郷土の今昔物語(淡路地域)

郷土の今昔物語(淡路地域)

●淡路(1)  「淡路」(淡路市)
(昭和初期)
 明石海岸から淡路島まで最短距離約5qで、海峡は潮の流れが速い事を以って知られる。
 写真前方に見ゆるは淡路島の北端で、淡路島は陥没地帯中に残れる一種の地塁で、其の形は北北東より南南西に延びて細長い。 明石付近から見える山は花崗岩及び斑岩より成り、丘陵性山島であるが多くの小渓谷によって横断せられ幾多の山塊が群立する。 淡路の北部には淡路の北部には有史以前の遺跡遺物があるが、是等は明石付近のものと其の性質を等しくする。幅の狭い明石海峡によって文化は早くから本州を通じていた事が知れる。 
(現在)
 国産みの島、皇室や朝廷への食糧供給地「御食国(みけちくに)」、阿波への路「淡路」と呼ばれ、明治維新後、徳島県から兵庫県へ編入された。現在は、大鳴門橋で四国と、明石海峡大橋で本土と陸続き同然となり、豊かな農業・漁業、伝統文化を育んできている。
 現在の明石港から防波堤越しに淡路島を眺望する。 
●淡路(3)  「淡路島岩屋港」(淡路市)

(昭和初期)
 淡路島の北東端の小漁港でまた夏期の海水浴場地である。写真正面海岸に見ゆるは岩屋の町で、其の上の山は花崗岩、斑岩より成る。付近の海は岩礁に富むが、漁業が盛んで船の出入りが多い。
 また明石港から岩屋までは定期の発動機船が通う。岩屋は明石港とはやや斜めに対している。港のここに設けられたのは地形の良きためだが、淡路の最北端に在ると冬季の強い西風や、また速い潮流を受けねばならぬ故に、やや東南に避けたと考えねばならない。
 淡路北部と明石付近とは狭い海峡を隔てて、岩屋港の東の浜に石屋という式内社があり、また明石港の西には由緒の古い岩屋神社があって、共に伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀っているから、明石と岩屋とは有史以前から関係のあった事が想像される。

(現在)
 淡路島の北の玄関口、岩屋港。古くから明石等との連絡船発着場として、またバスターミナルとして島内交通の拠点となっている。 明石海峡大橋の開通後は、人と物の流れは変化しているが、依然として連絡船のほか、明石海峡周辺を魚場とする漁船やレジャーボートなどで賑わっている。
●淡路(4)  「淡路の繪島」(淡路市)
(昭和初期)
 繪島は淡路の東北端岩屋港外に大和島と相並んで横たわる周り72米余、高さ17米余の小島である。其の島形が稍奇なると、須磨・明石の対岸にあるので、古来歌枕では有名な處である。平家物語には、「福原の新都にある人々、名所の月を見んとて、須磨・明石を経て、淡路の灘を渡り、繪島が磯の月を見る」と記している。
 地理学上より見れば、この島は淡路島の北岸潮流の急なる處にあるので、海水の浸触によって削られた海触崖を作り且つ地層に硬軟の差あるためと岩石の節理とによって其の奇形が出来たのである。海水面に近き處に堅き岩層は水の浸触に堪えてもって岩卓を作っている。
(現在)
 国産みの神話の「おのころ島」伝承地の一つ。島の岩の表面に見える侵食模様や、2,000年前の砂岩層が重なる地質学的にも珍しい地層の小島である。
 絵島は、淡路島の北の玄関口である岩屋港の前にあって、バスターミナルの整備で、海岸沿いは公園となり、一段と陸地に近くなっている。夜のライトアップも美しく幻想的な素晴らしさで魅せる。
●淡路(5)  「淡路松帆浦」(淡路市)

(昭和初期)
 淡路島の極北端に位置し、明石とは2海里を隔てて相対している。 明石海峡の入口に至りて、古来上下の船舶が風を待つ所であるのと、上代文化の一中心たる播磨印南野の向かうにあるので、古くから聞えている。
 万葉集に「淡路島 松帆浦に 朝なぎに玉藻刈りつつ 夕なぎに藻塩やきつつ」など出ているし、かの定家卿が「こぬ人を まつほの浦の 夕なぎに」と詠じた處もここである。
 明石を出帆する淡路連絡船は、先ずこの松帆浦へ航し、燈台に連なる一帯の松林を右に見て岩屋港に達するのである。其の間幾十幾百の帆船がこの松林を背景として動き、詢に松帆浦の名を今なお辱めずに残っている。

