埋蔵金伝説あれこれ(兵庫県内)
 (郷土史の談話40)
埋蔵金伝説あれこれ(兵庫県内) 
 歴史ロマンの中で、一番興味をそそるものに「埋蔵金伝説」があります。

多田銀山の瓢箪間歩の坑口
 今なお発見されずに、眠ったままで、有名なものに、立山黒部の佐々成政の軍用金、赤城山麓の徳川幕府御用金、北関東の結城家代々の埋宝、天草四郎の隠れキリシタン財宝、義経ゆかりの蝦夷の砂金、武田家の軍用埋蔵金、箱根山中の金山奉行の隠し金など、そして、兵庫県内には多田銀山の豊臣秀吉の巨額埋蔵金伝説があります。
 もちろん、兵庫県内の各地にも多くの埋蔵金伝説が残されています。地域の人々の口伝や伝承がほとんどですが、中には埋蔵に関する古文書や地図が密かに伝わり、昔からの発掘事例のほか、現在もトレジャー・ハンターが探索を続けているところもあります。
 近年、兵庫県内でもいろいろな埋蔵金発見例があります。でも、もちろん発見されても、表に出るような話ではないので、実際はもっと埋蔵金発見事例はあるでしょうね。
@ 洲本の下内膳遺跡から昭和初期に、学校用地造成中に大壷に入った古銭約1万3千枚。
A 宝塚の長尾山から昭和初期に、畑開墾中に和同開珎など古銭42枚。
B 明治末期、宝塚の安倉から畑開墾中に、天正大判など詰まった大壷発見。
C 同じく、宝塚の堂坂遺跡から、学校整備中に5つの壷、約20万枚という大量の古銭発見。
D 宍粟市安富の寺屋敷跡から、古備前の壷を発見、古銭約5万枚。
 そもそも埋蔵金・発見されない財宝とは、多くのケースでは、@敗軍が落城や敗走の際に、再起の軍費のため、A金持ちが子孫や地域に伝えるため、B盗賊が隠匿するため、または埋蔵したが、C一時的保存のつもりが伝承できなかった、などのために現在も発見されないままになっています。
 しっかりした資料、すなわち、埋蔵した経緯、場所と探索条件、地図、財宝目録、発掘方法などが古文書として伝わるものは極少で、ほとんどが口伝ものもが多いのです。
 例えば、その地域の伝説として、「朝日さす、夕日(ほかに入り日)輝く三つ葉ウツギ(ほかに目印になる木や岩、神社など)のもと、黄金(大判小判や延金、一朱金など)〇〇、金鶏(鳳凰鳥?)〇〇・・・・・」という決まり文句で埋蔵場所を口伝するのが大半です。また、「〇〇村(地元)が三軒(ほかに衰退)になったら、これを掘り出して再興せよ」との条件が付いているので、現在もまだ発掘していないとかいうのがほとんどです。
 埋蔵金伝説のなかで、各地域に昔から口伝わっているものは数多ありますが、専門家、トレジャー・ハンターたちが、資料の伝承や過去の発掘の状況などから、埋蔵という事実が存在した可能性を追求されている未発見の案件を中心に、兵庫県内に伝わっているものを紹介します。

・会下山二本松の宝塚(神戸市兵庫区会下山)
 昔、会下山の西北に続く頓田山に近年まで松の大木が2本立っていた(会下山二本松)が、法隆寺という寺の経塚の跡との伝承。ここに、高貴な人を金銀財宝とともに葬った宝塚で、「夢野村(地元)が衰えて家三軒となれば宝物を掘って村を復興せよ」と伝わる。
・その他市内の黄金伝説
 御船の森の神宮皇后の黄金の船(長田区)
 六甲山上の石宝殿その側の三つ葉ウツギの根元に黄金鶏(灘区)
 唐櫃台の神宮皇后の剣など武器や衣服に黄金の鶏を石の唐櫃に納め埋蔵(北区)
 神出の鉢伏塚に地元の庄が衰えたら掘り出すように黄金鶏を埋蔵(西区)
 白川村が寂れて三軒になったら再興にと埋蔵した白川大池奥の谷あい宝山に義経の金の鶏(須磨区)
 多井畑に村が衰退した時にと埋蔵した義経の黄金の茶釜(須磨区)
 筒井の村に衰退して三軒になったら掘り出すように割塚に黄金千枚(中央区)
 有馬街道沿い多聞寺の三つ葉オトギの木の元に9億9万の金(北区)
 山田町の丹生山中に「朝日さす入日かがやく白萩の下に黄金千枚」(北区)
 淡河の勝雄墓所石祠に「朝日さす夕日かがやくその下に黄金の綱が二本」(北区)、などなど。

