浮世絵師「東洲斎写楽」の正体は誰か(一考察)
  (郷土史にかかる談話 66)
浮世絵師「東洲斎写楽」の正体は誰か(一考察) 

東洲斎写楽画
1.写楽、衝撃のデビュー
 江戸時代の中頃、1794年(寛政6)5月に浮世絵界にデビュー、翌1795年(寛政7)3月までの10か月間、従来と違う役者の特徴を誇張したダイナミックな作風で役者絵を世に送りだした浮世絵師の東洲斎写楽。
 作品のすべてを版元の蔦屋重三郎の店より出版、その短い創作期間にもかかわらず、現在のところ145点の絵が伝わる。どの家元にも属さず、経歴はおろか、出身地や生年、没年もすべてはっきりとせず謎だらけ、忽然として登場し忽然と筆を断ち消息を抹殺した稀代の浮世絵師である。
 写楽の作品は、その画風から4期に区分されます。
@ 第1期:寛政6年(1794年)5月登場以降2か月間、28点。大判で、役者の大首絵ばかり、高価な黒雲母や最上質の紙を使用。
A 第2期:寛政6年7月〜8月、3か月目以降、38点。大首絵をやめて全身絵、色や紙質も若干低くなる。
B 第3期:寛政6年11月〜閏11月、58点。歌舞伎の舞台背景が加わる。この頃より、顔見世狂言絵が増えてくる。
C 第4期:寛政7年(1795年)1〜2月、21点。極めて普通一般的、紙質も薄い。
 斬新なデザインで衝撃のデビューを果たした写楽の役者絵であったが、役者を過激に美化することより本質を絵に込めていることから、歌舞伎役者のプロマイド・歌舞伎公演の宣伝という通常の目的からは逸脱しており、「これは歌舞妓役者の似顔をうつせしが、あまり真を画かんとてあらぬさまにかきなさせし故、長く世に行はれず一両年に而止ム」(仲田勝之助編校『浮世絵類考』より)と役者本人やファンから不評を買い、短期間で活動を止めたことが窺える。第1期の華々しいデビューから後半第3期以降は、別人が描いたかと思われるほど特徴がなくなる。結局、10か月間だけで写楽としての活動は終焉した。
2.写楽は誰か
 写楽登場後、写楽の正体を求めて、多くの人物が取り沙汰されてきた。当時の有名な文化人の成り済ましとして、版元の蔦屋重三郎自身とか、はたまた別の浮世絵師の歌川豊国、葛飾北斎、喜多川歌麿、鳥居清政、絵師の司馬江漢、谷文晁、円山応挙、戯作家の山東京伝や十返舎一九、能役者の斎藤十郎兵衛、歌舞伎役者の中村此蔵や、洋画家土井有隣や俳人谷素外までが人々の言の葉に乗ってきた。いずれも、決定的な古文書等が伝わっていないからであった。
 このうち、次の人物たちが主な候補とされてきた。

東洲斎写楽画

東洲斎写楽画

東洲斎写楽画
(1)有名絵師の誰か
 これだけの技量をもった新人の浮世絵師よりは、有名絵師が別名で画風を一新して秘密裏に登場したのではないか。誰かについては諸説入り乱れているが、それを仕組んだのはもとより版元の蔦屋重三郎ということで「有名絵師説」。

喜多川歌麿

葛飾北斎

司馬江漢

山東京伝
(2)蔦屋重三郎
 当時有名絵師は複数の版元が扱うのが通常で、写楽の版元は蔦屋だけで珍しいことから、蔦屋重三郎自身が写楽のペンネームで描いたのではないかという「蔦屋重三郎説」。
(3)中村此蔵
 有名絵師は必ず自画像を作品のどこかに描くことが多いので、歌舞伎役者の中で、大首絵の特徴ある顔の書き方とは異なる描き方(顔の目鼻など)をしている役者が写楽の自画像とみて、「東洲」との号を持つ歌舞伎大谷一門(のち中村一門)の中村此蔵(主役級ではない)ではないかという「中村此蔵説」。

