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執筆活動
阪神淡路大震災を飲み込んだ地下鉄サリン事件に遭遇
(・・・『阪神淡路大震災から20年 私のたたかい』) |
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阪神淡路大震災を飲み込んだ地下鉄サリン事件に遭遇
(・・・『阪神淡路大震災から20年 私のたたかい』) |
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震災後2ヵ月、発災直後の緊急復旧対応が一段落した年度末に、全国都道府県から自治省(現総務省)に集まって連絡会が開かれることになっていた。震災発生時はもとよりその後もずっと、全国からの義援活動やボランティア活動、復旧事務に職員の応援派遣も受けたりしていることへ、その場を借りてお礼言上のため、部下のS君を伴い上京した。
3月20日、日曜日と春分の日との休日に挟まれた中日と言っても、私たち被災地の人々にとって休日返上の震災復旧対策の毎日で、夜は日が変わるまでの深夜勤務、または交代で職場に泊り込みの最中で、前日夜から行って都内に泊まって会議参加の準備をする余裕など全く無かったのだ。
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上り新幹線は新神戸駅から直ぐトンネルに入り、西宮周辺の市街地へ抜け出す。そこから尼崎、大阪にかけて車窓からみる風景は、震災被害はあったものの神戸市街のような激甚な後を残すものはほとんど見受けられず、新大阪駅周辺や万博公園辺りではいつもと全く変った気配はない。普段どおりの京都、米原、名古屋と進むうちに、「なぜ、神戸、阪神、淡路だけなのだ」という怨念が振り払っても振り払っても心に去来する。 |
東京駅は正に日常通り。震災の記憶すらも無かったかのように大勢の人々が通り過ぎていく中を、八重洲口の地下連絡道を地下鉄丸の内線の乗り場へと急いだ。昼真っ只中の12時半頃。
ところが、連絡通路を歩むにつれ、いつもと違う雰囲気、人通りが全くない。私達2人だけのようだ。地下鉄丸の内線の改札、切符を買うが他に乗客は誰もいない。異次元の世界のようだ。あまりの不気味さに、駅員に何かあったのか聞きに行ってもらったS君が、血相を変えて1枚の新聞号外を振りかざしながら駈け戻ってきた。
早朝から地下鉄で大事件が起き、混乱が続いていて、たった今何とか運行を再開したところとか。目指す自治省のある霞ヶ関駅は通過して停車しないとのこと。
号外によると、その大事件とはこうだ。
『今朝午前8時すぎ、東京、営団地下鉄日比谷線の複数の上り電車内、ホームで激しい刺激臭があり、100人以上救急車で病院へ、うち10人が意識不明!!!』
(事件は、日比谷線のほか、丸ノ内線や千代田線でも発生)
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とりあえず、運行開始直後の地下鉄(1車両に数人しか乗っていない)に乗って国会議事堂駅から霞ヶ関駅の官庁街へ戻り歩く。霞ヶ関の自治省前では、救急車や大勢の車、重装備の自衛隊員や警察、消防、マスコミ取材などの関係者が集まってきて、辺り全体が蒼然としている。地下鉄の出入口前ではオレンジ色などの宇宙服を着たような部隊が装着作業に続いて次々と地下鉄へ突入している。日頃からテレビで見る著名なレポーターI氏が自治省入口前に陣取って、テレビカメラに向かって緊急レポを叫んでいる。一体、何という景色、いや、戦場なんだ。彼の横をすり抜けて入った自治省内では、
「会議開始は1時間延期します。それまでに、とにかく地元の職場や自宅へ電話して下さい。地元では大変心配されています(その頃携帯電話は未だ普及していなかった)」
とロビーで担当者がマイクで叫び続けている。休憩室のテレビは黒山の人だかり。報道を暫く見入って、原因はとにかく、朝の地下鉄でとんでもない大惨事が起き、死者も出て病院に大挙搬送されたとのこと。
とりあえず始まった会議では、遽しい雰囲気の中ながら、全国の代表の方々に被災地支援への御礼を述べ、当時発災直後の被災地の緊急対策など説明する機会をいただいた。会議終了後、一刻も早く帰るべしと気が急ぎ東京駅を目指すが、来た時と違って地下鉄に乗る気がしない。小走りに駆け付けた東京駅から帰路についた。
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千葉方面に住む親戚から、「前夜から自宅へ来て泊まって翌朝一緒に出勤(霞ヶ関方面)しよう」とのありがたいお誘いもあったが、連日の深夜までの復旧対策勤務でその余裕もなくてその機会は持てず、もしもそうしていたら正に翌日出勤する地下鉄・時間帯で事件は起きていたのである。いつもどおり出勤した親戚は、事件勃発5分前に現場を通過(1本か2本前の地下鉄か)して無事であった。(ちなみに親戚の彼は、昭和49年の三菱重工爆破事件でも昼食から会社に戻る途中に現場を5分前に通り過ぎた幸運の持ち主)
その日から目にするテレビや新聞・雑誌の報道はこの大惨事がほとんどを占めることになった。この地下鉄サリン事件が、まさかの阪神淡路大震災を飲み込んでしまうとは、この時は想像できなかった。大震災発生の2ヶ月後という時期、ライフライン・交通など復旧工事の進捗、避難所運営から仮設住宅建設、瓦礫をはじめ、被災住民の生活再建への問題が山積みの状態で、地元でも報道では震災関係がまだかなりを占め続けていたが、その後のオウム拠点でのサリン事件の一斉捜索などが続いた長い期間にわたって、被災地以外特に関東方面では、テレビ報道や新聞のどこを見ても阪神淡路大震災関係の記事は無くなってしまった。
その結果、半年後、1年後、2年後にいたっても、阪神淡路大震災の復旧復興に関する情報、被災地の現状は余り知られることなく、被災地以外の人々の意識は震災直後のままに留まっていて、忘れられてしまったのかと心配するほどであった。まして、海外では、被災地が復興していく状況の情報は皆無で当然復興などしていない、と思われていたのは大ショックだった。
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阪神淡路大震災は現代都市社会が激甚被災した最初のケースで、復旧や復興、防災に加えて、次々と噴出してくる現代社会が内包していた問題点に対して、今何をしなければいけないのか、日本国民みんなが将来を考え、国内のシステムを改めて構築する議論をしなければならない時期でもあったのだ。被災地としても震災を乗り越え、復興の方向を探る重要な意味を持っていた。その媒体となるべきマスコミが事件に占領され、阪神淡路大震災が地下鉄サリン事件に飲み込まれてしまったことは、痛恨の出来事であった。
改めて認識した。被災地から、震災の復旧復興の状況を発信し課題を出し続けることの重要性は、正にここにあることを。
(中嶋 邦弘 1995年3月、2014年12月)
※『阪神・淡路大震災から20年 私のたたかい』(2014年12月 友月書房)より
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※掲載本(共著)紹介(写真をクリックして下さい)
共著紹介『阪神・淡路大震災から20年 私のたたかい』(友月書房)
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