神戸スイーツ(洋菓子)を発展させてきた先人たち
(郷土史の談話 53)
神戸スイーツ(洋菓子)を発展させてきた先人たち
※昭和初期の洋菓子関係の「広告マッチラベル・包装シール」(掲載)は当研究所所蔵コレクションより
「神戸」と言えば、スイーツ(洋菓子)の街。神戸を代表する特産です。神戸のスイーツ(洋菓子)のルーツは何だったんでしょうか。どのようにして発展してきたのでしょうか。
それは、日本に外国人がやってきた時の話です。明治維新とともに、兵庫を開港するとして神戸の地先、生田川西側の海岸沿に外国人居留地が用意されました。来日した外国人が居住し貿易業等を営むようになって、その際に洋菓子を持ち込まれてきたのです。
(1)
1869年(明治2)の居留地内にイギリス、フランス人がパン屋を開業したのに続き、明治3には「ホテル・ド・コロニー(オリエンタルホテル)」、明治4に「イースタンホテル(ヒョーゴホテル)」が開業し、デザート菓子が提供されていました。まだ、国産の洋菓子といったものは現れていませんでした。1873年(明治6)になると、松井佐助氏が「亀井堂總本店」が開業し、当時としては和菓子というよりも洋菓子タイプの新商品、瓦煎餅が売り出されました。明治7年には、元町に「芳香堂」がコーヒーをサービスする店を出すなど、急速に飲食の文明開化が進み始めました。また、1877年(明治10)には、東京で開かれた内国勧業博覧会に神戸の「鹿田屋」がビスケットを出展したりしていました。
亀井堂總本店の瓦煎餅
(昭和初期の広告マッチラベル)
(2)
1882年(明治15)になると、元町3丁目に神戸初の洋菓子店「二宮盛神堂」が居留地の外国人向けにオープンしました。その頃には、同じく元町3の「祥瑞堂」や神戸駅相生橋の「三国堂義高」がカステラ(加須天以羅)を、レストラン「外国亭」も店を開きケーキを提供していたようで、次いで明治20年にはアメリカ仕込みの洋菓子店「野中商店」が開業しました。
1897年(明治30)には、「神戸風月堂」(風=正式には風構えに百)を東京で修業した吉川市三氏が元町3丁目で創業。1899年(明治32)、居留地が日本に返還され、神戸の重工業が振興するにつれて、街も賑わいを見せ始めた1905年(明治38)、藤井元次郎氏が外国人技術者向けにフランスパンなどで柳原御旅商店街に「藤井パン」を開業しました。1907年(明治40)の東京勧業博覧会に、「神戸風月堂」がアイスクリームなどの洋菓子を出展。
(3)
この頃になると、洋菓子の材料等も流通し出しており、外国人だけではなく日本人の間にも洋菓子が浸透しはじめました。1912年(大正1)になると、中山手通2に「出口洋菓子店」が工場を建設。海運ブームの到来し、まさに殖産興業の世を謳歌、洋風文化の受容、洋菓子へと注目が集まりはじめました。1914年(大正3)の「東京大正博覧会」に多くの洋菓子が出展され、「神戸風月堂」は洋菓子部門の名誉大賞を受賞しています。1921年(大正10)に神戸は開港50年を迎えて、港湾振興を背景に、航海用携帯食品としてビスケットが大人気となりました。1923年(大正12)には、「藤井パン」(戦後の「ドンク」)が工房・カフェ付きの店を湊川トンネル西口に開業、カットケーキやドーナツ、かき氷やアイスクリームなど人気となりました。
H.フロインドリーブ(同)
(4)
ロシア革命を逃れて白系ロシア人たちが大勢来日してきました。1923年(大正12)、マカロフ・ゴンチャロフ氏(オマノフ王朝のチョコレート職人)が、中山手通の中山手カトリック教会の東隣で「ゴンチャロフ製菓」高級チョコレートの製造販売を開始。 ハインリッヒ・フロインドリーブ氏が日本人妻のヨンさんと中山手でパン屋(NHKドラマ「風見鶏」のモデル)を開業。
(5)
また、フロンドリーブ氏と同じく、第1次大戦での日本軍捕虜となり、収容所内で日独親善展示即売会でバームクーヘンを焼いたカール・ユーハイム氏が釈放後も日本に滞在。関東大震災から逃れて神戸に来たユーハイム夫妻がカフェ付き店を三宮にオープン。ドイツ菓子のバウムクーヘンが親しまれ、次第に、市内に10店余りのパン・洋菓子・レストランを営業することになる。「セントラルベイカリー」をウォルシュケが開業。
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大正末期にかけて、「ゴンチャロフ」「ユーハイム」「H・フロインドリーブ」が相次いでオープン。外国航路で修業した日本人が多く開業をはじめる。西義弘氏が「ユーハイム・コンフェクト」を創業。
