郷土の今昔物語(神戸地域)1東部・港湾

郷土の今昔物語(神戸地域)1東部・港湾

●神戸(1)  「メリケン波止場」(中央区・港湾)

(昭和初期)
 宏壮なる石の建築物町を並べて相察する所遙かにキモノの婦人を見て初て日本の港なり事を知るのである。寫眞はランチ繋留に専用さるるメリケン波止場より元居留地方面を望んだ神戸埠頭の偉観であって、右方の瀟洒たる建物は水上警察署港務局。2本の煙突の間に見ゆるはオリエンタルホテル。其の左は大阪商船株式會社支店である。メリケン波止場は神戸新岸壁の出来る以前旅客の昇降せし唯一の場所で、其起源の奮き事は明治初期の梯を残すメリケンの名を以ても解る。波止場に繋がれたランチは沖に碇泊する本船への連絡船である。

(現在)
 現在のメリケン波止場は、中突堤との間の海面を埋立て、神戸海洋博物館やホテルなどが建ち、阪神・淡路大震災で破壊された神戸港のメモリアルパークなども残され、市民憩いの場となっている。メリケンパーク(波止場跡)から同じ旧居留地方面を眺望。今は、海上保安本部のある国庁舎、新オリエンタルホテルや商船三井ビルなども視界を遮る高架道路橋で見えにくい。
●神戸(2)  「神戸港(埠頭)」(中央区・港湾)

(昭和初期)
 神戸港は兵庫神戸の2部より成り、兵庫部は舊湊川以西一帯を名付け、神戸部は同以東一帯を稱してゐる。兵庫は遠く天平の昔より大輪田泊として知られ、平清盛福原遷都以来漸く船舶往来多きを加へ、慶応3年12月の兵庫開港となった。然し兵庫は水深からず大船を容るることが出来ないので、東隣の神戸村に運上所、倉庫、波戸場が建設され外人居留地域も決定されて、今日築港の基礎を置いた。神戸港の大築港計画は明治29年唱導せられ、爾来兵庫港波戸場の改良、小野濱海面の埋立等に着手してゐたが、遂に明治39年より大正10年に亙る16ヶ年継続事業として總工費1500萬圓を費して第1期工事を完成したのである。埋立總面積8萬3千坪、4本の大突堤を出して一時に16隻繋船せしむる能力を有してゐる。寫眞は第1突堤上空より俯瞰せしもので右上に並ぶ3大建築物は、右より三菱、住友、川西の倉庫である。東海鐵道灘驛より分岐した築港線は4本の突堤上に導かれ水陸聯絡を頗る圓滑ならしめてゐる。ハンブルグ、ニューヨークに比しても遜色なき完備せる大築港である。

(現在)
 現在の神戸港は、面積9,409ha、臨港地区1,885ha。埠頭・岸壁は、兵庫突堤、高浜岸壁、中突堤、新港(第1、第2、第3、第4、東埠頭)、摩耶埠頭、ポートアイランド、六甲アイランド、神戸空港島とラインアップ。2009年(平成21)の入港実績は、外航7,525隻、内航28,957隻で、計36,264隻。取扱貨物量として、外貨の輸出1,933万トン輸入2,386万トン、内貨では移出1,380万トン移入2,004万トン。利用客数では、外航船25.739人(客船とフェリー)、内航船の客船101万2000人、フェリー57万8000人。
 2003年(平成15)に神戸港一帯を「国際みなと経済特区」に認定され、2004年(平成16)には大阪港と連携したコンテナ物流面での国際競争力強化を図る「スーパー中枢港湾」に指定されている。
●神戸(3)  「歐洲へ」(中央区・港湾)

(昭和初期)
 特に神戸埠頭を離れ、一路欧洲へ向ふ郵船榛名丸の航空写真である。郵船會社の欧洲航路使用船は現在11隻で、そのうち榛名、箱根、筥崎(はこざき)、白山の4隻を各々の頭字をとってH級と呼び、1萬4千噸の巨船である。 欧洲航路は横濱港を起點とし神戸港を経て倫敦(ロンドン)まで12.103哩。航行時間51日を要する。船の中央に白く見えるのが1等船室で、2等船室は後部に見える。煙突と前檣(ぜんしょう)の間に飜る數流の旗は船名を表わした萬國信號である。

