郷土の今昔物語(但馬地域)

郷土の今昔物語(但馬地域)

●但馬(1)  「生野鉱山工場」(朝来市)
(昭和初期)
 写真は選鉱場を始め諸工場を撮ったものである。道路に直接面した建物は機械工作場で、構内に鉱山事務所もある。
  生野鉱山は上古大同の頃から採掘されたと伝えられ、延喜雑式には但馬の銀の事が載せられている。織田信長の頃より盛んになり、徳川氏は代官を置き、維新後は官有地御料地となったが、遂に三菱の手に帰し、今日に及んでいる。  
(現在)
 日本の近代鉱山として、明治維新後、官営から皇室財産、そして1896年(明治29年)に三菱に払い下げられてから、企業城下町として発展してきた生野。その中心であった三菱の鉱山本部と周辺工場。今は、三菱マテリアル生野事業所及びサムコ。 この川岸沿いに、金香瀬鉱、選鉱場から播但鉄道旧生野駅まで鉱石運搬用の電気機関車専用軌道が走っていました。
 現在は鉱山、鉱山街の風情と、鉱石の流れ、西方の明延鉱山から続く「鉱石の道」、生野から瀬戸内海姫路の飾磨港までの「銀の馬車道」を辿る一大観光ゾーンを形成しています。 
●但馬(2)  「生野鉱山(坑口)」(朝来市)
(昭和初期)
 生野鉱山は兵庫県姫路市の東を流れる市内川(市川)の上流にある。鉱区は4つで現在は金香瀬のみ採掘されている。写真はその金香瀬の坑口。鉱山内は新成玄武岩が数脈南北に走っている。大坑道がこれを貫き、坑道の上下に更に十数個の小坑道が並走、中央に鉱山用のケージがあって上下の坑道から採掘された鉱石を集め、電車に乗せて選鉱場に送る。  
 坑内には多くの穿岩機があって、一台が一日に1.23mから1.5m位前進する。鉱夫は機械の足らない処を補って岩石を採取する。穿岩機の動力は、写真の左に見える鉄管で送られる圧搾空気である。現在は毎月1万トン位の鉱石を採取する。そして有用鉱物は主として黄銅鉱で、採取後選鉱される。
(現在)
 全国有数の近代鉱山として貴重な鉱石資源を産出していた生野鉱山は、昭和48年(1973年)に閉山となり、1200年の長い歴史を終えました。この金香瀬の坑道は、江戸時代から近代の採掘ゾーンなどを残した観光坑道、坑口周辺の鉱山資料館、吹屋史料館、ミネラルコレクションの生野鉱物館などが整備され、一大観光施設となっています。
●但馬(3)  「豊岡市街」(豊岡市)

(昭和初期)
 兵庫縣城崎郡に在って戸数2,500。柳行李、バスケットの産地として著はる。圓山川の左岸に突出した第三紀層の山脚を城に利用し、其の下に出来た城下町で、町の成立の地理的原因は福知山に似てゐる。大正14年5月24日の地震の為に町の大部分を焼失しtが全く復興し、道路も震災後新しい計畫によって設けられた。
 寫眞は郵便局、町役場附近より停車場を望んだもので、右に見えるのは郵便局である。停車場から大通を東に歩めば圓山川に達する。圓山川は豊岡城の濠に利用せられたが近時度々氾濫したので、大正9年より治水工事に努めてゐるから、今後は其の憂を絶つであらう。河口にかけて舟運の利も少くない。

(現在)
 県内日本海側の中心地として発展してきた豊岡市は、周辺市町を合併し、現在、約698千u、人口85千人、3万世帯の都市に変貌した。城崎温泉や神鍋スキー場、出石城下町など有名な観光地を抱え、農林水産業や観光産業のほか、かばん、出石焼、但馬ちりめんなどの地場産業が栄える。
 中心市街地は、基本的に大被害を受けた昭和初期の震災(北但馬地震)からの復興事業として近代的な都市形態に生まれ変わり、現在に至っている。当時の郵便局、市役所をはじめとする建築物は近代化遺産として保存活用されている。
 しかし、2004年の台風23号で円山川が氾濫し、市街地は大きな洪水被害にあったが、立派に復興している。
●但馬(4)  「豊岡の柳行李」(豊岡市)
(昭和初期)
