神戸の重大感染症流行顛末記
  (郷土史にかかる談話 78)
  台風、地震、津波など自然災害に劣らず私たちの社会生活に甚大な被害と影響を与えるものに、「感染症の流行」「パンデミック」があります。昔は感染症(伝染病)の知見も無い時代、迷信に惑わされたり、効果的な対応ができなかった歴史があります。
 明治維新前後から疫学的な記録が残り始めた神戸も(兵庫県も)、維新後の開国開港に伴う海外からの感染症の伝搬、国内各地流行の事例は国際港神戸の宿命でした。
 明治末期から近代医学の発達がめざましく、都市の発達や海外との接触が盛んとなるにつれ、病原も増えてきたが、疾病に対する予防・治療の方法は大いに発達し、衛生の普及もあって、重大な感染症の流行は少なくなった。今や未知の病原の出現と対策が必要な新しい時代に入っているが、昔からの防疫対策の基本は今と変らない面が多く、昔の事例は少なからず参考になります。
 ここに、神戸における江戸末期から平成の時代までの、重大な感染症の主な流行の顛末を見直してみましょう。(2020年5月)
1.幕末期のコレラ大流行

コレラ(虎狼痢)に立ち向かう人びとを描いた浮世絵
 幕末期には、大地震や疫病の流行などがよく起きた。嘉永7年(1854年)6月に近畿大地震が世相を奮わせた半年後、日本の諸国でコレラが流行、兵庫でも神戸や阪神間を中心に多くの人びとを苦しめ、暫くして収まった。その余波も残るなか、安政5年(1858年)、夜空をほうき星が駆け巡り、地上巷間ではコレラが猛威を振るい、「妖星と虎狼痢」と称せられた。
 コレラの日本初上陸はこの36年前の文政5年(1822年)であったが、またしてもこの年の安政5年8月、大陸方面から長崎に入港してきた米国軍艦からコレラが上陸、街道を東に上って諸国にコレラが大流行してしまった。県内でも西播磨から神戸、阪神間の街道沿い、姫路、龍野、明石、尼崎(神戸が含まれる)の各藩領が軒並みやられました。被病者数や死者数などは記録が残っていない。コレラは「頃痢」「虎狼痢」「トンコロリ」「三日コロリ」と呼ばれて、「コロッと死ぬ」「三日で死ぬ」と恐れられ、当時の狂歌で、「厄病も長居はならじ芦原や さかさに立ちしホウキ星には」と詠われました。(来客を通した部屋の外にホウキを逆さに立てて置くと、招からざる訪問客が早く帰った、との験担ぎがあるから)
 翌年(安政6年、1859年)もコレラ禍は続き、越後長岡藩牧野家の家臣(後の家老上席)河井継之助が江戸・西国遊学の途で摂津・播磨を通過した直後に赤穂からのコレラ患者(死者)に遭遇し、予定していた道を逸れて同行を回避したことを自身の旅行・日記『塵壺』に次のように記している。
 「大阪を始め、姫路、岡山、備中も倉敷迄、昨年来コロリの病(コレラ)又流行して、死人多く、大阪よりの往来、兵庫、何れも流行、道に六部(巡礼)の死するを見る。赤穂より備前片上へ出る山中にて、駕籠に乗せ、手拭にて顔を蔽い、生ける取扱にして行ける女あり。命は天と云い乍ら、好んで到るは愚なりと思い、讃岐に渡らんとするためなり。妹尾に宿す。大阪より備中迄、病神(厄病神=コレラ死亡者)送るとか云って、馬鹿らしき事、何れもあり。」
 為す術のない災厄に見舞われて、人びとは理不尽な迷信に惑わされている様子が怖いですね。
2.明治の西南戦争直後のコレラ大流行

