郷土の今昔物語(東播磨地域)

郷土の今昔物語(東播磨地域)

●東播磨(2)  「明石港」(明石市)
(昭和初期)
 明石は畿内と山陽との関門をなし、明石川の河口に在り且つ淡路島に近い為に有史以前原始時代より人文大いに開け、附近に遺物遺跡が多い。市の東部の大蔵谷は上古大蔵を置き、地方より都に納む租稲等を一時貯え船で運上した。元和2年より城下町となり、現在は遊覧都市並びに地方の商工業の中心地となった。人口約4萬。
 現在の港は元和4年明石城建築中に掘ったもので、寫眞に在る如く専ら帆船や發動機船の出入する港である。是等の船は付近の魚類を明石に運び明石の物産を大阪、神戸に運ぶ。この港から淡路各港に定期船が出る。もとより大きい港ではないが、明石市の繁栄には少なからぬ関係がある。港の西に縣立水産試験場がある。 
(現在)
 明石の人口は今や30万人。現在の明石港の西側護岸(石積み)に立つ灯明台は、1657年(明暦3)に明石藩松平忠国が構築したもの。1932年(昭和7)に改修されて灯台となったが、1963年(昭和38)3月に廃止となり、照明器具も撤去された。港の拡張によって沖合いに新しい護岸、最新式灯台も整備され、フルシービューであった港も奥まった感じがある。それでも、淡路島や明石海峡大橋を顔面に、昔帆船が航行していたところを淡路島への連絡フェリーが通う。 
●東播磨(3)  「瀧野(一)」(加東市)
(昭和初期)
 寫眞は鮎狩の名所瀧野である。加古川の上流、播丹線加古川駅から約1時間で、瀧野驛に至る。加古川は上流を佐治川と言ひ、丹波方面から流れて来る篠山川と、西方の杉原川とを合せて播磨平野を流れる。其丹波高原から平野に移る附近が瀧野で、岩石が河中に起伏し○激湍をなして頗る奇観を呈してゐる。夏季は鮎漁で賑ふ。

(現在)
 古来より水運で賑わい、この地滝野(現在、加東市)は、加古川の上流と下流との中継基地として物流の結節点となり、内陸地域経済の要衝となっていた。
 幕末の詩人、梁川星巖によって、川床の奇岩、怪石の間を川の水が流れる様を闘う龍に称えて「闘龍灘」と名付けられた。県下有数の観光地であり、飛び鮎の名所となっている。

