明治維新の国際化に貢献したジョセフ・ヒコ
 (郷土史の談話29) 
明治維新の国際化に貢献したジョセフ・ヒコ

ジョセフ・ヒコ生誕地の碑
(印南郡播磨町)
 鎖国令の続いていた幕末期、計らずも海外に渡ることになって、やがて日本に帰国する機会を得て、激変する日本の対外政策・国際化に貢献した日本人がいる。
 のちに「新聞の父」と称えられるジョセフ・ヒコこと浜田彦蔵。1837年(天保8年)、播州加古郡播磨(現在の兵庫県印南郡播磨町)の古宮生まれで、幼名を彦太郎、本庄浜田で幼少期を過ごしました。
(1)漂流、アメリカへ
 彦太郎13歳の時、1850年(嘉永3年)9月に「栄力丸」で江戸へ出航、江戸見物を終えた彦太郎たちは帰路遠州灘で暴風に遭い、太平洋を漂流中の12月、アメリカ商船「オークランド号」に救助されました。翌年、サンフランシスコに到着。1852年、帰国のためサンフランシスコ港を出航するが、果たせず香港へ、そして12月サンフランシスコに辿り着く。そこで、税関長サンダースに可愛がられて、東部ワシントンやニューヨークへ行き、1853年8月に当時のアメリカ大統領ピヤースと会見。1854年、ボルチモアのミッション・スクールに入学し、カトリックの洗礼を受けて「ジョセフ」のクリスチャン・ネームを名乗り、1858年日本人初のアメリカ市民権を取得しました。
 この間、社会体制の違い、汽車や電信・ガスなどの社会インフラなど、近代化社会を謳歌していたアメリカの先進性に仰天したことでしょう。また、彼の地で学んだ知識を日本の近代化に生かす決意を固めたに違い有りません。
※栄力丸の漂流・渡米については、1854年(嘉永7年)に長崎に入港した唐船に漂流日本人の一部が送還されてきたことから発覚。それによると、栄力丸の乗組員は全部で17名、うち兵庫県出身者が8名で、播州加古郡の西本庄村が4名、東本庄村が2名、宮西村2名、摂州八部郡が2名でした。


ジョセフ・ヒコ


ジョセフ・ヒコの両親のお墓。明治3年帰郷の際に建立。(播磨町本庄の蓮花寺)

同左、説明板

同左、裏面に英文で刻まれているので、地元では「横文字の墓」と呼ばれる
(2)幕末期の日米対外交渉の中へ
 1859年(安政6年)、上海のハリス領事を頼り、神奈川にあるアメリカ領事館の通訳として帰国赴任。日米修好条約の実施、幕府遣米使節団派遣のセッティングに奔走、後に領事館を辞して貿易商館を開きました。
 1861年(文久元年)アメリカに渡り、翌年、リンカーン大統領と会見後、再び領事館通訳として帰国するが、そのまた翌年に領事館を辞任。
(3)日本の近代化に尽くす
 再び商売を始めたジョセフ・ヒコは、仲間の岸田吟香と本間清雄と協力して、1864年(元治元年)に我が国初の新聞「海外新聞」を発刊。
 アメリカで情報の重要性を認識していたヒコであったが、まだ日本の人々の間には先進過ぎて理解されませんでしたが、およそ1年間の24号までの奮闘努力が窺え、充実した内容に加えて国民啓発に寄与し、「新聞の父」と称えられます。この間、訪ねてきた若き明治維新のリーダー、木戸考充、伊藤博文たちにアメリカの先進文化などを伝えたようです。 

1888年に東京へ移るまでのジョセフ・ヒコ居宅跡の碑(神戸市中央区中山手通6)
 外国貿易や国際交渉の中心であった神戸や長崎を拠点とし、高島炭鉱の開発、神戸での輸出貿易振興や電燈会社支援、国立銀行の設立、大阪造幣局の設立など実業界の成長や政府機構の確立に活躍しました。
 著書に、「漂流記」、「The Narrative of a Japanese」(英文自伝)、「開国之滴」、幕府への建白書「問答」など。1897年、10年前から移り住んでいた東京で、心臓病にて死去し、青山の外国人墓地に埋葬されました。(2011年7月)

ジョセフ・ヒコの英文碑
(神戸市兵庫区北逆瀬川町1の能福寺)

同左、来神する外国人向けに能福寺住職がジョセフ・ヒコに依頼して作成した英文の寺の由来(明治25年)

「ジョセフ・ヒコ」の詳細については下記へ。
播磨町郷土資料館
http://www.town.harima.lg.jp/profile_shisetsu_shiryokan

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