郷土の今昔物語(神戸地域)・3北部・西部

郷土の今昔物語(神戸地域)・3北部・西部

●神戸(41)  「湊川公園付近」(兵庫区)
(昭和初期)
 鍋蓋・再度両山の北あたりから発する湊川は、祇園山から平野に下って、運んできた花崗岩の土砂に、この付近を侵食した洪積期層の土砂を加え、更に南に流れて次第に河床を高めて天上川となって神戸港に注いでいた。近年、湊川を西方に疎通して以来、旧湊川の河道の一部が公園となり、一部は道路になった。写真は、旧天井川上の湊川公園で、上には昔の面影を留める河畔の松が亭々と生え、下には河底を貫く神戸の市電が走っている。最近できた有馬電鉄はこの河底に沿ってトンネルを掘って地価鉄道となり、その終着の神戸駅も、このように河底の地下駅として作られた。
(現在)
 戦後、湊川公園には一時は引揚者住宅、遊園地、映画館(芝居小屋)、などが建っていて、広場では、臨時のサーカス小屋、大相撲巡業、メーデーや「みなと祭り(今の神戸まつり)」の会場になっていた。
 この湊川公園、新開地のシンボルとして大正13年3月に建てられた神戸タワー(高さ90メートル)は、昭和43年に老朽化して取り壊された。
 有馬電鉄の神戸駅はその後神戸電鉄湊川駅となり、タワーと同じく、昭和43年の神戸高速鉄道の開通により、新開地まで延伸され、阪急、阪神、山陽電鉄と接続されることになった。現在は、市電も廃止。
●神戸(42)  「新開地」(兵庫区)
(昭和初期)
 神戸湊川新開地は神戸市唯一の娯楽地であって、廣闊なるアスファルト道路を挟んで両側に活動寫眞、芝居小屋櫛比して數多の市民を呑吐してゐる。抑々此の附近は舊湊川の河道であって、當時河床には平素水少なく、一旦降雨あれば濁流俄に到って年々河床を高め、一大長堤は兵神両部を区劃して交通の不便を来し、吐出する土砂は神戸港をちん埋して、其の被害頗る大きかったので、明治30年より4年間を費して河道を現在の如く西方に附替へて、上は湊川公園より下は川崎造船所に至る迄の河川堤塘敷地を得たので其の一部を歓楽郷となし今日の如き殷盛を見るに至ったものである。
(現在)
 旧湊川河川敷を造成して、映画館や飲食店が並んで、正月三が日には1日10万人の人出で賑わう神戸一の繁華街になっていた。戦後は、進駐軍の接収、福原遊廓の廃止、市役所の三宮移転などあって、急速に市中心地の地位を三宮に明け渡した。
 神戸タワー、遊園地、クア・リゾートの先駆けであった湊川温泉、多くの映画館や演劇館などが集積する繁華街であった。 昭和43年、神戸高速鉄道の開通で、阪神・阪急・山陽・神戸の4電鉄の集約結節地になったが、駅周辺街への波及効果は薄く、近隣の川崎重工業の工場の縮小もあって、新開地に往年の繁栄は消えていった。
 阪神淡路大震災で被災したが、近年、新しい市民文化の再建の旗頭として神戸アートビレッジセンターなど復興して、下町グルメやレトロな雰囲気が楽しめる街の様相を見せ始めている。
●神戸(43)  「湊川と舊湊川」(兵庫区)
(昭和初期)
 湊川はもと湊山南麓より南東に流路を取って川崎の鼻に注いでゐたが、川床に土砂堆積し所謂天井川を為して水少く、一度猛雨到れば氾濫して兵庫神戸を浸水せしむるのみならず、海中に吐出する土砂は港をちん埋して其の害甚しかった。為めに河道附替の議漸く起り、遂に明治30年工を起して4年間の日子と120萬圓の巨費を投じて、會下山に600米のトンネルを穿ち西の方苅藻川に合流せしむるに至った。寫眞は新舊河道切替地鮎に於ける菊水橋より上流の天王谷川(右)と烏原谷川(左)を望んだものである。
(現在)
 この地点より荒田、東山、後の新開地方面に流れていた湊川を西方会下山に隧道を掘削、大規模な河川流路付け替えにより、旧河道を開拓して市街地とした。
 しかし、昭和13年(1938年)の阪神大水害においては、旧水路を中心に大氾濫を起こし、周辺に未曾有の被害をもたらした。この合流地点の雪御所公園には、その時の阪神大水害の慰霊塔が建てられた。また、阪神淡路大震災では隧道・河道を損壊し、隧道移転の工事を手がけたところの1998年、1999年に、この地点から洪水を起こし、周辺商店街などが大きな被害を受けた。
 昭和30年ぐらいまでは河川内で多彩な水棲昆虫なども見られるほどであったが、上流の住宅開発の進展と河道改修により、昔日の面影もない。新湊川随道は2000年に開通した。
●神戸(44)  「有馬温泉」(北区)
(昭和初期)
