松風村雨の姉妹と在原行平の出逢いの謎
  (郷土史にかかる談話 5)

松風村雨の姉妹と在原行平の出逢いの謎

 昔より、都での勢力争いに破れた時に隠遁するのは、都の目が直接届く畿内においても僻地とされていたのが摂津最西端の須磨、そのまた直ぐ外側にあたる播磨の地であった。
 そこなら都の監視の目も行き届き難く、その昔、皇位承継争いの難を逃れた履中天皇の孫、億計(おけ)と弘計(をけ)、後の仁賢天皇と顕宗天皇、も播磨国の押部谷地方にひそんでいたそうです。
  そういうこともあって、辺地須磨には、比較的軽い罪科の高位高貴の都人が配流され、またその貴人と地元の有力者の姫君たちとの逢瀬もあったであろうと思われる。
 紫式部の「源氏物語」でも、その「須磨明石の巻」で、主人公の光源氏が須磨に身を寄せていた時に播磨国明石の入道の姫君との出逢いを演出している。紫式部が源氏物語を書くに当たって参考にしたと思われる出来事が、須磨の地に伝わっている。(逆に源氏物語にあやかって、出来事の主人公をある実在の貴人に特定したという説もある。)
 この物語は、古今、能楽、舞踊、演劇、文芸、川柳にまで取り上げられ、親しまれている。 (左写真は、松風村雨堂)

 今を去る1100年以上前のこと、平城天皇の孫にあたる在原行平(「伊勢物語」で有名な在原業平の兄)が、仁和2年(886年)に時の光孝天皇のおいかりに触れて配流され、3年間須磨の地に住まいされていた。 古今集の巻18に、
「田村の御時に、事にあたりて、津の国須磨という所にこもり侍りけるに・・・・“わくらばに問う人あらば須磨の浦に もしほたれつつわぶとこたへよ”」
と記されている。

(右写真は、在原行平の館跡と伝わる松風村雨堂のある須磨の地)

  行平の住まいは摂津側で、海岸より約600m松林が広がるなだらかな丘陵を登った現在の離宮道沿いにあったと伝えられている。行平は須磨の海岸で知り合った、後背地の播磨国多井畑村から汐汲みにやって来る村長の娘たち「もしお」「こふじ」の姉妹とねんごろになり、彼女たちを「松風」「村雨」と呼んでいた。
 3年経って許されて都へ戻る際、大いに悲しむであろう姉妹をおもんばかって、烏帽子と狩衣を松の枝に掛けて二人には告げずに立ち去った。
 その時に、
「立ちわかれ稲葉の山の峯に生うる 松としきかば今かえりこむ」
の有名な(百人一首)歌を残したそうである。
 (この歌は、因幡国守に赴任する時という説がもっぱらですが、須磨にも稲葉山があったという江戸時代の資料も残っているそうです)
 姉妹は行平を偲び、住まいのあったところに庵を構え、観世音菩薩を祀っていたそうです。現在の「松風村雨堂」はその庵の跡と伝えられています。
 多井畑には、大流行りの病を鎮めるために770年6月に五畿内の国境10箇所に祀った厄神の一つである「多井畑厄神」が丘の上背後にあります。その村には、姉妹が鏡代わりに水面に写る姿を見てお化粧をした「鏡の井」、そして二人のお墓も残されています。
(写真下左:松風村雨のお墓、 写真下の中と右:鏡の井)
 それでは、なぜ姉妹は楽な川筋を降りて塩屋の浜に出ることをしないで須磨の浜へ向ったのでしょうか。
 汐汲みに行くのであれば、同じ村内、塩屋の谷筋を下って行く方が近そうだし、標高差が少ない道行で楽と思えます。しかも、多井畑などこの周辺の攝津の国境付近の播磨の村からは、幾つもの谷筋が並んでいますが、摂津国の最西端の多井畑厄神に隣接する多井畑の塩屋谷に続いて、奥畑の名谷、多聞から舞子への山田川の谷、大蔵谷、布敷畑の伊川谷、櫨谷、押部谷と全てが明石方面へと広がっています。当然ながら播磨の生活圏であった筈です。
 浜への距離は、どちらに出ても同じ4キロ弱です。ただ、塩屋の浜に出るには、比較的狭い谷筋を埋めていた多くの部落の中を通り抜けて行くことになります。おまけに塩谷の浜は、鉢伏山が海岸近くまで迫っていて崖道のようで、浜も広くはありません。
 多井畑から海岸に出るには、西に回れば、塩屋谷川沿いに下流へ、現在の山陽電鉄塩屋駅周辺の浜辺に至ります。東に回って、村の最奥にそびえる山を回りこんで峠を越えて南へ、須磨の関があった付近を通って須磨の浜に出ます。多井畑は塩屋谷の一番奥地にありますが、東の須磨に出るには、途中真南にある鉄拐山(234m)・鉢伏山(246m)・高倉山(291m)を迂回する必要があります。多井畑厄神の丘の麓を通り、背後にそびえる高倉山(291m)(今は住宅団地と旗振山)付近の火峠(多井畑峠186m)を越えて行かなければなりません。
 (ちなみに、高倉山は、平清盛が兵庫津の整備のため背後の山を削って経ケ島を造成したように、神戸港沖の人工島ポートアイランドの埋め立てに削られて住宅団地になっています。) 
  この山道越えには、峠から急勾配の坂道が山の麓(現在の須磨離宮公園西側付近)まで続きますが、 千森川沿いに多井畑厄神への道があったことから多くの参拝(行平も、後にあの源義経も祈願したそうです。)があり、古代の山陽道として、天候の影響を受けて通行が困難になることも多かったであろう海岸沿いの崖道を通るルートの他に、須磨から北へ昇り多井畑を通って塩屋に出るこのルートも利用されていて、そう難路ではなかったようです。(草ぼうぼうで獣道のようだったとの文書も残っていますが。)
(右写真の「多井畑厄神八幡神社」は、770年に畿内の摂播国境に厄神を祀ったもの。まさに、摂津と播磨の国境で、西の播磨国に流れる塩屋谷川沿いの多井畑村はその中間点でもある。)

