郷土の今昔物語(西播磨地域)
(昭和初期) 姫路城(一名白鷺城)は姫路市の中央平野に位置し圓郊の各正面1,000m内外。姫山(或いは姫路山)に濠塁あり。太閤丸、二丸等の稱あり。平地を抜くこと約30m。姫路は古國府の所在地にして、山陰、山陽諸道路を扼し、要衝の位置を占む。此の城は貞和年中、赤松貞範の創築に係り、文明以後小寺氏代々此処に居れり。天正中、小寺(黒田)美濃香守宗圓、其子官兵衛孝高、織田氏に属し、羽柴秀吉を迎ふ。秀吉三重の天守閣を設け、城郭を修築して、中国経略の根拠地となす。慶長5年、池田輝政此の地に封ぜられ、90萬石を領し、五重の天守閣を起す。孫新太郎光政鳥取に移さるるや、本多、松平、榊原、酒井相継いで城主となる。明治維新後、第10師団司令部を置く。 頼山陽の姫路懐古「五疊城楼挿晩霞、瓦紋時見刻桐花、えん州曾啓阿瞞業、淮鎮堪興匡胤家、甸服昔時随臂指、勲藩今日扼喉牙、猶思経略山陰道、北走因州路作叉」
(昭和初期) 生産地は姫路市で其起源は詳でないが、文禄慶長の頃漸く盛となり姫路藩主の奨励により、武器嚢・馬具・煙草入等を製造したもので、後河合寸翁の奨励によって一層發達した。廢藩後衰退に向ったが近年漸次挽回しつつある。現今製品は文庫・硯箱・小提鞄・巻ろう入・札入等が主である。縣下總産額は18萬餘圓で販路は臺灣・朝鮮・満洲・内地一圓である。
(昭和初期) 播磨國揖保郡の斑鳩山斑鳩寺は、かって聖徳太子が推古天皇の勅により岡本宮に法華経を講讃したまひし時、天皇より此の揖保郡の水田991平方粁餘を賜わったのであるが、其の後此の地に建てられたのが即ち今の斑鳩寺であるといふことである。 昔は講堂書院も旺であったが、天文の兵火に焼けて、現在の講堂は何れもその後の営構である。本堂には釈迦薬師、観音の諸尊を安じ、境内には三層塔、弥勒堂、鐘楼其の他の諸建物がある。
(昭和初期) 寫眞は龍野町の揖保川べりに散在する醤油醸造工場の一つで、立つのでも一番古い歴史を持った浅井醤油會社の仕込倉の内部である。舊幕時代、脇坂藩主の指圖に依って作ったもので、今尚この一棟は昔の名残を留めて居る。太い黒光のする梁の下には、諸味仕込の大きな桶の中には諸味がどろどろして居る。この倉の直ぐ隣には混凝土の仕込タンクを装置した現代式の仕込倉が明るい感じで建ち並んで居るのだ。舊式な蔵は近々取毀され、全部新式のものに變へられるといふ。醤油の味も昔の味から漸次混凝土の味に變って行く。
(昭和初期) 赤穂義士の頭領大石良雄の屋敷跡は赤穂町舊城址内にある。今は殆ど取り拂はれてその跡が大石神社にあったが、園地泉石の配置が往時を追想するに充分である。寫眞は僅かに残った長屋で、丸槻には大石家の紋所で二つ巴が刻まれてゐる。寫眞には見えないが池邊の老櫻は良雄が遺愛の老木で、武士の心を語りがに今も美しく花を咲かせでゐる。
(昭和初期) 兵庫縣赤穂郡赤穂町上假屋東組に鎮座で大石良雄を始め寺坂信行に至る47義士と中折の士萱野重實を併せ48士を祀る。祭神の事績は説明を要しない事で元禄15年故主の仇を斬り大義を全うし同16年2月死を賜ったのである。明治33年赤穂町の大石舊邸内に神社を建つ事を許され大正2年6月社殿設備竣成し昭和3年2月縣社に列せられたのが今の神社である。社は舊城址にあるので老松鬱蒼として前に瀬戸内海を望み山海の勝景備はった所で寫眞は拝殿の正面である。
(昭和初期) 寫眞は坂越峠より千種川の河口を望んだもの。左岸に小さく見えるのは坂越村で左の山の間を通って内海に臨んで坂越港があり、港の東方には坂越赤壁で知られる生島がある。坂越村からは寫眞で見える坂越橋を渡り川の右岸に達すれば赤穂町の北郊である。河口に微に見えるのが赤穂町で人口8千許り、有名な赤穂鹽田の中心で専賣局出張所が置かれてある。町には又正保2年浅野長直が近藤三郎左衛門。山鹿素行に築かせた加里屋城址がある。千種川の流域は石英粗面岩又は花崗岩が主で、寫眞に見える高地は石英粗面岩である。是等は雨水に容易に崩壊して河口に流され其處に美事な鹽田を發達せしめる。
(昭和初期) 素麺といへば直ちに播州を聯想する程兵庫縣下の素麺製造が盛である。本縣の素麺製造は文化年間から始まり明治12〜13年頃から逐年生産を増加し、昭和3年には播州素麺同業組合だけで83萬餘箱、367萬餘圓を生産した。播州産小麦の品質と同地の気候が素麺製造に好適し、大需要地京阪神に近く且つ交通の便宜しく九州・中國・四國等の消費地に輸送が便利な為め今日の盛況を来した。製品は手延製品と機械製品に区別せられる。揖保(イボ)の糸、三幡(ミハタ)の糸、御幸の糸、飾磨の糸等は前者に、揖保、三幅、白鷺の糸等は後者に属する。主産地は揖保、飾磨両郡で年産額600餘萬圓である。
(昭和初期) 近畿に於ける諸工業の中には假令(たとへ)其の發達の一因は文化の為であっても、主として其の原料によって其の所在が定まったものも少なくない。・・・・・(焼物・灘五郷)・・・。 此の他また其の原料産地、若しは之に近き為に發達した近畿の工業には伊勢の種油、龍野の醤油等がある。
(昭和初期) 播磨國書寫山の圓教寺は、永延2年性空上人の開創するところ、如意輪観音菩薩を本尊とし、西國三十三所の中第27の札所である。花山法皇が性空上人の高徳を感じて此の山に御幸あり、晝工をして上人の眞像を圖せしめられた時、山動き地震ふにより法皇大に驚きたまふ。上人の面上に小き痣あり。晝工未だ之に気付かざりしを、震動に驚きて筆を落せしために、墨飛んで痣の形をなしたといひ傳へられてゐる。書寫山といへば必ず性空上人の名が出るほどに山も人も有名である。