(現在)
 古来、風光明媚で、数々の歌にも取り上げられ親しまれてきた「松帆の浦」は、松林が付近一帯に生え、砂浜の海岸が続く景勝の地だった。今は、眼前を長大な明石海峡大橋が対岸へ伸び、一大観光地だったという旧実の面影はなくなってしまっている。この祠も、海岸沿いの工場や公園の片隅に埋もれて、立ち寄る人も少ない。
 近くの公園に隣接する保養所敷地内に、江戸時代末期に勝海舟が造ったと伝わるお台場(砲台)跡がある。 
●淡路(6)  「淳仁天皇陵」(南あわじ市)

(昭和初期)
 淡路島山の西南には島山の名に副わず、平坦なる沃野が展開されているが、沃野の西部に、仰ぎ見る老樹の森々たる丘陵は淡路廃帝淳仁天皇の御陵で、その地は三原郡賀集(かしう)村。
  御陵はまた天王の森とも称し、周囲370余間の濠で囲まれている。石の玉垣、檜の華表、この地一帯の燈明なる風光と相映じて、一層広壮森厳である。この付近にはまた、高天原、自馭盧島(おのころじま)、天浮橋、葦原国等の旧跡があって、日本建国の伝説に富んでいる。

(現在)
 淡路島に唯一存在する御陵で、前方後円墳。天武天皇の皇子である舎人親王の七男で、758年(天平宝字2年)に孝謙天皇から譲位を受けて践祚した淳仁天皇は、764年の恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱のため廃帝され、淡路国に流されて765年亡くなられた。
 その後、長らく天皇とは認められず、御陵は山陵扱いとなっていたが、1870年(明治3年)、淳仁天皇の追号を得て、第47代天皇となった。
 近隣にも、初葬の地といわれる陵墓参考地や野邊宮、母の當麻夫人の淡路墓と伝わる所もある。
●淡路(7)  「伊弉諾神社」(淡路市)

(昭和初期)
 官幣大社伊弉諾神社は、淡路島津名郡多賀村、志筑港を西に隔てる6キロの地に鎮座まします。伊弉諾尊を齋き奉り、淡路一の宮とも称す。
 日本書紀に、「伊弉諾尊神功既にことごとく霊運常に遷り給いぬ是を以って幽宮を淡路の洲に構えて寂然に長く隱り給う」とあるが、幽宮の地が即ちこの地であるといわれている。
 創建の年代は素より明らかでないが、応神、履仲、允恭の諸帝が親しく御参拝あらせられた御記録がある。境内には、齢の知れぬ松樹、樟樹万古の翠を籠め、神ながらの国を偲ぶに十分である。

(現在)
 戦後、旧社格の廃止により、本庁包括となり、1954年に神社から「神宮」に改称した。現在は淡路市多賀となっている。日本神話にいう国産み、神産みのゆかりの地で、1932年(昭和7年)より、伊弉諾尊一柱から伊弉諾(いざなぎ)と伊弉冉(いざなみ)の2神が祀られている。
 境内には、本殿、祓殿のほか境内5社、また樹齢800〜900年と推定される県指定天然記念物の「夫婦の大楠」がある。
●淡路(8)  「五色濱」(洲本市)

(昭和初期)
 淡路島は所謂内帯、外帯の相合して生成された其の東西両岸は断崖によって切られ、其の間に残された一の地塁が、即ちここである。内外帯の境は、大体洲本及び三原の二川を以って分かたれ、南部は中生代の砂岩及び頁岩の互層より成り、北部はこれと全然異なる火成岩より成る。其の凹所は礫岩・砂岩・泥板岩より成る第三紀層を以って埋め立てられる。
 其の礫岩は花崗岩・花崗質斑・岩剥岩・粘板岩等の大小の圓礫である。それで、これらより成る断崖に海波は打ち寄せ、其の侵食力はこれらの海岸を破壊し、渚に高く堆積されたものが即ち五色石で、西岸鳥飼浦より郡家に至る海浜に多く、この付近の海岸は五色濱と呼ばれている。

(現在)
 五色の小石が砂浜に溢れて「五色浜」と呼ばれている。地域開発が進められた際、海岸沿いに道路が整備されて背後の山からの土砂崩落事故を避けられることになったが、その土砂に含まれるメノウ・コハク・ルリなど五色の砂利の自然供給が制限されて浜は細くなっている。それでも奇麗な景色や浜は、淡路西浦の夕陽の眺めが素晴らしいサンセットラインにあって、有数の「五色浜海水浴場」として人気を集めています。
 近くには、幕末期に日本の海運を支え、ロシア交流や近代化に貢献した豪商、高田屋嘉兵衛翁の記念館もある。

【取材未了・未掲載の項目】
●淡路(2)  「淡路島」(淡路市)
●淡路(9)  「淡路三條の操人形」(南あわじ市)
●淡路(10)  「馬」(淡路市、洲本市、南あわじ市)
(参考資料:昭和4年改造社発行『日本地理体系第7巻近畿編』より)

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