蔦屋重三郎

中村此蔵(左)
(4)斎藤十郎兵衛
 阿波藩お抱えの能役者(士分)であるが故に、禁制の浮世絵師を秘密裏に能「宝生座」舞台非番の1年弱の短期間ペンネームで勤めていたのではないか。歌舞伎を見る目が「上から目線」が感じられる「能」の役者で、ただし、能での主役の「シテ」でも準主役の「ツレ」でもない、一段下の「ワキツレ」の家系。死後、四半世紀を経過したあたりの古文書に、「浮世絵師欄に、写楽斉(東洲斎ではない)は八丁堀地蔵橋」と、また半世紀経過して「阿州(阿波國)の人、俗称は斎藤十郎兵衛、八丁堀(地蔵橋=日本橋茅場町)に居住していた阿州の能役者、号を東洲斎」との記述がある。また、「東洲斎」とは斎藤十郎兵衛の「藤十斎」のアナグラムだとする向きも。なお、さいたま市の法光寺の過去帳にも記載があり、お墓も出身の徳島市の東光寺にあります。

能舞台
(右手前辺りがワキツレ)
3.最近の研究
 平成20年(2008)、ギリシャの国立コルフ・アジア美術館で元日本駐在(20世紀初頭)外交官がコレクションした未研究の浮世絵が、現存していない初めての写楽の肉筆「扇面画」であるとの研究・鑑定がされ、肉筆の版下画を堀師が掘り直すことがないので、絵師の微妙な筆遣いが確認できる。この肉筆画によると、写楽の筆の運びは一気に滑らせるのではなく、筆を各所で押さえながら書き上げているのが特徴でした。他の有名絵師の肉筆画と比べて、同一のものが無く、有名絵師説はかなり低くなりました。
写楽の肉筆扇面画
 その後、三重県津市の石水博物館の写楽候補だった肉筆「扇面画」も同様の研究の結果、写楽の肉筆と認定され、絵の背景に豊国の浮世絵が描かれていて、これが寛政12年(1800)の歌舞伎演目だったことから、それ以後の肉筆画であるとされた。これにより、寛政9年に亡くなった蔦屋重三郎説も否定的となりました。
 また、浮世絵に刷られなかったままの版下画も9枚伝わっており、これらも同様の肉筆の筆致が確認され、写楽画との可能性も大きいと判断されました。
 それで、残った候補、阿波の能役者「斎藤十郎兵衛説」が一躍本命と言われるようになりました。
4.写楽の正体、一考察
(1)斎藤十郎兵衛説に異論
写楽は阿波國能役者斎藤十郎兵衛であった、とこれで結論付けていいのであろうか。確かに、阿波國の能役者斎藤十郎兵衛は江戸八丁堀地蔵橋に居住していた。また、八丁堀地蔵橋に「写楽斎」という浮世絵を描く人が居た。だからと言って、斎藤十郎兵衛イコール写楽斎と明記されていない。しかし、浮世絵を趣味としていた斎藤十郎兵衛が覆面浮世絵師写楽に師事し、「東洲斎写楽」のパロディ・ペンネームとして「写楽斎」を貰っていた可能性も捨てきれない。斎藤十郎兵衛が死亡したこの頃より、「写楽」は八丁堀居住との四方山話的な情報が登場して、遂には「写楽」は、「阿州(阿波國)の人、俗称は斎藤十郎兵衛、八丁堀に居住していた阿州の能役者、号を東洲斎」との記述が両者の死後25年後頃に出てくるのである。