 城下町として地方の小中心であったが、豊岡町は近来柳行李、バスケットの製造を生命とする。尤も(もっとも)製造者は町許りでなく近在の村落にも多くあり、年産額凡そ300萬圓を超えるが、販路は内地は勿論海外にも及んでゐる。材料は附近の他高知縣・愛知縣・岐阜縣から移入する。4月下旬から5月上旬にかけて柳の皮をとって、よく乾燥させて原料とする。
 寫眞は行李を編んでゐる處を示す。一人前の男は1日に大行李2個を作る。この行李類を町の加工場で革等をつけて完全な商品をする。豊岡の柳行李は元住民が冬季雪に閉され、副業として起したものが次第に發展したのである。
(現在)
 柳行李、バスケットの製造が中心であったが、現在はかばん産業に変貌している。地域経済を支える地場産業としてのかばん産業は、現在55企業、総従業員数900人、年間約73億円を生産して、全国の約28%を占め、国内一の産地と形成している。
 柳行李などの杞柳製品は、海外(中国)からの輸入品に圧倒されて減産の一途を辿ってきた。現在では、国の伝統的工芸品に指定され、後継者育成、デザイン開発に努めている。2006年に豊岡杞柳細工ミュージアムが玄武洞公園に開設されている。
●但馬(5)  「城崎」(豊岡市)
(昭和初期)
 城崎温泉は日本海に注ぐ圓山川の左岸に注ぐ一小支流に沿って湧出するものであって、音頭は41度乃至46度で、ラヂウムを含んだアルカリ性鹽類泉である。道智上人が一切衆生の痼疾を濟度せんが為に屋を構へ槽を設けたのが温泉の起源であると傳へらる。有馬や道後等と共に由緒が古い。城崎温泉寺は元正帝養老元年道智上人の開基であって、寺は海抜100米近くの高所にある。寫眞は此處より城崎市街と圓山川とを望んだものである。
(現在)
 国内の由緒ある三大温泉の一つとして、古い湯治場の風情を残し、古今の文人墨客らの好むところとなり、近畿圏等から年間約70万人の観光客で賑わっている。
 名所も多く、城崎文芸館、城崎麦わら細工伝承館、温泉寺、極楽寺、幻想的な雲海の風景が現れる来日岳、希少鳥のコウノトリが見れる多彩な自然が魅力となっている。
●但馬(6)  「城崎温泉一の湯」(豊岡市)
(昭和初期)
 大正14年の大震災に全滅した城崎温泉場も最近全く復興した。街道は震災前のやうな落ち付きはないが、以前に優る大きな建物が並んで居る。此處は道後などと同じく總湯式で、浴客は皆宿の下駄を穿いて近くの總湯に行くのである。早朝より夜更迄此の温泉街は浴客の下駄の音で賑はって居る。従って總湯は皆それぞれ立派な建物で大きな大理石の浴槽には綺麗な温泉が深々とたたえられて居る。
 寫眞は總湯の代表的なもので一の湯と言ひ、此の邊が温泉街の中心である。籠をかついで居る女は此の邊の名物である蟹賣で朝早く蟹賣の聲は秋から早春にかけての此の街の一の情趣である。 
(現在)
 城崎温泉の名物は「外湯めぐり」。旅館の内湯のみならず、多彩な外の湯に入浴して廻る楽しみが日本で初めて取り入れられた温泉です。 外湯には、この一の湯のほか、御所の湯、地蔵湯、柳湯、まんだら湯、鴻の湯、さとの湯の7つがあります。ゆかた姿で、文人墨客ゆかりの地、文学碑をめぐりながら、 外湯や土産物の店などが建ち並ぶ、風情あふれる温泉街を散策できます。毎年4月には「温泉まつり」が催されます。
●但馬(7)  「鎧附近漁村」(香美町)
(昭和初期)
 餘部の陸橋の東のトンネルを抜けると鎧驛がある。寫眞は驛附近より入江の一部を見下して撮ったものである。この入江も餘部と等しく解析された河谷が沈降して溺れ谷となったものである。
 夏季には風少く波穏かにして、入江は紺碧の色を湛へてゐる。第三紀層より成る岬は緑に茂り、赤褐色の漁家の屋根の瓦と互に映えて何ともいへぬ美観であって、入江内にはボートも浮べられてゐる。入江の内には風波を避ける為に漁村の成立してゐる事は當然であるが、目を遮る網や魚の乾したのが無ければ、此處は一段の眺を増すであらう。岬には殊に冬季の強い北風の為に生ずる浪の為に所謂洞門を生じ、かくて次第に破壊されつつあるのである。  