 神戸市の背後に聳ゆる六甲山脈の北麓にあり。海抜350米の高地であって、三面は山地に囲まれて唯北方のみが展開してゐる。故に之に續く三田盆地を隔てて丹波山塊を望む事を得。眺望も佳い。比温泉は日本最古の温泉と稱せられて来たが最近交通機関の發達と共に浴客の訪れる者も多くなった。泉は町の凡そ中央に在って六甲北麓の断層崖に相當する石英斑岩の裂罅より湧出し、温度40度餘を示す鹽類泉で多少の鐵分を含み○味強い。附近には尚鑛泉が所々に存在す。
(現在)
 療養泉(環境省指針)指定の9要素中7要素と、多くの主成分を含有する世界的にも珍しい温泉である。
 最近では、神戸電鉄に加えて道路整備でマイカー利便となり、日帰り入浴客も多く、会員制リゾートも増えて、年間150万人余の観光入込客がある。公的な外湯として「金の湯(金泉)」と「銀の湯(銀泉)」があり、テーマパーク「太閤の湯」、ほかに、温泉街には旧来の古寺のほか、有馬玩具博物館、有馬切手文化格物間、秀吉ゆかりの「太閤の湯殿館」などもオープンしている。
●神戸(45)  「鉄拐・鉢伏遠望」(須磨区)
(昭和初期)
 神戸市西郊に近い天神橋より見たるものである。所謂六甲山脈(花崗岩)の西南端海に盡きる處であるが、西南手前に向って、相當峻しい断層崖を見せて居る。左端の山が鉢伏山(246米)、中央に緩く高まった山が鐵拐山(237米)、右方に高く盛り上って居るのが高倉山(291.5米)である。鉢伏と鐵拐との間の山麓が有名な一の谷古戦場に當り、その手前に須磨の関址がある。道路は山陽道で堂々たる國道幹線である。電車は宇治川電鐵(兵庫電車)である。
(現在)
 六甲山系の西の端、山が海に迫る地。海外沿いの西国街道も、奥地の多井畑方面へ迂回するルートもあった。現在では、海辺を国道2号線、JR、 山陽電鉄が走る。 この写真の天神陸橋には、昭和43年(1968年)まで神戸市電が通っていた。
 この連山のうち、高倉山は現在はない。昭和33年から神戸西部海南の埋立てに高倉山の多井畑方面から土砂を採取、昭和39年からはベルトコンベアで本格的な土取りを開始し、跡地を住宅団地に造成。昭和48年(1973年)には高倉山団地となり、高倉山は「おらが山」周辺の一部を残して消滅した。
●神戸(46)  「鉢伏山」(須磨区)
(昭和初期)
 生田川・湊川・妙法寺川等に依って沖積された神戸市街を作る弟4期層は、西方須磨附近に於て漸く狭長となり、鐵拐山(238米)・鉢伏山(246米)直ちに海に迫って聚落の發達を止めてゐる。鉢伏山は恰も須磨町の西部を保護せる障壁の如く、西北風を完全に遮断して此の附近一帯の気候風土を頗る温和ならしめてゐる。されば往昔より名勝地として知られた須磨の浦は健康地として別荘を営む者多く次第に發展して大正9年遂に神戸市に編入さるるに至った。寫眞は須磨海岸より西方を見たもので鉢伏山麓青松海に臨む所に山陽線を通じてゐる。左方遠望するは淡路島である。
(現在)
 この附近(須磨海岸)から鉢伏山の麓にかけて、白砂青松の海水浴場(年間80万人)、須磨海浜公園(水族館など、年間110万人)、須磨の関跡、菅原道真ゆかりの網敷天満宮、須磨浦公園などが広がる。 須磨浦公園には、山上公園がロープウェイやカーレーターなどと昭和34年(1959年)に開園。そのうち、ドレミファ噴水パレスも珍しかったが、1987年には解体された。
 戦前から、須磨浦公園には環境の良さから、サナトリウム須磨浦療養院、隣接して須磨保養院が整備されていた。正岡子規も入院療養していた。場所は、現在の「みどりの塔」(元、「八紘一宇の塔」)の附近であった。 
●神戸(47)  「須磨寺遊園地」(須磨区)
(昭和初期)
 須磨寺遊園地は神戸市の西隅西須磨に在り、名刹須磨寺に隣し北方の背後には高倉山を背負ひ、池畔には櫻樹を植ゑて花時を賞すべく、晩秋の楓葉も亦棄て難い。神戸市民唯一の郊外遊園の地である。抑々此の遊園地は須磨寺の寺領を開拓したものであって、此の地に杖を曳く者は必ず須磨寺の山門を訪ふ事を忘れてはならぬ。須磨寺は即ち上野山福祥寺であって真言宗高野山蓮華三昧院末寺である。仁和2年聞鏡上人の開基する處、寺有地72,720平方米、内66,100平方米を遊園地として開放してある。一の谷にも程近く、國寶2點の外、青葉の笛等、源平の戦に関する什寶が多い。
(現在)
 上記写真のキャプションに昭和初期の「須磨寺遊園地」とあるが、多分に図鑑出版編集のミスで、この写真は、どう見ても海岸で、松林の向う(上)に八角堂(孫文ゆかりの移情閣)が見えるので、舞子海岸の写真である。
 当時の須磨寺遊園地は、大正から昭和中頃まで、須磨寺に隣接した池の周辺に料亭、茶店、動物園、花人形館、運動遊具、池の貸ボートなどが整備され、電飾で夜桜も楽しめる「桜の名所」として多くの人々を集めていた。その後、池は小さく埋め立てられ、遊園地も撤去された。 
●神戸(48)  「舞子」(垂水区)