斎藤十郎兵衛のお墓
(徳島市の東光寺)
 要するに「東洲斎写楽」と「写楽斎」を混同しているのではないか。そうなれば、斎藤十郎兵衛は「写楽斎」であって「東洲斎写楽」ではなく、版元蔦屋重三郎によって登場した覆面の浮世絵師「東洲斎写楽」とは別人であった、と考えてもよいのではないか。
 斎藤十郎兵衛にダミー役として「写楽斎」というパロディ・ペンネームを与えたのも、死後に栄松斎長喜老人(蔦屋版元の浮世絵師)に偽りの情報を流させたのも、覆面浮世絵師が「東洲斎写楽」であったことを永遠の闇に留めておくために、「写楽」登場の時から描いていた蔦屋重三郎の仕掛けた秘密工作だったのではないでしょうか。
(2)写楽の正体は、ノーマークの有名浮世絵師「鳥居清政」
 最近の研究による肉筆画の特長などから、写楽の筆致は特定されたとなっているが、概ね写楽の活動期間の後年の肉筆画を根拠としており、活動期間中のものとは確認されていない。
 なによりも、写楽画は素人が余技として描けるものではなく、歌舞伎・狂言に精通しており、浮世絵師としての蓄積された技量が窺えます。有名絵師が秘密裏に別ペンネームで斬新な作品を発表するにしても、全く同じ筆致では正体がばれるので従来とは違えてくることも大いに有り得ることです。後年に、浮世絵として活動を止め、刷られることがなくなって残された肉筆画が、既に覆面登場以前と筆致が変っていることもうなずけます。

