諸説ある平清盛のお墓、一考察
(郷土史の談話35)
諸説ある平清盛のお墓、一考察
貴族社会から武家社会への扉を開いた平清盛は、福原・大輪田の地を愛し、現在「真光寺」のところに建っていた「能福寺」で出家。大輪田泊に人工島「経ケ島」建設に着手した。
治承4年(1180年)6月、福原に遷都するも、同年11月に京都へ復都。翌年高熱を発して病に倒れ、養和元年(1181年)2月4日、京都九条河原町にあった平盛国邸にて逝去し、同7日、洛北愛宕で荼毘に付されました。
ところが、清盛の遺言により、京都には祀られていません。それでは、平清盛の遺骨を納めたお墓は一体どこにあるのでしょうか。古文書に伝えるところ、またその解釈によって、色々な場所が取上げられています。
A.語り本『平家物語』
「同(養和元年2月)7日、愛宕(おたぎ)にて煙になし奉り、骨をば円実法眼(ほうげん)頸にかけて、摂津国へ下り、経ケ島にぞ納めける」
・・・・・「経ケ島」は大輪田泊の中心位置にあって、場所は特定されていない。一応、経ケ島の西方の「能福寺」(後の「八棟寺」)法華堂のことか。
能福寺にある平相国廟
能福寺(八棟寺)と兵庫大仏
B.『摂津名所図会』
江戸時代に発刊されたこの紀行案内図では、弘安9年(1286年)に北条貞時(時宗の嫡男)が能福寺法華堂の南方に建立した十三重塔「清盛塚」に祀られていると描かれている。
・・・・・大正12年(1923年)10月に、神戸市電松原線の拡張工事に伴い、現在地へ北東約11mほど解体移転した際に、発掘調査を実施し、墳墓ではないことが確認された。
十三重塔「清盛塚」
江戸時代の頃の清盛塚図
C.鎌倉幕府の実績記録史書『吾妻鏡』
「遺言に云く、三箇日以後に葬りの儀あるべし。遺骨に於いては播磨国山田法華堂に納め、七日毎に形の如く仏事を修すべし」
・・・・・幕府の公式記録だけに、かなりの信憑性あり。播磨国山田とは、平家の領地で、現在の神戸市垂水区西舞子の周辺。延慶本『平家物語』にも「初音尋る山田御所」との記述がある。
播磨国山田法華堂があった辺り、西舞子の「塩森大明神」を祀る祠
山田御所の背後に位置していた「きつね塚古墳」
D.その他の学説
@播磨国「山田」は「輪田」の誤記で、清盛が和田神社周辺で「千僧供養」を度々行った地が近くに在り、「八棟寺」(当時の能福寺)法華堂のことである。
A源平合戦の直前に、清盛の遺骨を八棟寺から移転し、その後、壇ノ浦にて平家一門と共に入水した。
B源氏側が清盛の遺骨を取り出したものの、仏罰を恐れて播磨国山田の法華堂に移し、公式記録『吾妻鏡』には当初から同位置に埋葬された、とした。
C「播磨国」山田は、「摂津国」山田の誤記で、清盛が福原から数度参詣した神戸市北区山田の周辺の寺の法華堂のことである。
塩森大明神を祀る祠の前から望む瀬戸の海と淡路島
平清盛のお墓はどこにあるのか。昔から庶民に信じられてきた十三層の石塔婆「清盛塚」が、近年の学術調査の結果で、お墓ではないことが判明して、一層その謎が深まっています。
播磨国山田の法華堂があったと想定される神戸市垂水区西舞子の丘陵は、現在、すべて住宅開発・マンション建設によって埋もれており、清盛が大変愛したという瀬戸内海の舟の行き交う眺望は、僅かに、塩森大明神を祀る祠の前から望むことができるのみです。このなだらかな丘に山田御所(清盛の別荘)があったものと思われます。
丘陵の麓を流れる山田川の河口には『平家物語』で云う「小さな港(やまた浦)」があったと伝わる。丘陵の上には、古代の古墳「きつね塚」があり、その横に小さな祠の「塩森大明神」が建っている。この丘陵の見晴らしの良い処に「初音尋る山田御所」と称せられた清盛の別荘があって、『高倉院厳島御幸記』にも高倉天皇が厳島神社参拝帰りに立ち寄ったこの別荘のことが詳しく記されており、祠の周辺に法華堂が建っていたものと想定されます。
どこに最終的に納骨したとしても、その前に、清盛の菩提寺であった「八棟寺」に一度は納めて、かなりの期間を法要、供養したことでしょう。その後において遺言のとおりに、播磨国山田の法華堂に納め直した、と考えるのが、以上の古文書、伝承等に矛盾しないのではないでしょうか。(2012年4月)
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