源氏物語(須磨・明石)ゆかりの地を指定したお殿様
  (郷土史にかかる談話 13)

源氏物語(須磨・明石)ゆかりの地を指定したお殿様

明石の君(明石入道の姫君)が住まいしていた「岡の屋館(岡辺の館)」があったとされる地、神戸市西区櫨谷町松本周辺。浜辺の館から約5キロ。
 1,000年以上前に紫式部が書いた世界最古の長編ロマン小説「源氏物語」五十四帖に、須磨の巻、明石の巻があります。
 創作小説である「源氏物語」のゆかりの地が現実に須磨、明石にあるのはなぜでしょうか。それは、江戸時代の今から360年ほど前、当時の明石藩主松平忠国は文学を好み、特に紫式部の「源氏物語」は大ファンでありました。自国そして、領内が小説の舞台に取り上げられていることを歓び、物語ゆかりの地を次々と特定させて行ったのです。
 それ以後、物語への現実投影と親近感によって須磨など各地のゆかりの地が定められて、人々の人気を集めました。今で言うところの「ツーリズム」振興策の重要手法を取り入れた文学遺跡創設の先駆者だったのです。
 源氏物語には、煌びやかな京の都を離れ、お咎めを受けた都人を流される畿内の最西端の地「須磨」に隠遁して暮す主人公の光源氏、そして隣接しているが埒外の播磨国の「明石」での入道とその姫との交わりが描かれています。
●「源氏物語(須磨の巻)」より
 光源氏26歳、春とはいいながらも冬の気候が残る3月末のこと。須磨の海岸近く、今は「現光寺」のある少し高台に屋敷と言えない庵をむすばれた。
「かの須磨は、昔こそ人の住み処などもありけれ、今はいと里ばなれ心すごくて、海人の家だにまれになど聞きたまへど、人しげく、ひたたけたらむお住まひは、いと本意なかるべし、さりとて、都を遠ざからんも、古里おぼつかなるべきを、人わるくぞ思し乱るる。」
「さる心細からん海づらの波風よりほかに立ちまじる人もなからんに、・・・」
現光寺
光源氏が暮した住居跡として、「源氏寺」とも呼ばれていた。境内には、松尾芭蕉や正岡子規の句碑、須磨の関の碑など。
関守稲荷神社
光源氏が巳の日祓いをしたことから、「巳の日祓い稲荷」とされました。百人一首で有名な「淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に いく夜寝覚めぬ 須磨の関守」の歌碑があります。
在原行平の庵跡
源氏物語のモデルとなった在原行平の須磨でのわび住まい庵跡とされる「松風村雨堂」。近くの多井畑村長の娘姉妹「松風、村雨」との出逢いの地。姉妹別れの時に行平が衣を掛けた松がある。
若木の桜(須磨寺境内)
光源氏が逗留1年目に手植えした若木の桜が咲くのを見て、都に残してきた紫の上や都の桜を偲んだ。武蔵房弁慶がこの桜に立てた札、源平ゆかりの寺でもある。
「おはすべき所は、行平の中納言の、藻塩たれつつわびける家ゐ近きわたりなりけり。海づらはやや入りて、あはれにすごげなる山中なり。垣のさまよりはじめてめづらかに見たまふ。茅屋ども、葦ふける廊めく屋など、をかしうしつらひなしたり。」

「須磨には、いとど心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の、関吹き越ゆると言ひけん浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあわれなるものは、かかる所の秋なりけり。」

「明石の浦は、ただ這ひ渡るほどなれば、」


「須磨には、年かへりて日長くつれづれなるに、植ゑし若木の桜ほのかに咲きそめて、」
●「源氏物語(明石の巻)」より
「浜のさま、げにいと心ことなり。人しげう見ゆるのみなむ、御願ひに背きける。入道の領じ占めたる所どころ、海のつらにも山隠れにも、時々につけて、興をさかすべき渚の苫屋、行ひをして後の世のことを思ひすましつべき山水のつらに、いかめしき堂を立てて三昧を行ひ、この世に設けに、秋の田の実を刈り収め残りの齢積むべき稲の倉町どもなど、をりをり所につけたる見どころありてしあつめたり。高潮に怖ぢて、このごろ、むすめなどは岡辺の宿に移して住ませければ、この浜の館に心やすくおはします。」
善楽寺
光源氏を須磨から明石に招いた明石入道の住まい「浜辺の館」とされる戒光院、隣の円珠院との総称である。円珠院には宮本武蔵がデザインした枯山水の庭園があります。
明石の浦の浜の松
善楽寺の庭園には、明石入道の碑や明石の浦の浜の松の碑があります。
無量光寺
光源氏がお月見をしたところで、左甚五郎作の山門の彫刻がある。
蔦の細道
光源氏が近くの住まいから明石の君の住む岡辺の館(現在の神戸市西区櫨谷町松本付近)へ通った道で、無量光寺の山門前を通る。
光明寺
光源氏が「秋風に 波やこすらむ 夜もすがら あかしの浦の 月のあさがほ」と詠んだ月見の池がある。明石市鍛冶屋町。
「やや遠く入る所なりけり。道のほども四方の浦々見わたしたまひて、思ふどち見まほしき入江の月影にも、まづ恋しき人の御ことを思ひ出で聞こえたまふに、やがて馬引き過ぎて赴きぬべく思す。」
岡辺の館はここが最適
明石入道の姫の館跡(上記の碑)は、櫨谷川の堤防にあり、当時は洪水時に氾濫する河川敷に等しい場所。それよりも、100mほど東のちょっと高台にある現在この「願三山地蔵禅院」が建つあたりがそれらしい雰囲気を持つ。
「造れるさま木深く、いたき所まさりて見どころある住まひなり。海のつらはいかめしうおもしろく、これは心細く住みたるさま、ここにゐて思ひのこすことはあらじと思しやらるるに、ものあはれなり。三昧堂近くて、鐘の声松風に響きあひてもの悲しう、巌に生ひたる松の根ざしも心ばへあるさまなり。前栽どもに虫の声を尽くしたり。ここかしこのありさまなど御覧ず。」


 光源氏は、月の美しい8月13日に明石の君(入道の姫君)のいる岡辺の館を訪れ、結ばれました。
 その翌年の7月末に、帝は源氏を許し、京に戻るように勅します。その際には、明石の君(妊娠中)を残して戻りますが、後日、明石の君を京に呼び寄せて、明石の君は後に「国母(帝の母)」となります。
 前の播磨国司だった父親の明石入道の永年の望みが適えられる結果となります。
  ちなみに、2008年は「源氏物語」が記録の上で確認された時から1,000年でした。地元は、「源氏物語千年紀」として源氏物語の須磨・明石での世界をプロモートしました。みなさまも、松平忠国明石藩主が目論んだように、源氏物語ゆかりの地を見て回るのは、いかがでしょう。(2009年9月)

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