『古事記』(編纂1300年)とひょうご
 (郷土史の談話42)
『古事記』(編纂1300年)とひょうご
 『古事記』は日本に伝わる最古の歴史書である。江戸時代までは『日本書紀』が基本であったが、当時の漢学者本居宣長が『古事記』を再評価し、1798年にコンメンタール(注釈書)と言うべき『古事記伝』を出す。これにより、日本の歴史文化研究の基本は『古事記』と『日本書紀』となりました。
 
『古事記』(本居宣長記念館にて撮影)
 ところが、行き過ぎた軍国教育に利用されてきたことへの反動となって、戦後の歴史教育において神話が全面的に排除され、それに伴って『古事記』『日本書紀』を荒唐無稽な記述として否定することから始まった歴史研究、古代史観によって排除される傾向にありました。それによって、検証すべき対象が狭隘化されているのではないかとの反省もあり、昨今、『古事記』『日本書紀』の内容が見直され始めたのは歓迎すべきことと思います。
  『古事記』は、今から1300年前の和銅5年(712年)、太安万侶によって編纂されて元明天皇のもとに撰上されました。
 その30年ほど前の天武13年(684年)頃に、当時の天武天皇が稗田阿礼に口述(誦習)させ、撰録(記録)させようとされましたが、完成を待たず崩御。これを元明天皇が引き継き、太安万侶に命じて筆記、撰録(記録)させたものです。天武天皇は、当時、各氏族を通じて集めた『帝紀』(天皇の系譜)、『旧辞』(古い伝承)の記述が不正確で、正しい歴史にならないことを危惧されて、それらの中から正実を選出して後世に伝えることとし、天皇家に伝わる物語を歴史として編纂させたのです。
 国内向けの歴史書の位置付けであるため、公文書や外交文書のように漢文(中国語)ではなく、日本語として読める文章を目指して、基本的に漢文体がベースではあるが部分的に日本語の読み方を組み入れた「変体漢文体」で書かれているのが特徴です。
 『古事記』は、3巻(上・中・下)あって、上巻(かみつまき)は序といわゆる神代の話、中・下巻は天皇の系譜とそれにまつわる話で成る。神武天皇(初代)から応神天皇(15代)までが中巻(なかつまき)、下巻(しもつまき)は応神天皇(16代)から推古天皇(33代)までを収録されています。

本居宣長が古事記を解説した『古事記傳』(本居宣長記念館にて撮影)
 日本の歴史書として、『古事記』の物語は、日本創世、国生みからいわゆる神武東征を経て、大和朝廷が主人公です。但し、『魏志倭人伝』にある卑弥呼のことは一切記述がありませんが、畿内であった出来事、その中でも兵庫でのエピソードも数多く組み込まれています。
●国生み神話・・「伊邪那岐命と伊邪那美命」(上巻-2)
 高天が原の天つ神の命により、漂って不完全な国を整えるとして、伊邪那岐命と伊邪那美命の二神が授かった天の沼矛をもって天の浮橋に立ち、潮こうろこうろと掻き混ぜ引き上げた矛の先から滴り落ちた塩が島となった。
 その島に降り、天の御柱を立て、神殿を造り、国生みせんとして天の御柱を回った二神のうち伊邪那美命が先に声掛けて生まれた子は駄目で葦船で流した。天つ神の命による卜占に従い、伊邪那岐命が声掛けして生まれた子が淡道之穂狭別の島(淡路島)です。
 あと次々と、伊予(四国)、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、秋津島(本州)お生みになって大八島、日本の国をお生みになられた。

おのころ島?(南あわじ市沼島の上立神岩)

おのころ島?(淡路市岩屋の絵島)
●神武東征・・・「神武天皇〜開化天皇」(中巻-1)
 神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれひこのみこと)(神武天皇)が8年住まわれた吉備を出て、瀬戸内海を東に船を進め、明石海峡のところで、亀の背中に乗って釣りをしながら袖を振り振りやって来る国つ神に会った。海の道をよく知っているとして家来になり、棹を差し渡して船に乗せ、槁根津日子(さおねつひこ)の名を与えられた。
                                             淡路島を望む明石沖
●天之日矛、伊豆志乙女の伝説・・・「應神天皇」(中巻-6)
 新羅の国の沼の畔の女が陽に当たって生んだ赤い玉を奪った男から、新羅の王子天之日矛(あめのひぼこ)が手に入れ、側に置いておくと美しい乙女になって、妻とした。
 日が過ぎるにつれ傍若無人に振る舞う天之日矛から、妻は倭国(日本)に逃げ出した。天之日矛は追いかけたが、妻が向かった難波(大阪)には入れず、多遅摩(但馬)に住み着いて子孫を残した。
 天之日矛が持って来た宝を神として祀り、その神から伊豆志(出石)乙女が生まれ、多くの神々が求婚したが、熱心だった秋山之下氷壮夫(あきやまのしたひおとこ)と春山之霞壮夫(はるやまのかすみおとこ)の兄弟が賭をして勝った弟(春山)が、母の手助けを得て手に入れた。

天之日矛を祀る出石神社
●意祁王と袁祁王・・・「清寧天皇」(下巻-4)
 大長谷王(おおはつせのみこ)(雄略天皇)の子、白髮大倭根子命(しらかみの大山とねこのみこと)(清寧天皇)に世継の子が無く、困っていた。そんなとき、山部連小楯(やまのべのむらじおだて)という播磨国の長官が志自牟(しじむ)(志染)という人の邸宅新築祝い招かれた際に、火焼き番の二人の少年に舞を舞わせた。
 その舞の歌に、自分たち二人は、昔、大長谷王に殺された父、市辺押歯別王(いちのべのおしはわけのみこ)の王子であるとのこと。驚いた小盾は仮宮を造り、急使を受けて叔母の飯豊王(いいとよのみこ)は二人を角刺宮(つのさしのみや)に迎え入れた。二人は互いに譲り合っていたが、弟の袁祁王(おけのみこ)が即位(顕宗天皇)、8年治世の後に子を残さずに世を去り、兄の意祁王(おけのみこ)が後を継いで即位(仁賢天皇)された。

二人の王子が隠棲していたと伝わる「志染の石室」

顕宗仁賢神社
 ひょうごの地は、日本創世においても、古代の国つくりにおいても重要な役割を受け持って来ました。大和政権にとって、淡路は畿内軒先にある神聖な場所であり、播磨も出雲地域、はたまた海外との玄関口として位置づけられているのが、これらのエピソードから窺えます。(2013年2月)

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