●東播磨(4)  「瀧野(二)」(加東市)
(昭和初期)
 鮎が急湍を遡る性質を利用して圖のやうに人工的の瀧を作ると、鮎が之を昇らうとして跳ね上る。それを網で捕へるのだが、點點と見えるのはメりそこねた鮎である。斯うして捕へた魚は、脂が抜けず甚だ美味である。
(現在)
 闘龍灘の荒々しい水流に育まれた鮎が名物となっている。鮎の料理(定食、会席)、鮎の飴炊き、鮎もなかが人気である。
 毎年5月1日には「鮎まつり」を催し、全国に先駆けて鮎漁が解禁される。
●東播磨(5)  「高砂」(高砂市)
(昭和初期)
 謡曲で有名な高砂は播磨國の加古川の河口にある。加古川の下流附近は歌枕で有名な印南海で、徳川時代の初期迄、沮洳(しょじょ)地であった。高砂は高い砂地の意。 即ちデルタであって、風土記の南眦都麻嶋、萬葉の加古島に當るお考えられる。この地の成因は土砂の堆移以外に土地の隆起及び人力等に関係が深い。現在の地勢は慶長以後の人工に依るもので、圖の右は本流、其左は支流で港となってゐる。
 舊幕時代には付近に百間倉を設け、姫路藩丁の年貢米を貯へて港から移出したから大に榮えたが、今は山陽線に勢力を奪はれた。町の中で樹木茂れるは相生松で知られる高砂神社である。神宮皇后が征韓の途上、大己貴命を祭り、圓融帝の御代、素盞鳴尊及び御妃を御祀せしめ給らた。 松林は東方の尾上神社濱宮附近に續き隆起海岸の沿岸洲上に生じたものである。
(現在)
  「風土記」や「万葉集」、有名な謡曲の題材になっているこの景勝の地、加古川河口に広がる高砂は、大都市に近く、豊富な水に恵まれた地である。戦前あった軍需工場は、戦後になって重化学工業へと転じられ、機械、製紙、化学、食品、電力など多くの基幹産業、関連産業、住宅なども集中し、播磨臨海工業地帯の中核となって、日本の高度経済成長を支えている。
●東播磨(6)  「高砂製紙所」(高砂市)
(昭和初期)
 加古川の河口近く右岸に一支流があって、このまた右岸に三菱の高砂製紙所がある。支流は流れて高砂港に注ぐ。高砂港は史上有名だが、土砂の為に次第に浅くなる傾向があり。到底大船は容れられない。工場は用水や運輸の點を考へて設けられた譯であるが、港が悪く運輸の便は餘り受けてゐない。又山陽線は高砂の北の加古川町を通るので、そこから運賃の高い私設會社線があって陸運も不便である。
 機械文明時代に汽車汽船の恩恵が少なければ地理上大いに不利であるから三菱製紙所は此の點考慮しなければなるまい。
(現在)
 陸運船運の悪いと評された当時と違い、播磨工業地帯の中心地となって日本の兵庫の経済発展を支えてきた地域になっています。鉄道、道路、港湾全てが高利便性を誇り、正に隔世の感があります。
 現在の同地で操業するこの工場には、当時の建物が、魚町倶楽部の建屋(1904年竣工)など多く残っています。
●東播磨(7)  「相生松」(高砂市)
(昭和初期)
 加古郡高砂町の縣社高砂神社の社頭を壓して鬱蒼たる高砂の松である。謡曲にいはゆる相生の松とはこの老樹で、赤水紀行に「昔の相生の松は絶え、元禄年中(凡そ240年前)國主本多政武(明石侯)の植継とぞ、片椏づつ赤松黒松に分かれたり。但古松に比べて其連理の枝なきを相違とす」とある。また、古今集に、「誰をかも知る人にせん高砂の松も昔の友ならなくに」 
(現在)
 「相生まれて相老いるまで」と縁結びと長寿の「相生松」は、1913年(大正13)に天然記念物の指定を受けていたこの三代目の松は、1938年(昭和12)に枯れて、神社内に幹が保存されている。現在の松は五代目。
 以前は復興明媚な松林に臨んでいたが、海岸埋立てによる臨海工業地帯が造成され、重化学工業が多く進出し、神社は街中の一角にとどまってしまっている。
●東播磨(8)  「加古川口」(加古川市)
(昭和初期)
 加古川は播磨風土記では印南川といひ、源は丹波國氷上郡から發して幅せまい分水界によって日本海に注ぐ由良川の支流に接してゐる。上流に至るまで緩傾斜で海抜100米を超す事なく、川に沿って南北の交通線がふるくより發達し、又南北の人々の間に絶えず争闘のあったことが風土記によって知られる。川口の右岸には風土記の印南郡、亦万葉集の加古島に當るといはれる高砂港がある。河口の一支流に工事を施して港を築き、現在では兵庫縣が改築に従事してゐる。謡曲に名高い高砂神社は之に續く高砂浦の名松と共に知られてゐる。
(現在)
 加古川河口付近には、現在南から、県道718号線、山陽電鉄、JR山陽新幹線、国道250号線、国道2号線、JR山陽線、加古川バイパス(国道2号線)の7本の橋が架かっている。
 加古川西側(右岸)は高砂市、東側(左岸)は加古川市。共に播磨工業地帯として埋め立てが進み、大企業の工場が林立している。高砂港、現在の東播磨港は、重要な地方港湾でもあり、道路、鉄道と併せて、この地が陸海交通の要衝であることは変わっていない。
●東播磨(9)  「三木金物」(三木市)
(昭和初期)
 兵庫県美嚢郡三木町は、鋸・鑿・鉋・小刀等の産地として越後の三條町と並んで、全国的に有名である。三木町の戸数約1,100戸中金物製造に従事する者811戸あり、外に金物販売業、鉋の臺、鋸の柄等附属的の職業を加えると此山間の少市街は大工道具製作で立って居ると言ってよいのである。此地は徳川時代から鍛冶が多く住んで、周囲の山から豊富な木炭を得て業務は次第に發展した。
  同縣加東郡小野町も亦鎌・鋏・剃刀等の製造が盛である。三木も小野も独特の技術で刃物の切味が好い事が今日の盛況に導いたので、鎌の如きは満鮮臺湾南洋あたりまで販路を拡張し其の前途を嘱目されてゐる。 
(現在)
 戦後の荒廃した国土の復興と建設が進み、大工道具需要の急増。軍需から民需への転換が進み、高度成長期を通じ、公共工事や住宅建設の盛り上がりとともに、全国へ世界各国へ内需輸出にあわせて販路は拡大していった。ただ、最近の長期経済の停滞や中国等の外国製品との競争は激烈である。
 この三木の利器工匠具および小野の家庭用刃物、鎌は依然として全国トップのシェアを誇る。
 写真は、三木市立金物資料館の展示。
【取材未了・未掲載の項目】
●東播磨(1)  「明石」(明石市)
●東播磨(10)  「凍豆腐」(多可町)
(参考資料:昭和4年改造社発行『日本地理体系第7巻近畿編』より)

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