(昭和初期)
 明石市の東方で、電車汽車の便に恵まれている。この付近一帯は松林で、北に歌敷山の丘陵を負い、南は海岸、明石海峡を隔てて淡路島と相対し、風光明媚、気候温暖である。付近に有史以前の遺物遺跡が少なくない。この地は、明和3年明石の町人小屋掛け茶屋を町奉行に願い出て、初めて旅人の休憩の便にした。明治時代になって公園となり、天下に名声を博するに至った。園内には、写真のように高さ約9メートルの青松が繁茂し、潮風に翻弄されて枝や幹が曲りくねり、その有様は、人が舞う如く、爬虫が蟠る如く、奇観驚異に値する。加えて、海浜は砂白く、淡路島との間には白帆の船が去来して、絵のような風景である。

(現在)
 戦前には枝振りの良い松が群れていたが、松喰虫などで全滅し、戦後植林されたもの。
 最近まで、国道を挟んで舞子海岸に接し、古い八角堂(移情閣)が公園近くに残り、松林の間に淡路島が眺望できた。 しかし、明石海峡大橋の開通とともに景色は大幅に移り変わった。
 園内からは、昭和35年および架橋工事中に円筒棺、人骨などの考古遺物が多数発見されている。
●神戸(52)  「舞子付近・思い直せ今一度」(垂水区)

(昭和初期)
 景勝を以って聞える須磨舞子の海岸に沿って、坦々と山陽線の鉄路が走っている。この地は四季を通じて遊覧の場所であると共に又人生の悲劇の行われる所である。京阪神と中心とした稠密な都市の付近にあるから、それらの都市の生活苦にあえぐ人や、処世上恋愛上の煩悶に悩む人が、死出の旅路をこの風光明媚な地に選び、或いは海に或いは鉄道にその貴重な生命を断つ者が1年に多数に上る。
 神戸の社会事業家、城女史がその悲哀を救わんがため、十数年前鉄道沿線或いは海岸に「一寸待て」と言う木杭を立てて、このために救われた人が少なくない。それよりこの地方の方面委員が写真にある様な「思い直せ今一度」の標木を立てて景勝の地の浄化を計っている。

