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貿易年商15億4,000万円(大正6、1917年)、うち内地外国商貿易高12億円、出商業高(三国間貿易高)3億4,000万円。当時、総合商社として頭角を現してきていた財閥系の三菱商事の年商をはるかに超えて、三井物産の年商10億9,500万円を抜き、当時の鈴木商店の大番頭、金子直吉をして、 「三井三菱を圧倒するか、然らざるも彼等と並んで天下を三分するか、是鈴木商店全員の理想とする所也・・・」 と言わしめた。 その総合商社、鈴木商店の誕生から興隆、倒産、そして現在に受け継がれたものは何だったのでしょうか。 |
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【鈴木商店本店の跡地は今】
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1.この時代の情勢 | ||||||||||||
箱館・横浜・長崎の幕末開港(1859年)に続き、1868年神戸開港。居留地にて貿易開始。1894〜5年の日清戦争、台湾割譲。明治32(1899)年、台湾銀行設立。1904〜5年、日露戦争。重化学中心の工業化、東アジア植民帝国化に手をつける。1914〜18年の第1次世界大戦を経て第二次の重化学工業化を図り、日本は最大の戦勝国利益を享受していた。 | ||||||||||||
2.鈴木商店の興隆から倒産へ | ||||||||||||
(1)個人企業時代(明治7〜35年、1874〜1902年) 鈴木岩治郎(天保8年、1837年生まれ)が大阪の砂糖商・辰巳屋恒七に雇われ、勤務していた神戸弁天浜出張所を病気で倒れた恒七から明治7、8年頃譲渡を受け、辰巳屋鈴木商店として洋糖引取商を経営、発展。明治10年、よね(姫路出身)と結婚するが、1894(明治27)年6月、急死。事業廃止と継続の論議の末、よね、跡を継き、事業は主に番頭の金子直吉らに委任した。 金子直吉は1866(慶応2)年土佐(高知)の農村出身で、1886(明治19)年、21歳で鈴木商店に入店。砂糖に加えて樟脳の貿易に着手。鈴木商店の大番頭ととして辣腕を発揮、鈴木商店躍進の基礎を築く。そして西川文蔵、高畑誠一などの学卒者を多く採用し、経営基盤を確立していった。 西川文蔵は1874(明治7)年近江に生まれ、1890(明治23)年東京高等商業学校(現、一橋大)入学すれど、卒業直前の学校騒動で中退、1896(明治27)年に21歳で鈴木商店入店、学卒第1号となる。また、高畑誠一も、神戸高商から水島銕也校長の推薦で1909年(明治42)鈴木商店に入る。以後、東京高商・神戸高商の卒業生を多数採用する。 1900(明治33)年、台湾樟脳の専売制実施により、樟脳油の65%の販売権を獲得する。 |
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(2)合名会社時代(明治35〜大正12年、1902〜1923年) 明治35年、資本金50万円で合名会社化。海外代理店の開設と生産部門への進出をおこなう。 @製糖業等への進出 臨海製糖工場の嚆矢として明治36年、大里(だいり)製糖所設立。明治40年、軌道に乗った段階で大日本製糖に650万円と北海道・九州・山陽・山陰・朝鮮への一手販売権を250万円の投資で獲得。また、明治38年、神戸脇浜に小林製鋼所を建設し、同所に施設機会輸入有志15万円、建設資金融資40万年、計55万円を投資するも、操業1カ月で初出鋼に失敗、破綻する。同年9月に神戸製鋼所と改称、鈴木商店の一部門として発足する(初代支配人は田宮嘉右衛門)。 明治末に入って多角化を図り、直営6工場(樟脳製造所など神戸市内に所在)、2支店(門司・上海)、8出張所(東京・大阪・名古限・小樽・函館・那覇・台南・福州)、3海外代理店(ロンドン・ハンブルグ・ニューヨーク)を持つ。明治39年東亜煙草、明治41年日本セルロイド人造絹糸、明治41年東洋塩業、明治42年札幌製粉、明治44年大里製粉所、明治45年帝国麦酒など多くの傘下の企業・工場を保有してゆく。 |
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A第一次世界大戦の特需 1914(大正3)〜1918(大正7)の第一次世界大戦の需要に乗り、銑鉄・鋼材・船舶・砂糖・小麦など一斉に買い出動。ロンドン支局長の高畑誠一に宛てた電文に「Buy sny steel, any quantity, at any price. 量や値段はいくらでもいいから鉄を買え」と、世界中の鉄材鋼材を買い集め、三菱・川崎・石川島各造船所に船舶発注と、同時に造船用の鉄材を販売。 大正6年の貿易年商額は、内地外国間貿易高12億円、三国間貿易高3億4000万円、合計15億4000万円を数え、遂に三井物産の年商10億9500万円を凌駕する。 金子直吉から高畑誠一に宛てた大正6年11月1日付け書簡に「世界的商業に関係せる仕事に従事しうるは無常の光栄をせざるを得ず。(中略)、三井三菱を圧倒する乎(か)、然らざるも彼らと並んで天下を三分する乎、これ鈴木商店全員の理想とする所也。小生共是が為め生命を五年や十年早く縮小するも更に厭(いと)ふ所にあらず。(中略)、恐らく独逸皇帝カイゼルと雖(いえど)も、小生程働き居らざるべしと自任し居る所也」 |