・豊臣秀吉の埋蔵金(猪名川町・川西市、多田銀銅山)
 豊臣秀吉が亡くなる直前に、大阪城御金蔵の4億5千万両(現在価格約200兆円)を豊臣家の将来のために、金山奉行の幡野三郎らに命じて多田銀山の瓢箪間歩(坑道)など20数箇所に埋蔵したと伝わる。その後、大阪冬および夏の陣で一部は取り出されたようであるが、八門遁甲の秘法により埋蔵されたと伝える古文書の存在、金額のずば抜けた大きさなどから、徳川家康を筆頭に、過去、数知れないトレジャー・ハンターたちの的となっている。(別のページに「豊臣秀吉の埋蔵金、一考察」・・・LINKボタン(下段))
・阿保親王の金津山の黄金(芦屋市春日町)
 平安時代、この地を治めていた阿保親王(没842年)が村人たちのために宝物を埋め、「自然災害などで困ったときに、この塚を掘って役立てよ」として、「朝日さす入り日輝くこの下に、金千枚瓦万枚」という歌が伝わる。
・大原城の姫山神社の埋蔵金(三田市大原)
 戦国時代、荒木村重に攻め滅ぼされた大原城のお姫様の霊を鎮めるために城内主郭祀られた姫山神社の烏の森に、「入り日さす、朝日輝くウコン三つ葉の木の下に、烏が三羽に縄三把、困ったときに掘り起こして再興せよ」と伝わる。

・赤松一族中道子山(ちゅうどうしさん)の埋蔵金(加古川市志方町城山)
 豊臣秀吉の播磨攻めで落城、その際に城主赤松孝橘が中道子山城内に財宝を埋蔵。「朝日照る、夕日輝く木の下に、瓦千枚、金千枚」と伝わる。
・別所長治が埋めた脇川山の軍資金(三木市細川町)
 細川町のあるゴルフ場内の調整池の縁にある黄金塚に、黄金が埋まっている(別所長治の軍資金?)と伝わる。

・尼子氏の埋蔵金(佐用町上月、上月城跡)
 羽柴秀吉の播磨攻めに組みし、山中鹿之介らの尽力で再興された尼子氏が守る上月城が、三木城籠城する別所長治を攻めている秀吉軍が動けないと見て、毛利軍が攻撃。援軍を頼めないままに落城。その際、山中鹿之介が冴え渡る上空の月に「吾に艱難辛苦を与えたまえ」と戦いへの覚悟と勝利を祈り、尼子主従が上月城に軍資金を埋蔵し、「朝日輝く夜招く、一本松の下を掘れ、黄金あり」と伝わる。
・唐の沈没船が埋まる唐船山(赤穂市尾崎)
 昔、千種川河口付近の赤穂の沖で嵐で遭難沈没した唐の船が、長年の河川土砂に埋まり、陸続きの山「唐船山」(県内最低峰?)と呼ばれる。当時の唐からの船は交易用のお宝を積載していたはず。


・安木和泉守の埋蔵金(香美町香住区奥安木)
 安土桃山時代、奥安木城主安木和泉守が豊臣秀吉の山陰攻めにより落城した際に、純金の鶏13羽を埋蔵し、「朝日さし夕日輝く竹の元に、黄金の鶏十三羽」と、子孫の安田家に伝わる。
・垣屋氏の轟美久仁城埋蔵金(豊岡市竹野町轟)
 安土桃山時代、豊臣秀吉との戦いに攻め滅ぼされた垣内氏が、敗走時に金鶏(鳳凰鳥?)を轟美久仁城に埋蔵した。「朝日夕日、七日さす、おなだかもりの下に黄金の鶏を埋める。節分の夜子の刻にこの鶏は一声鳴く」と言い伝わる。
・虎臥城の財宝(朝来市和田山町、竹田城跡)
 羽柴秀吉が、生野銀山から産出する純度の高い銀鉱石(但州石)を山陰攻め、播磨攻めなどの財源として活用したことから、通称として生野銀山近くの竹田城(虎臥城)の財宝と称したか、本当に城跡に埋蔵したか。
・豊臣秀吉の生野銀山埋蔵金(朝来市生野町口銀谷)
 天下を取った豊臣秀吉が、大阪城御金蔵から、勘定奉行の幡野三郎に命じて多田銀山と同様に、生野銀山にも埋蔵したと伝わる。


・明智光秀の金山城埋蔵金(篠山市追入)
 明智光秀が天正6年、多紀郡氷上郡境の金山山頂に築城した際に、金山城周辺に黄金を埋めた。光秀の書き物(鍋蓋)に「金山の尾の尾の先の尾の先に、朝日照らす木の下に小判千両、有明の月」残した。ほか、宮田地方には「夏栗の尾の尾の先の尾の先に、黄金千両、有明の月」と、また草山地方にも「朝日射す夕日輝く花の木の下に、黄金千両細縄千尋(ひろ)」と伝わる。