(現在)
 神戸港の外国航路は、貨物のコンテナ船でアジア方面を包含した欧州、北米、南米、アフリカなど賑わっている。客船の欧州方面の定期航路は現在なく、主にチャーターでのクルーズ客船が神戸ポートラーミナルに、国内定期客船が中突堤旅客ターミナルに寄港している。最近(2014年)では、世界一周(欧州方面へ)やアジア方面へのクルーズ船など年間約100隻(国内船では、ぱしふぃっくびいなす、にっぽん丸、飛鳥Uなど)が神戸港に姿を見せている。
●神戸(4)  「臺灣航路」(中央区・港湾)
(昭和初期)
 神戸築港第4突堤に大阪商船扶桑丸を始め、1萬噸の巨船2隻を繋留した寫眞である。 神戸港は外國航路ばかりではなく内國航路にも東洋航路にも重要な良港で、大阪商船の臺灣航路客船は1萬噸級の蓬莱、扶桑、瑞穂の3隻で神戸基隆(キールン)間を2週3回往復してゐる。 正面の山は港の北還を成せる六甲山脈で、摸糊たる白亜の市街が山に凭り上方に發達してゆく状態が見られる。
(現在)
 明治40年頃着工した神戸港の第1期修築工事は大正11年(1922年)に完成し、4つの埠頭が整備されました。当時は、東から第1〜第4突堤と呼ばれていましたが、第2期修築工事の関係で、昭和5年から西から第1〜第4突堤となりました。上の写真の第4突堤とは、現在のメリケン波止場向いの第1突堤のことです。現在、神戸港を出る外国航路(フェリー定期航路)に台湾航路は無い。
●神戸(5)  「神戸港」(中央区・港湾)

(昭和初期)
 神戸港は海水面積9平方粁餘を有し、最深部12.7米、水深11米乃至12米を有する部分132,200平方米あり、最新式の大築港船壁を有し、港外大阪灣の波浪に對しては、堅固なる防波堤總延長1.97粁を設へて名實共に完備せる東洋一の開港場である。
 寫眞は第4突堤より舊湊川河口の出洲に廣大なる面積を占めて活動せる川崎造船所を遠望せるもので、先端の高き鐵櫓は造船臺上に架せられたガントリークレーンである。沖合の浮標に繋留せる船舶との聯絡を取る大小のランチは右往左往して頗る活況を呈してゐる。

(現在)
 旧第4突堤は現在の第1突堤である。西向いの旧湊川河口、現在のハーバーランド西隣に立地する川崎造船所は、昭和初期の世界恐慌の影響で新造船受注が激減したが、第2次世界大戦への世界情勢変化の中で活気を取り戻す。1902年(明治35)建造の第1ドックは、1988年(昭和63)に登録有形文化財に指定を受けたが、2013年(平成25)に111年の歴史を閉じた。ガントリークレーンは長さ230m、高さ50mで街中のどこからでも見えたが、1962年(昭和37)に撤去されて今は無い。
 現在、第1突堤内では、増加する外国人観光客等を迎え入れるホテル建設も進められている。
●神戸(6) 「第三突堤」(中央区・港湾) 

(昭和初期)
 神戸元生田川尻の小野濱を埋立て作られた神戸築港は其の規模頗る大きく、4本の突堤を出して各々水深9乃至11米を有し1萬噸級の汽船を両側岸壁に4隻楽々と繋船せしむることが出来る。突堤上には大なる上屋4棟を並べ東海道線灘驛分岐の専用の鐵道線が各突堤に通じ且つ岸壁には電力に依る揚力1.5噸の起重機14基を備へ、レールによって移動せしむる事が出来る。寫眞は第3突堤東側岸壁に於ける繋船状態を示したもので、右手の建物は上屋で、中央アーチ形のものは可動電力起重機である。此の突堤は専ら外国貿易客船に用いらるるものである。

