シーボルトが見たひょうごの地(『シーボルト江戸参府紀行』より)
 (郷土史の談話44)
シーボルトが見たひょうごの地(『シーボルト江戸参府紀行』より)

 シーボルト(フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト)は、ドイツ医学界の名門シーボルト家に1796年に生まれ、1820年にヴュルツベルグ大学を卒業して開業した。その後、オランダ領東インド陸軍病院に勤め、1823年6月に来日、長崎出島のオランダ商館専属医師となった。
 1824年に鳴滝塾を開設して西洋医学・蘭学を教え、1826年になって、オランダ商館長カピタンが江戸参府するのに随行して、その道中の立ち寄った各地の街の様子や自然、庶民の風習、元塾生や地元の日本人医師たちとの交流などについて、旅日記を書き残している。
 それでは、シーボルトはその時、途中、瀬戸内沿海地域の播磨・摂津(現在の兵庫県内)の地で一体どのような風景を見て、また何を感じて行ったのでしょうか。その旅日記『シーボルト江戸参府紀行』で辿ってみましょう。
(左写真:シーボルトの肖像)

 
○往路・文政9年(1826年)3月7日
 船上から家島や赤穂岬、淡路島を眺め、「午後三時風廻りて烈しく北より吹く」のを避けて室の津に入港。「九州其他二三藩の大名が江戸・朝廷へ旅行するとき入るホテル(旅舎)」は、その日、和蘭の国旗を掲げており、投宿する。ホテルからの内海や港・町街などの眺望に驚き、建物の構造、「大名衆に充てたる特別室」の造りや材質、床の間・掛物・花瓶・香爐・刀掛・冠臺・煙草盆などの家具をつぶさに観察している。室の津泊。
(左写真:江戸末期当時の豪商宅。宿舎も同様であったと思われる。)
(友君ゆかりの淨運寺)
○3月8日
 「午前は経度緯度の観測、来客、診察にて過ごせり。我門生は魚鳥其他の珍品を求めんとて外出し、畫師登與助は港と近邊との見取圖を作りたり。我等は次に市内を散歩し、其機會を得てホテルに入らざりし病める給人を訪ひたり。」と、街中の病人をも診てあげている。そして、室の港を観察。港の警護所や砲台、山根崎に登って周りの多島海風景を眺めている。市街に帰り、商店、妓楼、浄運寺、友君の墓、室明神、そして蔓や藤などの植物、室の産物(革類・革細工)を観察。「晩に名村雲臾と云へる医師に遇へり」と面白い話を聞いて、「又旅行日記に挙ぐべき須要なこと」と記す。室の津泊。

(昼食をとった正條の宿)
○3月9日
 朝8時に室を出発、一ツ山の地を抜けて山道(室津街道)を行く。途中、肥料を蓄える肥溜桶を興味深く観察。次いで、「我等は那波、金剛山、浦部、河内等の貧しく而も清潔なる村々を過ぐ。」また、穢多非人のことも説明し、白鷺、雲雀を観察している。正條村(正條宿)にて昼食、揖保川を渡り、龍野城、網干、?浜、河谷村、阿曾村、釜屋、斑鳩、山田、網干、市川の右岸姫路に到着。「姫路市は既に遠方より播磨藩侯の治所なる白亜のきらめく城によりて之を知るべく。」と、そして姫路の天産物、姫路城、男山など、播磨国の賑わいに感嘆する。姫路泊。

(同行者が描いたスケッチ画がある石の宝殿)
○3月10日
 9時近く姫路発。「夜の中に約一寸の雪降り、・・・まだ雪は降り續き・・・路は難渋になりたり。」 と雪道を市川(船)、曽根へ、「我等の菩提樹に形似て・・・」と曽根の松、石の宝殿を見て、高砂町へ。長崎出島に招待したことのある角力者(すもうとり)が進める酒宴の話、墓地埋葬の話。そして、夜9時過ぎに駕籠で加古川に到着し、宿をとった。「一人の医師来り訪へり。武田昌達と云ひ、その子息某鳴瀧の私學校にありて余に教を受けたるなり。」そこで「此地方の珍らしき植物を余の為めに蒐集することを依嘱」した。加古川泊。