(現在)
 風光明媚な舞子の松林が、自殺の名所だったとは。昔から、須磨、明石と並んで歌舞音曲、旅行記、小説の舞台にとされることの多かったことへの裏返しであったかも。
 今は舞子公園として隅々まで綺麗に整備され、鉄道も近くに設置された「JR舞子公園駅」は明石海峡大橋とともに公園を散策する人々の眼前、頭上を覆う。フェンスで隔離された線路には、年間3万人を超える自殺者もここを選んではいない。隔世の感。
●神戸(54)  「舞子より見る淡路島」(垂水区)
(昭和初期)
 阪神地方の休養地帯、舞子の濱はその磯松の間から霞む淡路の島影が望まれるため更に變化ある景色となる。圖は舞子より4粁を隔てた淡路の岩屋港方面を臨んだのである。北部淡路は南部とは著しく異って黒雲母花崗岩質の山で、小山塊に分離されってゐるが、各頂上は著しい高低を見ない。海岸にまで山が迫って急だが、海岸線はこの邊には単調で、急崖と海との間に横はる砂濱を求めて聚落がある。遠く水邊に見えるのが岩屋港人家である。
(現在)
 磯松で有名な舞子の松林から間近に見える淡路島を隔てる明石海峡は、風光明媚で、万葉の頃より歌に詠まれること多い。しかし潮流が早く、満ち潮で西(播磨灘)へ、引き潮で東(大阪湾)へ最大7ノット(13q/h)で、現在でも1日に1400隻の船舶が行き交う「海の難所」と言われている。
 平成10年(1998年)になって「夢の架橋」と待望された明石海峡大橋が完成。全長は3911m、中央支間長1991m、主塔の高さ約300mの世界最長の吊り橋である。夜間は「パールブリッジ」の愛称でライトアップが多彩で美しい。1日約3万台の車両が利用する。周辺には、橋の科学館、舞子公園、孫文記念館の移情閣、武藤山治邸(移築)がある。
●神戸(55)  「長田神社」(長田区)
(昭和初期)
 皇軍凱旋の時、海上より難波に向はるゝや務古(むこ)の水門(みなと)にて船進まずこゝに於いて天照大神の荒御魂を廣田に於いて祀られた。廣田神社是である。稚日女命(わかひめのみこと)を同じく活田長峡(いくたのながを)に、事代主神(ことしろぬしのかみ)を長田に齋(いつ)かれた。生田神社及び長田神社である。務古とは今の武庫の古名である。
(現在)
 廣田神社、生田神社と並び、由緒ある古社の一つである。節分祭・古式「追儺式神事」は、県の無形民族文化財に指定されている。古来、商売繁盛の神様として地域の中心となって繁栄して、長田神社商店街など門前街が広がっている。
 阪神淡路大震災では倒壊を免れた本殿を除いて大きな被害を受けたが、2000年に復興した。境内には鳩が多いのも珍しい。最近では、初詣に約70万人が参る。
●神戸(56)  「一の谷古戦場」(須磨区)
(昭和初期)
 兵庫縣武庫郡須磨村西須磨にある。一の谷は後に鐵拐ケ嶺を背負ひ、前方に須磨浦の白砂青松をひかへて景勝の地である。東方千鳥川、西方界川に挟まれ、長さ3.722粁に充たざる地域である。元暦元年2月、源義経、範頼、此處にて平氏の軍を襲撃したことは平家物語、源平盛衰記によって有名である。義経の奇襲を試みた鵯越は鐵拐ケ嶺の北面に當ってゐる。
(現在)
 平家物語などの名場面に登場してくる源平合戦、一の谷の戦いの地。現在、須磨浦公園内にあって、その昔、源義経が70騎余を率いてこの公園の背後の鉢伏・鉄拐山から麓の平家の陣を急襲した「義経の鵯越の逆落し」の地と伝わる。
 「源平史跡 戦の濱」碑が立つ一の谷古戦場、安徳帝内裏跡との伝承地、平家の若武者敦盛塚などゆかりの地である。海浜の松林の須磨浦公園、眼前の海岸にある「海釣り公園」に人気が集まっている。逆落しの地としては、鵯越と一の谷の解釈にいろいろな説があることは言うまでもない。
【取材未了・未掲載の項目】
●神戸(49)  「須磨一の谷」(須磨区)
●神戸(50)  「西須磨」(須磨区)
●神戸(51)  「垂水海岸」(垂水区)
●神戸(53)  「神戸マッチ工場」(兵庫区)
(参考資料:昭和4年改造社発行『日本地理体系第7巻近畿編』より)

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