郷土の今昔物語(淡路地域)
(昭和初期) 淡路島の北東端の小漁港でまた夏期の海水浴場地である。写真正面海岸に見ゆるは岩屋の町で、其の上の山は花崗岩、斑岩より成る。付近の海は岩礁に富むが、漁業が盛んで船の出入りが多い。 また明石港から岩屋までは定期の発動機船が通う。岩屋は明石港とはやや斜めに対している。港のここに設けられたのは地形の良きためだが、淡路の最北端に在ると冬季の強い西風や、また速い潮流を受けねばならぬ故に、やや東南に避けたと考えねばならない。 淡路北部と明石付近とは狭い海峡を隔てて、岩屋港の東の浜に石屋という式内社があり、また明石港の西には由緒の古い岩屋神社があって、共に伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀っているから、明石と岩屋とは有史以前から関係のあった事が想像される。
(昭和初期) 淡路島の極北端に位置し、明石とは2海里を隔てて相対している。 明石海峡の入口に至りて、古来上下の船舶が風を待つ所であるのと、上代文化の一中心たる播磨印南野の向かうにあるので、古くから聞えている。 万葉集に「淡路島 松帆浦に 朝なぎに玉藻刈りつつ 夕なぎに藻塩やきつつ」など出ているし、かの定家卿が「こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに」と詠じた處もここである。 明石を出帆する淡路連絡船は、先ずこの松帆浦へ航し、燈台に連なる一帯の松林を右に見て岩屋港に達するのである。其の間幾十幾百の帆船がこの松林を背景として動き、詢に松帆浦の名を今なお辱めずに残っている。
(昭和初期) 淡路島山の西南には島山の名に副わず、平坦なる沃野が展開されているが、沃野の西部に、仰ぎ見る老樹の森々たる丘陵は淡路廃帝淳仁天皇の御陵で、その地は三原郡賀集(かしう)村。 御陵はまた天王の森とも称し、周囲370余間の濠で囲まれている。石の玉垣、檜の華表、この地一帯の燈明なる風光と相映じて、一層広壮森厳である。この付近にはまた、高天原、自馭盧島(おのころじま)、天浮橋、葦原国等の旧跡があって、日本建国の伝説に富んでいる。
(昭和初期) 官幣大社伊弉諾神社は、淡路島津名郡多賀村、志筑港を西に隔てる6キロの地に鎮座まします。伊弉諾尊を齋き奉り、淡路一の宮とも称す。 日本書紀に、「伊弉諾尊神功既にことごとく霊運常に遷り給いぬ是を以って幽宮を淡路の洲に構えて寂然に長く隱り給う」とあるが、幽宮の地が即ちこの地であるといわれている。 創建の年代は素より明らかでないが、応神、履仲、允恭の諸帝が親しく御参拝あらせられた御記録がある。境内には、齢の知れぬ松樹、樟樹万古の翠を籠め、神ながらの国を偲ぶに十分である。
(昭和初期) 淡路島は所謂内帯、外帯の相合して生成された其の東西両岸は断崖によって切られ、其の間に残された一の地塁が、即ちここである。内外帯の境は、大体洲本及び三原の二川を以って分かたれ、南部は中生代の砂岩及び頁岩の互層より成り、北部はこれと全然異なる火成岩より成る。其の凹所は礫岩・砂岩・泥板岩より成る第三紀層を以って埋め立てられる。 其の礫岩は花崗岩・花崗質斑・岩剥岩・粘板岩等の大小の圓礫である。それで、これらより成る断崖に海波は打ち寄せ、其の侵食力はこれらの海岸を破壊し、渚に高く堆積されたものが即ち五色石で、西岸鳥飼浦より郡家に至る海浜に多く、この付近の海岸は五色濱と呼ばれている。
(現在) 五色の小石が砂浜に溢れて「五色浜」と呼ばれている。地域開発が進められた際、海岸沿いに道路が整備されて背後の山からの土砂崩落事故を避けられることになったが、その土砂に含まれるメノウ・コハク・ルリなど五色の砂利の自然供給が制限されて浜は細くなっている。それでも奇麗な景色や浜は、淡路西浦の夕陽の眺めが素晴らしいサンセットラインにあって、有数の「五色浜海水浴場」として人気を集めています。 近くには、幕末期に日本の海運を支え、ロシア交流や近代化に貢献した豪商、高田屋嘉兵衛翁の記念館もある。