(現在)
 第3突堤、現在の第2突堤は現在でも多くの倉庫が並ぶ。神戸港の新港及び摩耶埠頭には、国鉄の専用引込線「神戸港臨港線」(東海道貨物支線)が灘駅分岐で敷設されていたが、1980年代の鉄道貨物輸送の減少に伴い、摩耶埠頭線1986年(昭和61)に引き続き、2003年(平成15)に全線廃止となった。
 隣の新港第3突堤(旧第2突堤)には、現在、新港フェリーターミナルがあり、外国クルーズ船や日中定期国際貨物フェリーに利用されている。
●神戸(7)  「神戸港の貨物」(中央区・港湾)
(昭和初期)
 神戸港は特に輸入が盛んで、其主なるものは綿・毛織物・羊毛・米・羅紗セルヂス・硫酸アンモニア・ゴム・鐵板・豆粕等である。その第1位を占むる繰綿は英領印度、北米合衆國、支那等より来るもので、築港邊に至れば何時も其の積荷を見ることが出来る。次に多いものは羊毛、毛織物で濠洲、英吉利等より輸入する。輸出の主なるものは生糸、金巾及シーチング、富士絹、綾木綿、羽二重である。生糸は元来横濱港より輸出したが大正12年の震災後は神戸港よりの輸出も増加し、現在は8對2の有様である。綿織物は其種類多く、近来著しく盛となり、支那、印度、南洋方面に輸出せらるる。圖は築港埠頭に於ける貨物積込の状況である。
(現在)
 大正・昭和初期と戦前の日本の主要輸入品であった繰綿・綿花の指定陸揚場として、年間20〜30万トン、トラクター荷役で1日に印綿200万俵を数えたが、神戸港から主流は暫時大阪港に移り、戦争中に激減期を経た。終戦直後の急増もあったが、現在では輸入総額に占める繰綿・綿花の構成比はほとんど無い。今の輸入品目としては、石油、LNG、機会・器具、その同製品が占めている。
●神戸(8)  「解纜」(中央区・港湾)

(昭和初期)
 歐洲航路の巨船10,420噸の日本郵船會社の箱根丸がいま神戸築港第1突堤を離れんとする光景で、突堤の上下に集まってゐるのは船客見送りの人々である。抑々郵船の歐洲航路は横濱港を起點としてはゐるが船客は便宜上多く神戸港から乗船するので船出の日には京都と突堤引込線間に直通列車を運轉し見送人が離閙する。送る人、送らるる人の間には5色の紙テープが蜘蛛の巣のやうに引かれる。群衆の間に白く見える線は、寂しく残ったそのテープである。

(現在)
 旧第1突堤、現在の第4突堤は、10万トン超級の客船への対応が可能な「神戸ポートターミナル」を1970年に竣工。外航客船・国際フェリー用埠頭に、CIQ(税関、出入国管理、検疫)を備えた国際埠頭である。
 外国定期航路としては、神戸〜上海の中国航路、神戸〜釜山の韓国航路の2便が就航しているほか、不定期に大型クルーズ客船などの外国客船の寄港が増えてきた。
●神戸(9)  「神戸港税関」(中央区・港湾)

(昭和初期)
 日本の門戸神戸港に呑吐する莫大なる貨物及び多数の旅客を取扱ふ神戸港税関附近の寫眞である。京橋に立ちて第4突堤入口より川西倉庫方面を見た所で、税関荷物検査所は図の左方にあって此處に顕はれて居ない。明治39年より大正10年に至る16ヶ年継続事業として、總工費1500萬圓の巨費を投じた素晴らしき工事であって、東洋一の築港、日本の玄関として決して恥ぢないものである。異郷に足を下したマドロス達の軽快なステップ、汽船が着いたか、迎ひに出る親子の喜び。直線と平面との重々しきコンクリートの倉庫。凡ては新しき神戸の表である。

(現在)
 上の写真が撮影された時は、3年前の大正12年1月に初代本庁舎を焼失し、同年3月に着工した2代目本庁舎が建設中(昭和2年、1927年3月竣工)であったと思われる(写真から外れているのはその為?)。2代目は花崗岩、煉瓦張り、地上4階建。現在の3代目本庁舎は、2代目の外観等を保存・継承し、輸出入貨物・海外旅行者の携帯品の通関、関税の徴収、監視・密輸の取り締まり、貿易の円滑化などに取り組む。上の写真と同地点からの風景も、川西倉庫との間に、多くの住友倉庫や事務所などが林立して眺望することはできない。
●神戸(10)  「神戸市東部」(灘区)