1926年(大正15)に、フォードル・ドミートイエヴィッチ・モロゾフ一家が来日、「F・モロゾフ洋菓子店」(昭和11からは「コスモポリタン製菓」)をトーアロードにて開業しました。
モロゾフ製菓の包装シール
木村屋(パン・菓子)
木村屋(喫茶・パン)
ハトヤ(自家製パン・洋菓子)
ニシムラ(喫茶・パン・洋菓子・グリル)
(7)
1927年(昭和2)に、大丸が元町4丁目から現在地へ移転、洋菓子を本格販売します。東中清一氏が「東京木村屋」(現在は「神戸ベル」)を中央区に開店。昭和初期には、「マル井」のパン屋さんも。また、昭和5年にはカステラの長崎「文明堂」が神戸に出店。同年の天皇行幸の大観艦式レセプションにユーハイムが洋菓子を大量納品したり、翌年昭和6には、「F・モロゾフ製菓」が林田区(現在の兵庫区)に工場開設します。
マル井パン洋菓子店(神戸)の包装シール
文明堂神戸店の包装シール
(8)
このほかに、昭和初期に入ってくると、市内各地にパンや洋菓子を扱う店が増えてきます。「ハトヤ」が北長狭通に、「ニシムラ」が三宮電停前に、ロシア式ケーキを出す「マツヤ」が長田交叉点前に、「ハルミヤ」が平野に、また、和菓子の「高砂屋」も洋菓子アイスクリームをもなかタイプにして販売していました。ほかに、「藤屋」が元町に、「不二屋洋菓子舗」が同じく元町に、「まる十」が省線電車六甲道駅前に、「中村屋」が三宮神社入口に、「コロンビア・キャンディ・ストア」が下山手通に開業し、洋菓子を販売していました。
マツヤ(ロシア式ケーキ・喫茶食堂)
パウリスタ(レストラン・喫茶)
ハルミヤ(喫茶・洋菓子)
高砂屋(氷もなか)
コロンビア・キャンディ・ストア
(ホームメイド・ケーキ、喫茶)
(9)
1936年(昭和11)に起きた2.26事件など、戦時色を強めるなか、「神戸モロゾフ製菓」が英字新聞「ジャパン・アドバタイザー」に「バレンタインにチョコレートを」と広告。これが現在のバレンタインデーにチョコレートを贈る風習が定着してきます。そのうちモロゾフ一家が「モロゾフ製菓」と袂を分かち、「ヴァレンタイン洋菓子店」をトアロードに開業するが、後に、戦火で焼失後に「コスモポリタン製菓」として再出発。この頃、カカオ豆の輸入禁止、砂糖消費の制限など、洋菓子の材料確保が困難となってくる。
藤屋(洋菓子・喫茶)
不二屋洋菓子舗
まる十(パン・洋菓子)
中村屋(パン・喫茶)
(10)
終戦直前の1945年(昭和20)、神戸は空襲で焼け野原になりました。その後、進駐軍がやってきて三宮東と元町西に駐留し、キャンプを長期間開設することになりました。砂糖は依然統制品のまま。1946年(昭和21)、兵庫県洋菓子協同組合が発足。布引町にイスズベーカリーが開業。翌年には北長狭通にコンフェクショナーコトブキが続きます。昭和24年になって、元町に「洋菓子のヒロタ」がオープン。昭和25年には、菓子材料の統制が解除、価格統制も排除されました。
洋菓子のヒロタの
包装シール
1966年(昭和41)、この頃から、神戸市内または阪神地域において、フーケやエーデルワイス(尼崎)、アンリシャルパンティエ(芦屋)やケーニヒスクローネなど現在の神戸スイーツ(洋菓子)界を賑わせる多くの店が次々とスタートします。全国菓子大博覧会などのコンテストで神戸洋菓子界が大量に受賞したりしています。
1971年(昭和46)、兵庫県洋菓子高等職業訓練校が開校。1973年(昭和48)、神戸市が「ファッション都市宣言」を行います。1993年(平成5)には、洋菓子など優れた技術・技能者に「神戸マイスター」として認定するなど、ますます発展してきたのです。今、「スイーツ(洋菓子)」と言えば、
神戸
なのです。
(2014年3月)
※参考資料:『神戸雑学100選』(金治勉・先崎仁著)神戸新聞総合出版センター、『西洋菓子彷徨始末・洋菓子の日本史』(吉田菊次郎著)朝文社、『神戸居留地の3/4世紀』(神木哲男・崎山昌廣編著>神戸新聞総合出版センター、神戸学検定公式テキスト『神戸学』神戸新聞総合出版センター、『KOBE洋菓子物語』(村上和子著)神戸新聞総合出版センター、その他
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