鳥居清政画

鳥居清政画
 そこで、ノーマークだった有名絵師「鳥居清政」に注目しました。
 写楽登場の直前まで、才能豊かな浮世絵師「鳥居清政」が活動していたではありませんか。鳥居家四代目の鳥居清長の御曹司で、家元を継承する未来の五代目として順調な出版が続いていた。それが、父(四代目)の師匠の孫(庄之助)が養子鳥居清峰として鳥居家に入ることで、父は五代目を自分の師匠の孫にするためか、息子の清政を断筆させ、鳥居家の浮世絵師から外している。有能な人気もあった新進の浮世絵師が突然いなくなってしまったのである。
 ※鳥居忠長(兼子伴雨)『劇雅集』より「松屋亀次郎の男・庄之助、即ち清満の孫が八、九歳にして清長の門に入るに及び、将来鳥居画家継承についての紛糾を避ける為に、清長は己れの一子・清政が二十歳(数え)になり、浮世絵画家として世に知られていたのを其彩管を折らせた」
 探偵推理小説ではないが、その前提(鳥居清政の写楽説)で関係年表を見直すと、いろいろなことが見えてきます。
 家元継承問題とはいえ、不憫に思い、その腕を埋もれさせてしまうことを惜しんだ版元の蔦屋重三郎が、版元間の出版競争の切り札として、鳥居清政を斬新な画風で覆面の浮世絵師「東洲斎写楽」として密かに世に出したのではないでしょうか。
 しかし、秘密裏に斬新な画風の役者絵師として世に出したものの、モデルとなった役者たちからは真実すぎるとして歓迎されず、画風も一般的なものに移り変わって商売・人気に影響が出始めたので、版元蔦屋は1年足らずで覆面浮世絵師「写楽」に幕を下ろさせたのではないか。 
 ※この説を初めて主張されたのは神戸の有名な浮世絵コレクターの中右瑛さんで、著書『写楽は十八歳だった!』にてその可能性を指摘されています。
●「写楽」関係年表
年 月
和 暦
内       容
出   典
1761年 宝暦11 斎藤十郎兵衛生れる。 @『重修猿楽伝記』
1776年 安永5 鳥居清政(四代目家元の鳥居清長の子)、生れる。 A 『劇雅集』
1788年 天明8
鳥居清満(清政の師匠、三代目家元)の娘婿松屋亀次郎に庄之助が生れる。 A 『劇雅集』
1792年 寛政4 四代目家元鳥居清長の息子鳥居清政、浮世絵師デビュー。 A 『劇雅集』
1793年秋 寛政5 鳥居清政、断筆。 A 『劇雅集』
1794年5月 寛政6 斎藤十郎兵衛の能「宝生座」非番(1年間)。 B『写楽・考』
1794年5月 寛政6 写楽、浮世絵師デビュー。鳥居清政、満18歳。  
1795年2月 寛政7 写楽、10か月で断筆。  
1795年4月 寛政7 斎藤十郎兵衛の能「宝生座」非番終了。 B『写楽・考』
1795年 寛政7 松屋亀次郎の男(息子)庄之助(8歳)(鳥居清長の師、三代目家元鳥居清満の孫)が鳥居清長に入門、養子縁組して鳥居清峰。その時、鳥居清政20歳(満19歳)。 A 『劇雅集』
1799年 寛政11 斎藤十郎兵衛、八丁堀地蔵橋に居住開始。 C『浄土宗本願寺派今日山法光寺(埼玉県越谷市)の過去帳』
1817年 文化14 鳥居清政死去(11月4日)、享年42歳。 A 『劇雅集』
1818年 文政元 「八丁堀」の欄に、浮世絵師の印の付いた「号写楽斎、地蔵橋」とある。  D 『諸家人名江戸方角分』
1820年 文政3 「八丁堀、阿州内、斎藤十郎兵衛、58歳で死去(3月7日)、先住にて火葬」。 C『浄土宗本願寺派今日山法光寺(埼玉県越谷市)の過去帳』
1821年4月 文政4 式亭三馬による、「異本(『諸家人名江戸方角分』)にて写楽の居を八丁堀」と書き込み。 E坂田文庫本『浮世絵類考』
1821年〜
1844年
  「写楽は、阿州の士、斎藤十郎兵衛という栄松斎長喜老人(蔦屋版元の浮世絵師)の話」と加筆。 F『浮世絵類考(達磨屋伍一旧蔵本)』
1844年 天保15 「写楽、天明寛政年間の人、俗称斎藤十郎兵衛、居八丁堀に住す。阿波候の能役者也。号東洲斎」との記載がある。 G『増補浮世絵類考』
【参考資料】出典
@『重修猿楽伝記』、能役者の伝記で、「斎藤十郎兵衛は1761年(宝暦11)の生れ」、とある。
A『劇雅集』鳥居忠長(兼子伴雨)著、1902年(大正2)に鳥居家七代当主の清忠が門人た忠長に頼んで纏めさせた 鳥居家系・事蹟の集大成。
B『写楽・考』内田千鶴子著。
C 『浄土宗本願寺派今日山法光寺(埼玉県越谷市)の過去帳』、(1997年発見)、齋藤十郎兵衛の菩提寺の過去帳。
D 『諸家人名江戸方角分』。江戸の文化人名録、1818年に竹本が太田南畝に届けた。(1977年発見)
E 坂田文庫本『浮世絵類考』の写楽欄に居について、式亭三馬が「異本(『諸家人名江戸方角分』?)に、八丁堀」と記す。
F 『浮世絵類考(達磨屋伍一旧蔵本)』で、栄松斎の「写楽は阿州の士齋藤十郎兵衛」との話。
G 『増補浮世絵類考』考証家斎藤月岑が編集、1844年。
※関連ページにLINKしています。
下記の写真をクリックして下さい。

FMわいわい番組「ゆうかりに乾杯」放送記録
(89) 浮世絵の収集と謎を追って!
(2014年11月放送)
(pdf)

(2014年11月〜2020年9月)
当研究館のホームページ内で提供しているテキスト、資史料、写真、グラフィックス、データ等の無断使用を禁じます。

※クリックして下さい。
「郷土史にかかる談話室」メニュー へ戻ります。

※クリックして下さい。
「神戸・兵庫の郷土史Web研究館/郷土史探訪ツーリズム研究所」のトップ・メニューへ戻ります。