 もともと須磨の浜には、
「淡路島かよふ千鳥の鳴く声に いく夜寝覚めぬ須磨の関守」
と詠まれた古来有名な「須磨の関」がありました。関所の東側が攝津の国で、西側が播磨の国と明確に区分され、人や荷駄の出入りが制限されていたのです。
 ところが、この須磨の関は行平が須磨に流されていた頃には既に廃止されて久しく、国境いとしての往来に多少の監視があったとしても、自由に行き来ができていたのでしょう。
 (この詠み人源兼昌は、行平よりも後世の人ですので、きっと昔を偲んでのことと思われます。)          (左写真は、現光寺の「須磨の関跡」碑)

 また、松風・村雨の姉妹が須磨の浜にやって来て、行平と出逢うことになる動機は「汐汲み」とのことでした。
 「汐汲み」とは一般的には塩を造るための海水を採取するものです。あるいは、田植えの前の神事として「田の神」を祀るために、古来から決められた最寄りの浜にて清め拭われた海水を村に持ち帰る風習があったのでしょうか。
 神事としての「汐汲み」であれば村の長たる者や畑主が自ら、同じ塩屋谷川の谷筋に共通する塩屋の浜で行うべきものと思われますので、姉妹が須磨の浜にやって来たのは日常生活上の必需品としての「汐」を求めてのことで、神事ではなかったと思われます。それなら尚更、楽な塩屋の浜へ行く方が理に適っているように思います。
 険しい多井畑峠を越えると、山の麓から須磨の浜まで約1キロのなだらかな坂が続き、行平のような貴人たちのわび(?)住まいが並ぶ風光明媚な地が広がっていたのではないでしょうか。やはり畿内西端とはいえ、都の文化も覗える先進地だったのでしょう。そのうえ、須磨では遠浅の海に広い砂浜が続いています。
 谷筋が狭く砂浜に広さが無い塩屋の浜よりも、後背地が広く、多くの人たちが集まってくる須磨の浜では、魚介類の店の他に、特に奥地の人たちの「汐汲み」需要に対して何らかのサービス産業があったかも知れません。例えば、海水をそのまま汲んで奥地に持って帰るよりは効率の良い、海水を天日に干したか煮詰めたかで少しでも濃縮された塩水(淡水化装置でいうドレイン)が用意されていたかも。
 若い松風・村雨の姉妹が、楽な塩屋の浜に出向かずに須磨の浜へ向ったのは、少しでも華やいだ都の文化の空気を求めて、険しい背後の山・峠を越えて行ったのではないでしょうか。(2008年6月)

※クリックして下さい。
「郷土史にかかる談話室」メニュー へ戻ります。

※クリックして下さい。
「神戸・兵庫の郷土史Web研究館/郷土史探訪ツーリズム研究所」のトップ・メニューへ戻ります。
当研究館のホームページ内で提供しているテキスト、資史料、写真、グラフィックス、データ等の無断使用を禁じます。