西南戦争後のコレラ病防疫の図(明治の錦絵)
 九州での西南戦争を終結させた直後(明治10年、1877年)の10月1日、帰還兵を満載した上り列車が摂津本山駅東で下り列車と正面衝突を起こすなど神戸の街を蒼然とさせていた頃、その1週間前の9月22日に帰還兵たち大勢を載せて兵庫海岸に停泊した亀福丸の水夫がコレラを発症、精密診断の結果「真性コレラ」と判明、直ちに隔離、予防措置を執ったが既に手遅れ。次々と87人に感染発症、これが神戸でのコレラ流行の最初の公式記録でした。
 県当局は直ちに県検疫委員出張所を海岸通2丁目に設置。入港船の検疫を厳しく実施、また兵庫の和田岬に検疫消毒所を設けて大々的な消毒を行なった。西南戦争からの復員船は続々と神戸に入港して来たが、ほとんどコレラ患者が乗船していて、10月だけで兵隊414人が被病罹患。
 市内流行を阻止すべく、県は兵庫の吉田新田と和田岬に臨時の避病舎(感染症病棟)を設置し急遽コレラ患者を収容、治療に当たった。また、カニ、カツオ、貝類、果実などの販売を禁止、祭礼や諸興業の停止など防疫に勤めたが、あえなく市民に爆発的な伝染流行をもたらした。感染症の知見も未だ浸透せず、不明なことも多かったので、空気感染の情報も流れて、ナンセンスな対応を取ってたり迷信に惑わされた事例がたくさん見られた。
 病人の死亡に際しても届け出の義務づけや医師の検視、個人の勝手な埋葬を禁止し、特別墓地(東尻池村の海岸近くの墓山の一部)に何百人も埋葬した。秋冷の頃を迎えて菌の自然消滅から流行も下火となったが、神戸市の患者は市民や帰還兵会わせて903人、うち約700人(約80%)が死亡。
 ここに至り、専門の避病院(感染症病院)を夢野村東山に建設、のち改築して市立東山病院と改称した。
3.その後(明治)のコレラ流行
 コレラはその後小康をみたが、23年病菌の再侵入でまん延し、県下で3,000人を越える死亡を数えて11月末終息した。この年には、このほか腸チフス・赤痢がまん延し、3,677人の伝染病死者を示したが、おりから23年はわが国最初の恐慌で不況の波が押し寄せ、加えて凶作のため米価が著しく上がり、細民の惨状は、伝染病・生活苦で言語に絶するものがあった。神戸市では米の安売りが行なわれ、「貧民救済義会」が誕生している。28年には北清や台湾に流行したコレラが内地に侵入して広がり、神戸を中心に県下の患者数6,385人、死亡者2,782人にのぼった。コレラは、その後35年にも発生があったが、43年の流行時から採便検査が行なわれるようになって、予防は進んだ。
4.天然痘の流行
 痘瘡(天然痘)は26、29年に伝染したが、その後40年8月コレラの終息と同時に、入国まもない清国人が発病したのを契機に、11月から蔓延し、患者数は神戸市で患者4420、死者は1976、県全体で2331に及び、多いときには1日に100人の患者が発生したため、東山病院では病室を急造したほどであった。神戸市では貧民部落に22万人の強制種痘を実施した。この急激な伝染について「患者の多くが中流以下の家庭に出て其看護不行届なるも亦其原因なるべし」(『神戸又新日報』)といわれている。痘瘡患者はジフテリアとともに多く乳幼児であり、乳幼児の死亡率を著しく高めた。
5.国内初のペスト、神戸に上陸

