●7月9日(安政6年:1859年) 晴れ 「不親切なる宿のため、洗濯も出来ず。終に昼時前迄待って、大阪を立つ。十三川を渡り、神埼、伊丹を過ぎて、中山の観音へ参る。何方にても九日、十日は、観音の寄合とか云いて、其の群集、盛んなり。尤も大阪の人、信仰の様子なり。裏の山へ上り、四方を見るに、直に城を見渡し、市中も残さず。尼ケ崎の城ならん。六甲山のはずれに当たる。海上の帆も明らか。好晴ならば、伏見迄もと思う程の処なり。生瀬に宿す。」 サービスの悪かった宿に言及した大阪を昼前に立ち、十三川・神埼の渡しまで約6.0q、中山寺まで17.5q、宝塚を通り武庫川沿いに北上して5.5qで、生瀬に投宿。この日の走行距離は29.0q。
●コレラ余談 摂津・播磨を通過時の記帳にはなかったが、妹尾に投宿した15日に次の特別記述がある。岡山から四国讃岐へわたる予定の本道を離れ、脇道へ逸れている。その理由として、 「大阪を始め、姫路、岡山、備中も倉敷迄、昨年来コロリの病(コレラ)又流行して、死人多く、大阪よりの往来、兵庫、何れも流行、道に六部(巡礼)の死するを見る。赤穂より片上へ出る山中にて、駕籠に乗せ、手拭にて顔を蔽い、生ける取扱にして行ける女あり。命は天と云い乍ら、好んで到るは愚なりと思い、讃岐に渡らんとするためなり。妹尾に宿す。大阪より備中迄、病神(厄病神)送るとか云って、馬鹿らしき事、何れもあり。」 どうやら、幕末のコレラ大流行の状況下で、讃岐への船の同行者にコレラ病死体?と思われる女を見つけ、回避した模様である。(2010年6月)
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