・海賊、海猫小多八の埋蔵金(洲本市由良)
 江戸後期、瀬戸内海を荒らしまわった海賊(普段は漁師)、海猫小多八が西国諸藩の御用金5万両を積んだまま沈んだ竜王丸から密かに引上げた財宝を瀬戸内海のいくつかの小島に埋めた。その一部が、小多八の拠点があったとされる淡路由良の成ヶ島の対岸、由良地区の柏原山麓、中津川と相川の中間の海岸沿いに埋蔵され、後日、一部を生き残った子分の子孫が小判100枚と黄金の延べ棒、そして分散埋蔵した場所が載る地図を発見した、と伝わる。
・千光寺の埋蔵祠堂金(洲本市五色町鮎原)
 その昔、淡路島第一の名刹、千山千光寺の住職が五色町鮎原塔下に念仏堂を建て隠居した際に、千光寺の祠堂金を埋蔵し、「もし千光寺が壊れて再建困難なときは、この黄金を掘れ」と伝えたという。(2012年11月)
●もし、あなたが埋蔵金を発掘発見したらどうします?
   ※2014.5.8 FMわいわい放送「アフタヌーンねね」での解説より
 ある時、みなさんが植樹をしようと庭の一角を掘っていたら、何と埋蔵金やお宝が埋まっているのを見つけました。さあ、どうしましょう。見つけた物は一体誰の物になるんでしょうか。

(1)そりゃあ見つけた人のものや、と行きたいところですが、そう簡単には行きません。見つけた人は、発見してから7日以内に所轄の警察署長まで届けなければなりません。そうしないと、刑法254条に定められた占有離脱物横領罪で、1年以下の懲役、または10万円以下の罰金もしくは科料に処せられます。勿論、発見物は没収です。
(2)後は民法241条に定められた埋蔵物の発見の場合に従って処理されます。定めに従い公告した後6ヶ月以内にその所有者が判明しないときは、これを発見した者がその所有権を取得します。但し、他人が所有する物(土地など)の中から発見された場合は、発見した人と等しい割合(要するに半分づつ)で分けます。警察での保管費と公告費は徴収されますけどね。もし、本当の所有者が現れ、正式所有者に認められたらその人のものになります。しかし、財布を拾った時と同じく5〜20%の報労金(御礼)を受け取る権利が与えられます。何%になるかは、当事者相談です。但し、本当の所有者に返還されてから1ヶ月以内に請求しないと、権利を失います。
(3)ここでよく揉めるのが、本当の所有者として申し出ても、確実に認定されるのは難しいことです。ご先祖様が埋めたといっても、よっぽどしっかりした古文書できちっと書かれていないと、まず認められません。警察が地元の教育委員会などに依頼して決めるんですが、後々、訴訟問題になることもあります。
 また、発見した人が発掘に大金を使っていても、本当の所有者が出てきたら、発見物の5〜20%の報労金しか報われません。まあ、実際は話し合いになるでしょうが、権利としてはその%までです。
(4)もし返還された発見物が歴史的に希少性が高く重要文化財や国宝に指定されると、その発見物は国または都道府県に帰属してしまいます。でも、その場合には、発見者(及び土地所有者も)には物件の評価相当額が「報償金」として支払われます。ところが、反対に、いわば買い上げてもらえない事例もあります。その場合には、文化財として保管義務が生じ、勝手に処分することができなくなります。
(5)ですから、一番得するのは、発見した庭が借家の場合、土地所有者は発見者と同等の権利を有するので、大概の場合、発見物の半分の分け前に預かります。例え最近土地所有者になっていてもその時点での話ですから。随分虫のいい法律になっていますが、これは制定された明治30年頃は、江戸時代直後でそんなに土地所有変更が無かったら、一番確率の高い先祖伝来の土地所有者の可能性を担保したためと思われます。
(6)もっと大変なのが、財宝埋蔵の古文書が出てきて、場所をほぼ特定して、いざ発掘しようとしても、もしその土地が他人の者なら、所有者と相談しなければ発掘できませんし、例え了解を貰っても、その土地が自然公園法の適用される国立公園などの特別地域だとか、文化財保護法で守られている塚とか古墳とかだったら、まず発掘の許可は下りません。残念ですがどうすることもできません。(2014年7月)

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郷土史にかかる談話室9
『豊臣秀吉の埋蔵金、一考察(多田銀山)』
※FMわいわい局の番組「アフタヌーンねね」で放送解説(2013年6月、2014年5月)

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