欧州でのペスト流行を描いた絵
 明治32年から一時の終息を経て33年6月まで、日本初上陸の一番強烈な「肺ペスト」、かかった者は40℃の高熱で1〜2日で衰弱して顔が土色になってたちまちに死亡するという病魔禍となり、市は「ペスト非常事態宣言」を全市に行い、厳重な検疫や古綿など関連商品の輸出入禁止で経済的な影響は大きく、商売は不振を極め、交通制限、隔離による収入途絶から生活苦など、まさに「ペスト不景気」をもたらした。 
 ことの始めは、明治32年(1899)、前年あたりからのペスト流行地のコロンボやシンガポール、香港を寄港して、10月7日神戸に入港した大阪商船「鹿児島丸」から搬入された荷粉からか、運搬作業の業者2名、うち1名は10月19日発病26日死亡、もう1人も10月30日発病11月4日に亡くなった。
 元々この年の5月にアメリカ船「ペルー号」の入港の際に、船内でペスト患者1名発見されました。この時は水際検疫対策で上陸を阻止したが、媒体となっているネズミがいかなる経路からか上陸侵入したと推測され、11月になって葺合区浜辺痛の材木商の勤め人の少年が死亡。その近隣でもう1名が被患死亡して、その2日後に琴緒町の主婦が急死、さらに長男、次男、夫も次々と亡くなった。かなり後になってペストの疑いから細菌検査を実施、全て「真性のペスト」と判明。神戸だけでなく大阪や京都、航路の繋がる東京や横浜など大騒ぎとなった。
 その後、近隣や中心市街地で11月中に22名発病。県は11月17日に「ペスト予防告示」を発布、神戸港和田岬の「海港検疫所」を強化して臨検を実施。市内を大渋滞に巻き込んだ発生地区での61日間の交通遮断、市民の健康診断などのかたわら、古綿などペスト関連商品の輸出入・運搬・販売を中止させた。
 ペスト菌を媒介するネズミの横行に苦慮し、ネズミの駆除買い上げ、噛まれないための「裸足禁止令」が出され、古足袋の収集配布や着用の義務化なども行なわれた。
 ペスト対策の重点「除鼠」、鼠の買上げは、32年11月に神戸市ではじめられ、流行とともに各地でも実施されたが、大体1匹2銭から5銭で、洲本町では20銭で買ったこともあり、当時白米1升10銭余りで、鼠1匹とれば1人1日の米代が稼げるくらいであった。
6.その後(明治)のペスト流行

欧州での大流行期にペスト患者を診療する医者(独特の仮面、フェイスマスク)
 その後、散発が続いていたが、38年(1905)東京方面が発端で西日本に広がり、大阪・神戸の両市はその後7年間はついに終息をみるにいたらなかった。その感染系統は、37年10月にラングーンを発してシンガポール経由、横浜に入港したイギリス汽船「シールダ号」で、同月下旬神戸および下関で棉花・米穀などの陸揚げをするうちにこの貨物を収蔵した倉庫からペスト菌が続々発見され、これから蔓延したと思われる。
 12月神戸市東出町の理髪業者が発病したあと、一時おさまったかにみえたが、明治38年夏に鐘紡兵庫工場の多数の女工さんたちが発症、11月29日頃までに患者数約40名を数え、12月には市内の鉄道以南の海岸一帯の低地はほとんどペスト菌の汚染するところとなった。かくて神戸市は大阪につぐ大流行を示し、再び神戸市をペスト禍に巻き込まれ、次いで阪神間、県内郡部へと広まった。そして39年4月もペスト禍に見舞われ、感染症対策、治療の中心であった市立東山病院の笹山厚医員が3月30日肺ペストに感染、4月3日医者としての最初の殉職者となられました。
 政府は38年12月臨時防疫職員を置き、これを受けて県でも12月4日に防疫評議員を含めて、知事が会長に就任した。神戸で開かれた第1回会合には伝染病研究所長北里柴三郎が出席され、ペスト対策を指導した。また41年8月にはコレラ菌の発見者コッホが来神して講演、猫の飼育を勧めている。
 しかも41年に大阪府下の病勢が衰えるころ、兵庫県は非常の流行を極め、阪神間・郡部を中心に、県下で200人が死亡し、翌42年は一層激しく218人の死者が出た。
 32年(1899)から43年(1910)にいたるペス卜は、大阪・神戸および横浜・東京などを中心に3府19県に及び、患者数2,524人、死者2,076人に達している。県下では、総患者758人、死亡者598人を数え、全国の患者数の30%、死者の28.7%を占め、多くは創傷性伝染の腺ペストであった。
7.スペイン風邪