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B米騒勤と鈴木商店焼き打ち 大正7(1918)年7月22日の富山県新川郡魚津町の主婦による米の県外への積み出し反対運動を発端として、8月3〜6日にかけ富山県内で数百名の女性が米移出禁止・廉売を要求、米屋に押しかけ打ち壊しを始める(いわゆる越中女房一揆)。8月10日以降、名古屋・京都・大阪・神戸などで大規模・激烈な蜂起が相次ぎ、9月のほぼ収束まで、軍隊による鎮圧がはじまるまで全国各地に広がり、9月にほぼ収束する。 この間、鈴木商店焼き打ち事件が勃発する。 西川文蔵が大正8年8月15日付でロンドン支店長高畑誠一に送った書簡によると、 「去12日の夜、暴動の為に本店全部烏有に帰し、幸ひ倉庫は無事なりし為、帳簿並に重要なる書類は焼失を免れたるも、一時的秩序は破壊され誠に困難を極め申候。引続き神戸新聞社(本店向角)を焼払ひ、栄町四丁目旧本家の格子戸を破り、独身店員用の蚊帳、布団類を引き出し焼立て、更に日本樟脳第三工場(元葺合工場)の事務所を焼き、製鋼所の米倉、兵神館等を焼打ちし、元町下山手辺りの人家ガラス戸を破り、酒屋米屋等を略奪し、凶暴到らざるなく、一時は全く無警察の状態に陥り申候。十三日の午後姫路師団より軍隊出動、(後略)」 |
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第一次大戦後、資本金50万円から5000万円に増資(大正9年)、直系・傍系の鈴木系事業会社65社、資本金総額5億6000万円、従業員総数2万5000人、海外の15支店(大連・青島・上海・京城・台北・ロンドン・ニューヨークなど)、42出張所(カルカッタ・ボンベイ・アレキサンドリア・ハンブルグ・マルセイユ・シアトル・サンフランシスコなど)を抱え、取扱商品は60種類以上、着々と一大総合商社に登り詰めた。 | ||||||||||||
(3)合名・株式会社(貿易部門)時代(大正12〜昭和2年、1923〜1927年) 鈴木商店の持株会社化を計り、貿易部門を資本金8000万円の株式会社として組織し、従来の合名会社は鈴木合名会社として「各関係会社及び一般会社の株式、土地、建物、工場等を所有仕り管理することを目的」とする企業体とした。 |
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3.金融恐慌の勃発 | ||||||||||||
(1)金融恐慌の勃発 大正12(1923)年9月1日午前11時58分に発生した関東大震災(マグニテュード7.9、死者14万人、全壊焼失家屋57万戸)、それの続く世界不況のあおりを受けて、日本でも金融恐慌が発生。昭和2(1927)年3月14日、衆議院予算委員会で震災手形の処理をめぐる問題の審議中の片岡直温大蔵大臣の失言(「東京渡邊銀行が破綻した」)に端を発して、銀行の取り付け騒ぎがおこり、3月15日には当該渡辺銀行が休業、その後、19日中井銀行、21日に左右田銀行・八十四銀行・中沢銀行・十五銀行、22日に村井銀行など多くの銀行が続いた。4月20日若槻礼次郎憲政会内閣の総辞職の後を受けた田中義一政友会内閣が同22日に発足し、3週間のモラトリアム(支払猶予令)を公布した。昭和2年1〜5月に休業した銀行数は37行(うち9行は再開)になった。 |
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(2)鈴木商店の倒産 その震災手形について未決済額2於く80万円の58%1憶2180万円が特殊銀行(台湾銀行・朝鮮銀行)のもので、またその圧倒的部分が台湾軍港分、台湾銀行関係のほとんど9200万円が鈴木商店関係であった。台銀の貸出高5憶4000万円(昭和元年)のうち鈴木関係分が66%3憶5700万円を占めた。遂に、昭和2年3月23日、台銀は鈴木商店に対する貸出を拒否、同4月2日、鈴木商店は倒産するとともに、同18日台湾銀行も休業となった。 鈴木商店の倒産は、当時世界三大倒産の一つに数えられており、倒産の原因は、@急激な企業拡大に伴う人材・組織が追従できなかった、A金融を台湾銀行に依存して、固有の系列銀行を持たなかった、が指摘されている。ただ、金子直吉の弁によると、@50余の工場・企業への統制力の不行き届き、A深刻な不況、B工場等への過剰投資による資金の固定化、を挙げている。 |
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この後、日本には慢性的不況が到来し、ファシズムが台頭、遂に泥沼の戦争への道を辿ることになります。 | ||||||||||||
4.鈴木商店の遺産 | ||||||||||||
しかし、数々の危機を潜りぬけ、鈴木商店の流れを汲む代表的な企業が現在の日本経済を支えている。商社系では日商岩井、繊維の帝人や三菱レイヨン、鉄鋼の神戸製鋼所、造船・機械等の石川島播磨重工業、ほか各製造分野では豊年製油、三井東圧化学、昭和シェル石油、日産化学工業、日本化薬、大日本製糖、日本製粉、サッポロボール、ダイセル、鈴木薄荷などなど、枚挙に暇は無い。(2010年4月〜、2024年9月) | ||||||||||||
【鈴木商店ゆかりの地・人】
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