都市隣接で注目される「多田銀銅山」
  (郷土史にかかる談話 19)
 天平14年(742年)、平城京の東大寺大仏鋳造に銅を献上したと伝わり、安土桃山時代の初期、豊臣秀吉によって盛山期を迎えた多田銀山。
 多田銀銅山は都会の近くに位置しているにもかかわらず、昭和19年(1944年)から昭和48年(1973年)まで日本鉱業鰍ェ操業していたこともって、一般の人々の注目を集めることがありませんでした。日本鉱業鰍ェここを閉山する直前は、ひなびた山間で、慎ましやかに操業されていた印象が強かったのを覚えています。
 観光リゾート開発の一大ブームも落ち着きを見せ、団体観光から個々の趣味にこだわるレジャーとして身近な郷土の歴史・日本の近代化を支えてきた産業遺産などが注目され、ツーリズムの対象としてクローズアップされるようになってきました。
 地元の猪名川町も積極的に施設の保全、修理、環境整備などに乗り出し、多田銀銅山は都会近郊の立地条件からも訪ねやすく、また何と言っても、豊臣秀吉の埋蔵金伝説のロマンを感じさせて、今も露頭鉱脈もあって鉱石採取の楽しみも加わって、京阪神地域の人々の一大注目スポットになっています。   多田銀山は天禄元年(970年)の鉱脈発見から約1,000年の鉱山開発が続けられました。
 壬生家文書によると建暦元年(1211年)には能勢郡の採銅所の記載があり、安土桃山時代に入ると、豊臣秀吉が大規模開発を加えて重要な国家運営の財源としていた天正、慶長年間(1573年〜1614年)に第一次盛山期を迎えました。純度の高い自然銀が含有する良鉱山で、今に残る瓢箪間歩や台所間歩も栄え、陣屋が置かれて銀山奉行も派遣されました。約3,000戸、1万人の人々がいたと言われています。

大露頭周辺から採取した鉱石
(昭和37年頃)
 江戸時代になって、万治3年(1660年)に銀の大鉱脈が発見され、幕府直轄山として鉱山役所が整備され、出銅高で最高を記録し、第2次盛山期でした。その後、産出量も激減から規模を縮小し、天和3年(1683年)には代官所廃止、明和5年(1768年)にはあれ程興隆を誇った銀山街も戸数86戸、人口309人と記録されています。また文化5年(1808年)には出銅高が史上最低となっていました。明治新政府になって、銀山役所は閉鎖され、役所施設は払い下げられ、採鉱も三菱などの民営となり小規模操業が続きました。
 大戦の鉱物資源の開発確保が国是となって、日本鉱業が多田銀銅山に力を入れましたが、昭和48年(1973年)、遂に閉山を迎えたのです。


  現在、ここ多田銀銅山で接することができるのは、江戸時代末期から閉山までの街並みと、日本の近代化を支えてきた産業遺産が中心です。(2010年2月、2015年10月、2021年5月)
多田銀銅山「悠久の館」
代官所(役所)跡
高札場跡
多田銀銅山に関する代官所模型、銀山関係の絵図面、古文書、鉱石や鉱山道具類が展示され、来訪者の交流・休憩施設です。 伝来絵図面や伝承のあった代官所跡を平成12〜17年(2000〜2005年)に発掘調査が行われ、建物や畑や階段の跡が確認され、代官所の江戸時代最後の様子が伺えます。 代官所が人々に周知されるために設けた板札を掲げておく場所。伝来の絵図面にも銀山橋の脇に載っています。
代官所の門・役人長屋群跡
平炉跡
金山彦神社
 代官所の門をここに移築したと伝わっています。当初は騎馬で通れたが、移築時に低くしたと伝わっています。銀山街の目抜き通りの役人長屋群や鉱石売買取次所などがありました。  間歩から採掘した鉱石を、砕いて簡易精錬した跡。時代は不明。  鉱山製鉄の神様で、大同2年(807年)頃の建立、天禄2年(971年)源満仲によって修理されたと伝わっています。元和5年(1619年)に戦火にあった住吉社や洪水禍の瓢箪の宮を合祀しています。
大雲山甘露寺
青木間歩
鉱脈
 6世紀の敏達天皇の頃に開基と伝わっています。元禄の頃は、写し巡礼・多田庄奥三十三ケ処の第三十一番札所でした。 江戸時代の露天掘りと昭和38年(1963年)の日本鉱業による削岩機等の機械掘りの坑道。照明施設もあり、自由に見学ができる間歩です。周りに茂るアオキから命名されとそうです。 青木間歩の坑道内で見られる銅の鉱脈
日本鉱業多田鉱業所跡
大露頭
台所間歩
瓢箪間歩などの機械掘りで地下270mまで採掘した日本鉱業の事務所跡。昭和48年(1973年)に閉鎖されました。   鉱脈が珍しく地上に露出した岩山。石英層が目立つ鉱物を多く含んで、今でも魅力溢れています。 豊臣政権の財政を支え、大阪城の台所を潤した大量の銀や銅の産出があった間歩。
瓢箪間歩
堀家精錬所跡
精錬所使用レンガなど
  豊臣秀吉が騎馬のまま坑道に入ったと伝わるほどの大規模間歩。秀吉の馬印を掲げさせたので瓢箪の名がついたそうです。 明治時代に創業していた堀家精錬所の土台跡など(悠久広場内) 精錬所で使われた赤レンガ(左)と、鍋型カラミ(中央)で作られたカラミレンガ(右)
●最近の出来事
(1)2001年に公開され、2015年に国史跡に指定された昭和初期の坑道「青木間歩」で、 補強材取替作業中に岩で塞がれた開口部が発見されました(2020年12月)。3次元レーザースキャンの結果、江戸時代前記の坑道と判明した。壁面には、青や緑色に光を受けて輝く銀や銅、鉛など鉱脈が窺えました。この坑道に立ち入ることはできませんが、中の鉄柵越しに開口部2か所を見ることができます。(2021年5月)
※猪名川町発行の『多田銀銅山悠久の館』等を参照しました。

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 郷土史の談話室
 (9)豊臣秀吉の埋蔵金一考察(多田銀山)
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