スペイン風邪が流行った時の感染防止啓蒙ポスター
 大正7年5月にスペインのマドリッドに発生して全世界に広がったインフルエンザは、同年10月に日本へも侵入した。インフルエンザ(流行性感冒)は法定伝染病ではないが、伝染性が強く、一度侵入すると急速に全国に蔓延し、同年10月末には県下にも流行した。ことに神戸市では10月末には1日約8,000人の新患者が出た、と新聞は報道している。そして11月3日には市内の全小・中学校が休校のやむなきにいたった。死者も1日百数10人に達し、夢野・春日野の火葬場では、処理しきれない死体が7日には500、10日には540もあるといった状態で、ついには原始的な野焼きさえ行なわれたが、11月半ば頃からようやく終息へ向かった。
 翌8年にも年末から9年1月にかけて再び猛威を振ったが、県や市の衛生課は協力して臨時救療班を編成し、早い応急処置もとられた。とくに予防注射に力を入れ、予防心得を配布したり、知事訓令でマスクの使用を呼びかけた。このため第2波の発生では阪神間、とくに尼崎地区に多くの患者を出したが、持続期間も非常に短く終息も早かった。
 このスペイン風邪は2回にわたり、わが国人口の3分の1を侵し、死者は39万にも達したといわれ、県下でも約79万人の患者と、9,600人近い死者を出している。神戸市では、患者256,932人、死者7,537人だった。
8.チフス饅頭事件
 昭和14年(1939)5月、神戸市立の小学校の女性教師が、自宅に届いた「かるかん饅頭」を持参し同僚教師たちに配ったところ、9名がチフスを発症した。そして、その女性教師と、教師の兄弟2名とも発病、うち弟が5月15日死亡。食べた計12名が感染した。
 女性教師の兄は、垂水区の病院の副院長で、件のかるかん饅頭は元患者の名で医師宅へ送られもの。警察は、困難なチフス菌の入手経路から捜査、元細菌研究所にも出入りしたこともある別内科医院の女性医師が浮かび上がってきた。女性医師は、兄医師が在学中に市内の大病院で先輩医師として出会って恋仲(未入籍)となり学資も支援したりしていたが、兄医師やその家族からつれない仕打ちを受けていた。警察は6月5日女性医師を逮捕。供述から、かるかん饅頭は4月25日に元町の百貨店で1箱購入、注射器で培養しておいたチフス菌を注入して送ったとのこと。
 ただ裁判では、新聞報道をみた女性たちから同情され、減刑嘆願も出たり、兄医師の不誠実さ、資金援助など事情を斟酌されて情状酌量され、求刑よりも比較的軽い罪で済んだそうです。
 後々、この事件はテレビのサスペンスドラマでのモデルとなった。
9.新型インフルエンザ

新型インフルエンザウィルス
 メキシコに端を発した豚インフルエンザのヒトからヒトへの感染の広がりを受け、 WHOは平成21年(2009年)4月28日、新型インフルエンザの警戒レベルをフェーズ 4に引き上げ、さらに同30日にはフェーズ5に引き上げた。
 兵庫県では4月28日、フェーズ4への引き上げに伴い、「新型インフルエンザ対策本部」を設置して対策を進めていたところ、5月16日に神戸市在住の男子高校生の感染が確認された。直ちに、翌17日に開催予定であった「神戸まつり」のメインフェスティバルは中止された。それ以降、県内での患者は増加し、県対策本部では、患者の治療のほか、濃厚接触者への対応、学校等の臨時休業、イベントの中止・延期をはじめとする社会 活動の制限などの感染防止対策や、風評被害対策などに全力で取り組んできた。発症者は、5月17日をピークに減少傾向に転じ、患者の症状も軽く、5月24日以降には入院患者がゼロとなり、一般感染者も5月27日以降には発生していなかったことなどから、6月3日には、「ひょうご安心宣言」を発出した。
○ 感染者の地域的な偏在
 兵庫県内における確定患者数は、7月23日まで、すなわち全数把握を行っていた時点までで371人であり、地域別では、神戸市が195人(約53%)と最も多く、県内人口の約6割を占める神戸・阪神間地域で310人(約84%)となっている。一方、 丹波地域と淡路地域では感染が確認されていないなど、患者発生に地域的な偏在が見られる。 この時点での感染分布は、患者の住所地や所属する集団を起点に、近隣市町に同心円的な広がりが見られないことから、社会活動の制限措置の効果により、地域的な感染拡大を抑制できたものと推測される。 しかし、全国的に患者数が増加するなか、県内でも感染の拡大が見られ、8月21日現在、県内全ての保健医療圏域で新型インフルエンザ患者が確認されている。