(現在)
 この周辺の海岸は、変化に富んだ地形・地質で、香住海岸や但馬御火浦(たじまおぼそうら)などの海岸崖・海食台・洞門・鎧の袖と称せられる節理など珍しく、2010年に世界ジオパーク(地質世界遺産)に認定された山陰海岸にあります。
 日本海漁業の中心地で、かにやいかなどの水揚げが豊富な地域です。この鎧の地区は、それらの中にあって、なお昔の自然や風情を留めて、漁村特有の焼き板壁や石垣の家が並び、往年に大活躍した、港からJR鎧駅まで運搬する「魚類運搬車軌道(インクライン)」の跡も残っている。
●但馬(8)  「玄武洞遠望」(豊岡市)
(昭和初期)
 玄武洞は山陰本線玄武洞驛附近に在り、寫眞は驛を下り圓山川に舟を浮べて撮ったもので、洞の外観は汽車の中からも遠望できたのであったが、昭和4年6月6日の大雨の為に、上から崩れて洞窟の前に堆積して、汽車の中からも又舟の中からも遠望できなくなった。けれども内務省が復舊工事を行って遠からず元の如く遠望ができる様にする筈である。玄武洞の洞窟は火成岩の玄武岩が其の柱状節理に従って出来たものである。 
(現在)
 円山川を挟んで、玄武洞へは対岸に設けられたJR山陰本線「玄武洞駅」前から渡し船が通っている。もちろん、対岸にはアクセス道路が完備している。
 国の天然記念物で、山陰海岸国定公園に、また2010年に認定された山陰海岸ジオパークの中心的自然である。
●但馬(9)  「玄武洞」(豊岡市)
(昭和初期)
 玄武洞とは柴野栗山の命名したもので、玄武岩の節理が直立した柱となって洞状をなしてゐる。柱の形は5角乃至8角形をなし、黒井緻密で20數糎(センチメートル)乃至3分の1米毎に破目があって、天然の扁平の切石である。故に採石せられた其の跡が空洞となったのであって、洞門宏闊底に清水を湛へてゐる。今は天然記念物として保護せられ、四時観客が絶えない。
 この玄武洞の南約36米の處に青龍洞といふ小さい洞門があるが、柱の断面が遙かに小さい。この玄武岩は風雨の為に崩れ易く、寫眞で見る如く一種の崖堆をなすこと甚しい。 
(現在)
 玄武洞(玄武岩の見事な柱状節理)を含めて、同様の青龍洞(長い柱状節理)、白虎洞(水平柱状節理とその断面)、南朱雀洞(節理が間近に)、北朱雀洞(節理の垂直から水平に変化)など、天然の玄武岩塊がむき出しの特異な地質の表情を見せている。ここの岩石の研究が、地球の磁気の逆転現象を証することで、地球科学で言うプレートテクトニクス説構築に貢献した。まさに、ジオパークの世界的な地質遺産である。同公園内には、玄武洞ミュージアムも開設されている。
●但馬(10)  「餘部陸橋」(香美町)
(昭和初期)
 山陰本線鎧驛と久谷驛との間にある陸橋で日本海に面してゐる。我国で始めて出来たトレッスル式鐵橋で、高さは41米、長さ360餘米、工費35萬圓を要し、山陰線中の一偉観である。
 鐵橋の下は餘部の漁村で赤褐色の屋根の瓦が目につく。寫眞で見る如く橋下には入海をなしてゐるが、この入江は地理學上から言へば元地體が隆起し、為に河谷が深く侵蝕され、その谷が再び沈下して河口より海水が浸入して今日の如く入江となったものである。この現象は餘部ばかりでなく、この附近一体の海岸に於て見られるもので、入江と岬とが交互してゐる。
 汽車が岬の内のトンネルを抜けると美しい入江が見られる。この地方では、入江の周圜には赤褐色の屋根瓦が並んでゐるのを常とする。餘部の谷は特に深く且幅廣く開拓せられてゐる為に大陸橋が架けられたのである。 
(現在)
 明治45年の架橋当時は未だ余部駅はなく、隣の鎧駅まで鉄橋や隧道を歩いて渡るしかなく不便であったが、昭和34年に地元民が協力して、橋の西部側に余部駅を完成させた。