(昭和初期)
 圖の中央は關西學院である。この學院は六甲の東麓の臺地に今新校舎新築中であるから、遠からずこの景観は變化するであらうが、この寫眞はそれより以来の神戸の東部の住宅區を一目におさめてゐる點がよい。もと郊外であったが次第に人家が増し、今は市に編入された。未だ疎らな時に文化前の単純がある。左に六甲の山麓線、その断層崖下から右へ海に向って渓谷扇状地が後傾斜地を作り、理想的の住宅地を提供してゐる。
 この圖は西から東を見たのである。道路の東西の線がよくわかり、その中に8字形に走ってゐる道路は電車であって、この電車が今日の住宅の發展に非常な貢献をした。左が山で右が海で谷も風穏で北風を遮り咲く住宅としてはよい所である。

(現在)
 神戸市東部は住宅街に発展整備され、灘区の原田の森にあった関西学院は、当時校舎等建設中であった六甲東麓の台地(西宮市上ヶ原)に1929年(昭和4)移転した。跡地には、1904年(明治37)開学初代のチャペルが残され、平成初期には王子市民ギャラリーとして、現在は「神戸市文学館」として保存活用されている。
●神戸(13)  「神戸港和田岬」(中央区・港湾)

(昭和初期)
 神戸港の西壁を作る和田岬は明石海峡より来る潮流と西の強風とに依って砂洲を突出するに至った。其の先端の大部分は三菱神戸造船所の占むる所となり、一部を検疫所の敷地に當てられてゐる。造船所海岸には3基の浮船渠を有してゐるが、其の内の1基を右方に明かに瞰下(かんか)することが出来る。1萬7千噸用であって長さ410呎(フィート)幅128呎である。岬の先端に見ゆる圖筒形の石造物は和田岬。臺場の舊砲臺望櫓で記念すべき遺物である。其のすぐ左手に燈臺を見ることが出来よう。手前の海岸に並行した建物が即ち検疫所である。撮影高度は150米である。