流行時にはマスクが店頭から消えた
○ 発生状況の推移
 5月16日に最初の発生を確認してから、当初は高校生を中心に感染が拡大したが、 3日間でピークを迎えて以降減少し、6月3日には、感染経路が不明な一般の感染 者が1週間発生しなかったことなどから、「新型インフルエンザひょうご安心宣言」が発出された(6月3日までの患者全体に占める高校生の割合は70%)。
 ひょうご安心宣言の発出以降、6月上旬から中旬にかけては、海外からの帰国者及びその家族等が散発的に発生するのみで、全体的には沈静化していたが、全国的に再び感染拡大傾向に転じた6月下旬頃から、小学校や中学校などでも集団感染が見られる状況となった(7月23日現在の患者全体に占める高校生の割合は43%。小・中学校・大学、専門学校の生徒・学生をあわせると68%)。しかしながら、7月に入ってからの全国的な感染拡大状況と比較して、兵庫県では大きく感染が拡大しているとは言えず、7月3日には大阪府、その後も神奈川県、愛知県の感染者数が兵庫県を上回り、7月23日時点での兵庫県の感染が確認された患者数は、全国で4番目となった。
 国は、感染拡大傾向にあることを踏まえ、7月24日以降、患者を全数把握する検査体制から、集団発生の早期発見や重症化防止に重点を置いた検査体制に移行し たため、都道府県別の正確な患者数は把握できなくなった。しかし、学校が夏休みの時期に入ってもクラスター(集団発生)の出現は続いて おり、また、インフルエンザ様症状を呈する患者数を把握しているインフルエンザ サーベイランスでは、8 月10〜16日の全国定点からの1週間あたりの平均報告数が 1.69人と流行期レベル(1.00人)を超え、本格的な流行が懸念されている(大流行した2005年には、1月中旬に50.07人を記録している。)。 また、これまでほとんどの患者は軽症で急速に症状が回復しており、入院患者はごく少数であったが、新型インフルエンザ患者の死亡例が8月15日に国内で初めて 確認されたのに続き、8月18日には兵庫県内でも死亡例が確認されている。
(※この項、兵庫県の対策検証報告書より)
参考図書
『兵庫県百年史』兵庫県
『塵壺』河井継之助
『神戸新聞による世相60年』西松五郎(のじぎく文庫)
『故郷燃える(4)明治編』神戸新聞社(のじぎく文庫)
『兵庫県新型インフルエンザ対策検証報告書』兵庫県新型インフルエンザ対策検証委員会

※新型コロナウィルス感染症が大流行しています。感染症と闘ってお亡くなりになられた方々のご冥福と、闘病中のみなさまの早期快癒を祈ります。また、治療、防疫、介助に尽力されているみなさまに感謝いたします。この人類の敵との戦いや社会生活の維持をサポートされている方々にエールを送ります。みなさまも、一日も早く平穏な日々が戻りますよう、いましばらくの辛抱と敵と戦う兵士たち英雄たちを応援しましょう。
(2020年5月)

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