差萬別これも時代の一産物である。
(現在)
 電鉄会社は路線敷設に加えて、田園地域に住宅開発、学校、娯楽施設などを整備してきた。阪神電鉄も乗客・集客を求めて、阪急にやや遅れて、工業地帯に近い後背地の甲子園などに開発の手を入れ、住宅開発に併せて、甲子園運動場(球場)、ホテル、遊園地など手掛けてきた。現在では、住宅地域にマンション建設が進み、その比率を増している。
●阪神(3)  「甲子園球場」(西宮市)

(昭和初期)
 六甲山脈に發源する武庫川がばい爛せる花崗岩の土砂を運ぶ數量は實に夥しい。殊に霖雨數日に及べば非常なる勢で其の土砂を川口に運んでくる。従って嘗ては所謂武庫の入江であった地方も、今はデルタの構成によって却って海岸に甚だ大きい三角洲を作って突出してゐる。此の川口に近き地味不毛なり土地の三角洲上に甲子園の大球場が打ち建てられた。
 毎夏の年中行事として數次行はるる中等學校全國優勝野球戦には數萬のファンを集め、其のスタンドに起る歓聲は六甲山に木魂する位である。寫眞は中央に見ゆる階段がスタンドで後方の山脈は即ち六甲山脈である。

(現在)
 大正13年(甲子の年)に、西宮市の南部、武庫川支流の廃川敷に建設した甲子園球場に続いて、阪神電鉄はこの地で、 博覧会(昭和3)を開催し、その跡地に、動物園・遊園地・水族館・演芸場・テニスコート・プールなどレジャー・エンターテイメント施設「阪神パーク」を造ってきた。 特筆すべき催しでは、球場内にジャンプ台を仮設し、雪を運び込んで、全日本スキージャンプ大会を開催したこと。
 阪神淡路大震災(1995.1.17)で被災して一部損傷したが修復し、2010年には一大リニューアルで新装なっている。
●阪神(4)  「甲子園運動場」(西宮市)

(昭和初期)
 阪神電鐵株式會社が百六十萬圓を投じ三年を費して竣工した一萬四千坪の大野球場で、鐵傘に蔽はれた鐵筋コンクリートの大スタンドは八萬人を収容することができる。圖は例年八月大阪東京両朝日新聞主催の全國中等學校野球大會の一場面である。又この運動場は松林を背景として秋は菊花壇が開かれ、夏は附近の海濱が海水浴場となる。