(現在)
 和田岬に立地している三菱神戸造船所は、1934年(昭和9)に三菱重工業となり、三菱電機などを分離。最近の造船業再編の中で、2010年(平成22)に貨物船を2012年(平成24)に商船建造から撤退し、潜水艦建造に特化している。三菱重工業神戸造船所の構内に保存されている和田岬砲台は、2009年〜2014年(平成26)平成の大修理を終えたところ。近隣の厚生省の神戸検疫所は、1963年(昭和38)に和田岬から西隣の遠矢浜町へ移転し、輸入食品の検疫検査を中心に活動している。
●神戸(14)  「東神倉庫桟橋」(中央区・港湾)
(昭和初期)
 東神倉庫専用棧橋は延長181米餘、幅員36米餘、水深10米を有する一大鐵筋コンクリート繋船棧橋であり、両側に合計18個の繋船曲柱と頭部に大小2ヶ所の繋船柱とを備へる。棧橋は神港倉庫に東隣し、神戸港内棉花の指定陸揚場である。ここにて陸揚荷捌をさるるものは1ヶ年約20萬噸乃至30萬噸に達する棉花を始めとする諸種の大量貨物である。從って毎年3、4月頃の棉花出廻期に於ける荷役の繁忙は、實に世界的の盛況を呈する。陸揚の状況は、高速度陸揚に至便なる棧橋の両側に、1萬噸級大貨物船2艘を繋留し、ここより陸揚されし貨物を數10台のトラクターで擔ひ上屋に収容する。荷役能率は1日優に印棉200萬俵を超える。
(現在)
 東神倉庫は、1909年(明治42)に三井銀行から分離、1917年(大正6)に桟橋の埋立て工事を実施。同年に神戸桟橋の海上業務を買収して、ここを専用桟橋として運営活用してきた。
 その後、1942年(昭和17)に三井倉庫と改称して、現在は「三井桟橋」である。
●神戸(15)  「御影町より六甲山脈を望む」(東灘区)
(昭和初期)
 淡路島の北半部より海を渡りて大阪灣の北遍に連る花崗岩塊は其の東端に於て六甲山脈となり、其の急斜面を大阪灣岸に向けてゐる。 六甲山脈は南北両面に断層崖を有するホルストであって、長さ50qに及び、高度は932mである。寫眞は御影町より六甲山を望んだもので、 山側に多くの崖が並んでゐるのは元連続せる断層崖の浸創せられて出来たものである。六甲山脈の南側には断層崖が2、3段の階段をなせるものの如く、 中腹の並列せる上陵の頂上を連ぬれば略其の舊形を窺ふことが出来る。寫眞手前に在る小煙突の立てる長き建物は皆灘の酒造蔵である。
(現在)
 江戸〜明治中期の伐採により、全山花崗岩が露出してほとんどが禿山と化し、災害を誘発していた六甲山。明治33年の布引ダム建設に併せ、植林を発展させ、現在の緑豊かな六甲山を具現し、昭和31年には瀬戸内海国立公園にも指定されている。禿山にも係らず、港を抱える市街の背後に並ぶ六甲連山の魅力に注目した明治中期の英国人グルームをはじめ、今では市民の愛する山となっている。御影や住吉の密集した街中より仰ぎ見る六甲山の緑の山並みも、高層マンションや山裾に這い上がる住宅などに遮られる部分も多い。
●神戸(16)  「灘の酒」(東灘区)
(昭和初期)
 灘酒の芳醇は古来飲酒家の禮讃惜かざる所で、日本酒の王座を占めてゐる。其産地は御影、魚崎、西灘、西宮、今津の所謂灘五郷で、 北は海抜1000mの六甲連嶺を負ひ、南は冬暖き大阪灣に臨み、交通機関完備して原料製品の運搬至便である上に、西宮の水、摂播の米、吉野の杉の香、 丹波杜氏の技量等が相合して此灘酒を産み出したものであらう。兵庫縣下清酒の産額約73萬石(内、灘は50万石)で、全国の6分の1を占めてゐる。我国の理想的健康住宅と名醸地とが一致してゐるのも奇しき因縁である。代表灘酒は菊正宗、黒松白鹿、櫻正宗、白鶴、日本盛、白雪、富久娘、忠勇、澤之鶴等である。
(現在)
 全国市場を有し、経営規模も大きい灘五郷は、現在も全国の約3割を占める。阪神・淡路大震災による多大な被害から、近代的な工場街へと復興を遂げた。しかし、昨今の国民の酒文化の変化(日本酒離れ)や流通形態の激変などにより、灘五郷のみならず全国的に、企業数、従業員数、出荷数量とも縮小されてきているが、酒本来の文化・伝統の継承と消費者へのPR、記念館や資料館などの充実など観光スポットとして需要拡大努力に取り組む。現在も、日本一の酒どころであることは変っていない。
●神戸(17)  「銅罐」(東灘区)

(昭和初期)
 酒の醸造も現代的になって、木の香のゆかしき樽、幾代も幾代も使ひこまれて、澁光りのする樽の代りに此頃の灘の酒倉では、テカテカ光る銅製の桶が用ゐられてゐる。永く使用に堪へるのと、木の桶では中味の酒が自然蒸發して減るのだが、銅罐ではそれがないので、盛んに用ゐられてゐる。

(現在)
 「灘五郷」は、酒米や宮水、丹波杜氏、気候風土、船運に恵まれ、江戸時代より専業的経営で大規模な産地を形成、清酒の生産出荷量で全国の約3割を占め、製造工程や設備面においても近代化を進めてきた。
 2012年(平成24)の灘五郷には28社、年間17万キロリットル、生産金額で843億円を造り出している。神戸には五郷のうち、魚崎郷、御影郷、西郷がある。
【取材未了・未掲載の項目】
●神戸(11)  「六甲山ゴルフリンク」(灘区)
●神戸(12)  「裏六甲ドライブウェー」(灘区)
(参考資料:昭和4年改造社発行『日本地理体系第7巻近畿編』より)

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