 ところが、昭和61年に、鉄橋を走行中の列車が突風にあおられて約41m下に転落、水産加工場や民家を壊し、多くの人が亡くなる痛ましい事故が発生した。その後、架橋後100年を経た平成22年、老朽化した橋がコンクリート橋に架け替えられた。 旧橋の骨組みの一部を残して、余部駅には、橋梁・日本海・集落全体などが見渡せる絶景スポットとして展望台が設けられている。
 近隣の御崎地区は、平家のかくれ里、落人の里と伝わる。
●但馬(11)  「湯村温泉」(新温泉町)
(昭和初期)
 兵庫縣の北西端に山陰線濱坂驛があり、その驛から津田川に沿って10粁餘乗合自動車に乗れば湯村温泉に達する。寫眞の左に見えるのは湯の湧出口で、高温にして硫黄を含む。旅館5軒許りあり、内湯のあるものもある。野趣多くして精錬された城崎温泉等と比すべくもないが、閑静であるのがとりえである。鐵道から離れ、そして格別風光も美しくないから、従来世に知られなかったものと思ふ。
 山陰地方は白山火山脈が通ってゐるために温泉が多い。湯村温泉も其の一つであって、其の湧出口は花崗岩と第三紀層との境界にある。 
(現在)
 現在でも、湯量・泉質(炭酸水素塩・塩化物・硫酸温泉で無色透明)とも衰えを見せず、豊富に湧き出ている。ひなびた山奥の温泉であったが、春来川を中心に温泉街として拓け、発展してきている。
 20を越える温泉旅館・保養所・民宿が集まり、中心湯の荒湯、薬師湯、但馬杜氏伝承館、映画TVドラマで有名になった夢千代館、八幡神社、薬師堂、正福寺、清正公園など見どころもあり、多くの観光客で賑わっている。
●但馬(12)  「荒湯」(新温泉町)
(昭和初期)
 寫眞は温泉場の入口春来川に沿った崖の上に設けられた温泉利用の物ゆで場で、温泉の温度摂氏98度を有して居る。一日中殆ど絶え間なく温泉村の女達が交々籠に入れた青菜や芋類を抱へて此所に集る。濛々と立昇る眞白な温泉蒸気の中で女達が談笑しながら、すき透った温泉に青菜を入れた籠をひたして居る状は邊鄙な温泉場の特殊な情景である。温泉の香りと野菜の香りとの交った蒸気がその邊りに立籠めて居る。其處は此の温泉村の女達にとって唯一の社交場であり、各自の厨房の一部である。荒湯の正面には石佛を祀って、毎時も花や供物が絶やされないでゐる。 
(現在)
 温泉の中心地「おんせん橋」のたもとにあって、現在の湯量たっぷりで国内一熱い荒湯で、ほぼ沸騰する湯に玉子や野菜などを茹でている風景は昔と変りなく、温泉情緒を醸し出してくれている。荒湯には、温泉開祖の慈覚大師像、地蔵堂があり、若い女性にも人気の足湯も用意されている。
 日没になると、春来川と荒湯の周辺をライトアップした温泉景観は日本で初めてである。昼とは一味違う幻想的な光のファンタジーが楽しめます。
●但馬(13)  「生野鉱山(其二)」(朝来市)
(昭和初期)
 坑口よりの川下で右岸にある選鉱場において選鉱している一部を撮ったもの。生野と言えば銀山を想いますが、現在では銅山で、銀や金の産出はいたって少ない。その他、錫、蒼鉛、亜鉛、鉛も産出している。選鉱された工業価値の大きな鉱石は、電車で生野駅に運搬されて、そこから児島半島宇野港の付近の直島に送られて、精錬されている。
 明延及び生野を主とする兵庫県の錫の産出額は約160万円。日本の錫総額は約170万円で、錫だけ見れば、貧弱な近畿地方の鉱産界も少しばかり大きい顔が出来る。 
(現在)
 鉱石の生産額が多かった昭和25年から35年の最盛期では、旧生野町の人口は約1万人を超え、町内に建てられた社宅には多くの家族が住んでいました。まちの通りは大勢の人々で賑わい、お祭りも盛大に催されていました。
 昭和48年に閉山となりましたが、坑道の一部は史跡・生野銀山の観光坑道となり、古い民家や産業遺産が多く残り、保存活用を通して、未来のまちづくりが進められています。
(参考資料:昭和4年改造社発行『日本地理体系第7巻近畿編』より)

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