(旅人の疲れを癒す舞子の松林)
○3月11日
 「いともよき天気に恵まれて加古川を去る。」途中、田畑の作付けの状況、充実した灌漑の施設などを見て、西谷村、土山村を通り、2時頃明石に到着。「我らは海岸に傍ひて進み淡路島を俄前に西南南に見る。」舞子濱を通り、一ノ谷で「蕎麦より作れる饂飩にて名ある飲食店途に當れり。人々すべて飲食して・・・」と、有名な敦盛蕎麦を食べている。そして、「夜に入り、八時半に纔かに兵庫の旅舎に到着する。」ここで、友人が紹介した兵庫の主君の侍医が、数人の医師を伴って来て、主君からの贈り物を受け取る。兵庫泊。
(生田神社)
○3月12日
 「朝八時出発し、徒歩にて市中を通過せしが、極めて居民衆き様に見えたり。・・・町の通りには極めて尋常の商店相聯なり。住宅は貧しき外観をなす。」そして、間近の長き村を通り、歯痛の守護神・舟人の守護神と崇められている楠正成の墓、生田明神にて日本古来の神道の雰囲気を察し、藤樹に結び付けたお神籤に興味を示す。岡本山の麓から100以上もの船舶の行き交う「大阪湾の絶佳なる景色」に感動し、次いで味泥村を通り、「住吉にて休息し、小飲し、」津知村で幕府高官の娘の道中行列を見る。そして、「二時に西宮に達し、此處にて晝食し、又一泊せり。晩に圖らずも一名の門人来れり。大阪の第一の参議の侍医なり。」西宮泊。

(神崎川)
○3月13日
 「我等は西ノ宮より八時頃に好ましからぬ空模様に出発し、吹雪と鐵の如き北風とを犯して、平夷なる土地を通り手て尼崎町に致る。・・・我等は濠(尼崎城)の上の橋を渡り、十一時に神崎に至り。そこにてカナリ廣き神崎川を舟にて過ぎ、十三にて憩み、十三川を超え。二時四十五分大阪の前駅に到着したり。」
そして大阪の町の大きさに感嘆する。

○帰路・同年6月14日
 「正午に我等大阪を去り、舟にて淀河を尼崎へ行く。」安治川の岸に沿い航行して、途中に往来する肥料船にびっくり。「尼崎の手前にて舟を捨て、徒歩にて、勤勉に耕作せる平地の穿ちて、西宮に至り。我等はそこに一泊す。」西宮泊。
○6月15日
 「我等は西宮を発し、・・・今日は華氏八十八度乃至九十度の壓する如き炎暑にして、所々肥料の臭に汚れたる空気は猶もそれを堪え難うす。」と、特記している。「正午に近く兵庫に到る。」兵庫泊。


(当時の兵庫宿の状況)

○6月16日より18日
 荷物を載せた方の船が大阪から到着せず、滞在が長引く。「我等は此間を利用して此小市を散歩す。兵庫には十六の町あり。人口は一萬六千。傍に港あるために極めて繁華なり。・・・」その後、下関まで乗船する予定の船の見学に行く。兵庫連泊。
○6月19日
 「午後に船に上る。晩に幸東北の風なるに碇を掲げ、明石と淡路島との間の海峡を駛せたり。・・・」その日は船中泊。

○6月20日
 「早朝室の緯度にあり、・・・家島、淡路は眼中にあり。・・・中夜碇を下したり。」と室津沖に停泊。
○6月21日
 「朝の間に碇を挙げたり。波静なり。・・・午後に再たび碇を下す。・・・余は井一つの舟に上り、與島(屋島と思われる)に移る。」と室津沖を出て播磨灘を通り過ぎて長崎に帰って行きました。
※参考資料:『シーボルト江戸参府紀行』 呉秀三 訳注 S3.1.20発行 東京駿南社蔵版                       (2013年5月)

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