(現在)
  豊中(大阪)や鳴尾(西宮)で行われていた全国中等学校全国優勝野球戦をこの甲子園運動場(球場)に誘致した。 その後、現在までこの全国高等学校野球選手権大会(高校野球の夏の甲子園)は95回(2013年)、 同じく選抜高等学校野球大会は回(2013年)と続いている。
 また、プロ野球団の大阪タイガース(現在の阪神タイガース)が誕生(昭和10)し、プロ野球初の公式戦を開催した。戦後、一時進駐軍に接収されるが、阪神タイガースがフランチャイズ球場(昭和23)とする。現在では、高校野球、プロ野球、最近では大学アメリカンフットボールの聖地として親しまれている。
●阪神(5)  「甲山」(西宮市)
(昭和初期)
 甲山は六甲山脈東麓の低平なる花崗岩丘陵地に突兀として甲を伏せた如き形状をなせるトロイデ(塊状式火山)である。花崗岩中の裂罅に沿うて噴出した輝石安山岩より成り、海抜三百九米あり、傾斜は南方即ち圖中手前の方最も急であって約三十八度の傾斜を有してゐる。周邊の花崗岩風赭色を呈せるに反し、満山鬱蒼たる樹木に蔽われてゐるので頗る人目を惹く。トロイデは溶岩のみより成り、火口、裾野、層状構造を有せず、形状多くは鈍頂にして鐘状を呈するもので、周圍傾斜の急なるを特徴としてゐる。甲山は其の標式的のものである。
(現在)
 甲山はトロイデ式の典型と思われていたが、最近の研究により、活動を休止した火山の古火道周辺が塊状に残ったもので、 六甲山と同様に隆起して形成されたものとされている。
 弘法大師ゆかりの神呪寺、鷲林寺のほか、県立甲山森林公園、北山緑化植物園、 仁川自然植物園、仁川ピクニックセンターなど、都市近郊の自然探索や手軽なレジャー地区となっている。
●阪神(6)  「寶塚新温泉」(宝塚市)
(昭和初期)
 武庫川の渓流が山地を離れて平野に出ようとする所の南岸に一鑛泉がある。明治二十五年の發見で炭酸泉に属し鹹味がある。温度十三度で煮沸して温浴に供する様になり、忽ち一市街を形成した。新たに對岸に阪急電鐵會社が大浴場を建設し、新温泉と稱して少女歌劇その他の娯楽場を併設してからは、交通の便もよく、阪神の人士の好慰安地となり、急激な發展をした。
 現在は新舊両岸を合して寶塚と呼ぶ。下面の川は武庫川、下部左端の南岸が舊温泉で、中央の建物が阪急の新温泉で大浴場や歌劇場で之を取り巻いた鐵道が神戸線、左上端が大阪線である。
(現在)
 新旧併せて川の両岸(左右)の特色ある温泉(東=左岸はモダン、西=右岸は遊蕩)を核として、電鉄の利便性から歌劇や近代ホテルの立地、郊外住宅開発により宝塚は発展、市街化してきた。
 宝塚温泉は昭和中期頃には毎年70万人以上の宿泊があった(1970年昭和45大阪万博時は約倍増)。近年、大阪のベッドタウン圏内として駅周辺の商業施設などの整備、住宅のマンション化も進み、温泉街は6軒となり利用客も約20万人(平成12)となっている。
●阪神(7)  「寶塚少女歌劇」(宝塚市)
(昭和初期)
 阪急電鐵會社では川邊郡小濱村に大浴場新温泉を開設し、浴客吸引策として劇場を経営し少女歌劇を組織したが、その少女歌劇が却て温泉よりも有名になり、少女歌劇のために寶塚は急激な發展をした。一方歌劇團は寶塚より毎年東京に進出し、帝劇の舞臺で公演するやうになり、現在では日本で唯一の研究的な歌劇團として聞えてゐる。圖はその華かな舞臺面である。
(現在)
 昭和初期に欧州から帰国した演出家たちにより、パリ風のレビューなど少女歌劇は華々しい時期を迎えていた。 東京に宝塚劇場のオープン(昭和9)、宝塚歌劇団に改称(昭和15)、本場のドイツ・イタリアへの初の海外公演。戦中は勤労動員や慰問に、 また押し迫って大劇場の閉鎖と海軍航空隊の接収。戦後は進駐軍に接収を継続され、東京公演が中心となる。接収解除から待望の復活。 一時、昭和後半に入って低迷期を人気番組「ベルサイユのバラ」でカバー、現在の発展に繋げている。
 現在、花・月・雪・星に加え宙(そら)の5組が活動して、 宝塚文化の源、エンターテイメントのメッカとして、古今の人気を得ている。
●阪神(8)  「西宮市」(西宮市)
(昭和初期)
 西宮市はゑびす社と酒造とに於て其の名を知られてゐる。抑々西宮の發展はゑびす社を中心として起り、海濱に於ける聚落を見なかった。然るに五百年程以前に漸く酒造地として知られ、海濱に沿うて酒造家の發達を見、所謂江戸積みと稱して凡て海運に依りて輸出された爲めに聚落の中心は次第に海岸に移動し、灘五郷に於ける西宮郷の醸造地として名聲を博するに至った。近時ゑびす社北方に阪神電車通ずるなり。之に並行して阪神國道、省線鐵道を有する爲め、市街の發達は再び交通線附近に移動しつつある。寫眞の森はゑびす社即ち西宮神社で阪神電車線が左方に見える。
(現在)
 酒造業のほか、大正・昭和初期に栄えた阪神間モダニズムぶんかの中心地、高級住宅街として発展してきた。 阪急電鉄、阪神電鉄とも競うように沿線開発を進め、近代的な都市を形成してきた。
 阪神工業地帯の一角で、戦後に北部の郊外地域を合併して現在は人口約49万人
(2013年)。 中心となった西宮神社は、日本のえびす神社の総本社であり、1月10日の十日戎開門神事福男選び、大マグロの奉納、有馬温泉献湯式など、100万人を超える参拝者で賑わう。
●阪神(9)  「尼ヶ崎市」(尼崎市)
(昭和初期)
 淀川より分岐した神埼川は河口に於て幾多の支流に分かれて更に無数の溝渠を通じ、其處に水都尼ヶ崎市を發達せしめた。 加ふるに東海道線・福知山線・阪神國道・阪神電鉄等集まって水陸交通の便頗る良く、工業都市として最上の地理的位置を占めている。寫眞は上空より市の中心地域を俯瞰せるもの。中央白亜建造物は尼ヶ崎市立中学校で比の地は尼ヶ崎城址である。中央右より左に通ずる鉄道は即ち福知山線で左端が其の終点尼ヶ崎驛である。水陸両輪の連絡頗る良好なりを察知することが出来やう。上方左右に一條の白線を引けるは阪神國道であって、電車を通じ、自動車道路としても頗る完備してゐる。

