農村医療に注力! 神野石守の石見葛覃斎
  (郷土史にかかる談話 3)

農村医療に注力! 神野石守の石見葛覃斎

  播磨の内陸。「播磨國風土記」で有名な日岡山の東、現在の加古川市神野町石守(いしもり)の古くからある集落の中を一本の細い道が貫いています。途中、近くを通る県道から集落に入る細い道と交差するところに堂のあるこじんまりとした広場があり、片隅に古い石碑が囲いも無く立っていました。
 由来を記した碑文は左右と背面の3面に刻まれていますが、歳月を経ていて所々読み取ることはできません。ただ正面に大きく掘られた顕彰ははっきりと読めます。
 「葛覃斎(かったんさい)」

 約200年前の江戸時代文化2年(1805年)、古くから播州平野の米どころとして恵まれた地域で、村人たちの生活や文化のレベルは大変高かったここ石守村の代々続く農家に、六代目藤兵衛さんは生まれました。
 碑文は、次のように伝えています。
『葛覃斎寿塔の銘ならびに文』

 『この葛覃斎とは、かって吾らが霊松老人(和尚)が授けたところのものである。葛覃斎の俗称は、藤兵衛、姓は石見で、慎み深く義に厚く、農業を生業としていた。

 ある壮年の頃、老叔父が親族を遠くに訪ねるのに付き添い、江戸にて数旬(2ヶ月ほど)を越えて逗留した。その親族は医者ではなかったとはいえその技術によって薬屋を営んでいた。
 目の肥えていた葛覃斎は秘かに望み、親族は遠来の労にこたえて医術を伝授した。葛覃斎は無理に辞退することは却って悪いと思い、それほど強く親族には伝えてなかったが、日ならずしてその奥儀を窮めた。

 村に帰ってからもこれを黙っていたが、1年ほど経ったある日、近所の家の婦人が病に罹り、もう死にそうになった。二、三の国の医者も手をこまねいて、針も薬石も何を施してももうだめと言うだけであった。
 これを聞いた葛覃斎は、婦人のところへ駆けつけ、診察し薬を処方したところ、その婦人は一夜にして回復。この由故に、遠きも近きも珍しい病者で溢れる日が続いた。
 その治療の功績□□□(?)、その薫仙を彷彿させる徳□□□(?)、われらの村は栄えた□□□(?)。

 嘉永3年庚戊(1850年)の春、霊松和尚から菩薩大戎を授かり、名を義敬、字を孝巌の法名(戒名)を貰った。 ほどなく文久3年(1863年)ある夏の日、たまたまやって来た御所の役人に語られた(褒められた)。
 そこで、この村の有志数十人、老いも若きも力を合わせてこの寿塔(碑)を建てることをお上に申し出て、この義は拒まれることなく願いは成就するところとなった。
 師から一言銘を賜りこれを追記した。ここにその文を記す。 目出度いかな。
 銘曰く。高大な一塔、天に聳え立つ。千年万年、徳は隣を作り進める。
 喝。天徳山主 紫沙門を九方(常光寺和尚)誌に賜る。』


(碑の原文参照:「東播磨の民俗〜加古郡石守村の生活誌〜」石見完次著、S59.9.25、神戸新聞出版センター)(碑の原文訳は、中嶋です)

(石見葛覃斎肖像画軸)
 葛覃斎(六代目藤兵衛さん)は、その後、慶応2年(1865年)に亡くなりました。代々農業を生業としていましたが、五男三女のうち長男の多門さんがその医業を継いだそうです。
(2008年5月)

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