(現在)
 工都尼崎の発展に伴い、市全体及びこの周辺の変遷は著しい。旧写真下方の水路は尼崎港に通じ ていた。現在国道43号線下にあって、 当時は福知山線の「尼崎港駅」があった。旧写真で白亜建造物を尼崎市立中学校(現在の県立尼崎高校?)としているが、当時は、大正12年に建築された旧市立城内小学校の校舎(現在は取り壊された城内中学校校舎)と思われる。同建造物の上隣の小さい白亜の建物は、現在も残っている旧尼崎警察署の建物である。
 現在この地は、尼崎城址公園、市立図書館、高校、中学、小学校など文教地域としての整備が進められている。
●阪神(10)  「灘酒井戸西宮宮水」(西宮市) 
(昭和初期)
 灘酒の芳醇なのは、摂津・播磨の良米を原料とし、西宮に湧出する所謂宮水を使用するからであって、之に灘附近の冬の気候と丹波杜氏の技量が加はると共に、 其の樽材として選ばれた吉野杉が特種の芳香を有するからである。中にも所謂宮水なりものは灘清酒獨特の用水で西宮海岸近くに湧出する特種の水である。 之は一種の硬水であって石灰質に富んでゐることも一原因であるが、此の他に炭酸瓦斯含有量の多いことも確に一因であらう。之は本地方の高町の各地に湧出する炭酸泉が地下水となって此の附近を流るる為であらう。 現在西宮には此の宮水の井戸が百四十六あって、奈良の酒造家も皆此の水を購ふて酒造してゐるのである。
(現在)
 西宮の宮水は、1837年(天保8年)、当地の桜正宗6代目蔵元の山邑太左衛門が発見したと伝わる。その井戸「梅ノ木井戸」には宮水発祥の地の石碑が立つ。 この地は阪神工業地帯として発展してきたところであるが、関係者の努力により奇跡的に宮水の保全がなされてきた。昭和60年には環境省の名水100選に指定されている。 現在も宮水は各酒造会社で管理されているが、1997年(平成9年)に大関・白鹿・白鷹3社が共同で「宮水庭園」として整備し、酒造りの歴史や宮水の由来等の説明板も立つ。
●阪神(11)  「灘の酒樽」(西宮市)
(昭和初期)
 灘の酒造は足利時代から聞えてゐたが、天下の名酒として廣く世に知らるるに至ったのは、江戸時代に所謂樽廻船によって江戸へ送られし以来のことで、幕末の天保頃には江戸積の樽數が實に十七萬樽を數へたと言はれてゐる。灘とは元、菟原郡の意稱であるが、後世武庫川口から生田川口の間の海岸を指したもので、所謂灘の五郷は、今津郷・西宮郷・東郷・中郷及び西郷を含んでゐる。此の地に於ける酒造高は現在約六十萬石である。寫眞の酒樽は西宮の酒造業者の倉中にあるもので、毎年冬季百日と稱する丹波の杜氏によって醸造さるるものである。
(現在)
 灘五郷は、現在、今津郷(西宮市今津)・西宮郷(西宮市浜脇と用海地区)・魚崎郷(東郷)・御影郷(中郷)・西郷で、全国の約3割の生産出荷量を占める日本一の酒どころです。29企業、従業員1,626人、生産163,121kl、生産金額1120億円で、うち3%を輸出している。西宮では、今津郷に3社、西宮郷に10社。酒ミュージアム・白鹿記念酒造博物館、酒造り煉瓦館、白鷹禄水苑などの資料館がある。
(参考資料:昭和4年改造社発行『日本地理体系第7巻近畿編』より)

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