郷土の今昔物語(西播磨地域)

郷土の今昔物語(西播磨地域)  

●西播磨(1)  「姫路城」(姫路市)

(昭和初期)
  姫路城(一名白鷺城)は姫路市の中央平野に位置し圓郊の各正面1,000m内外。姫山(或いは姫路山)に濠塁あり。太閤丸、二丸等の稱あり。平地を抜くこと約30m。姫路は古國府の所在地にして、山陰、山陽諸道路を扼し、要衝の位置を占む。此の城は貞和年中、赤松貞範の創築に係り、文明以後小寺氏代々此処に居れり。天正中、小寺(黒田)美濃香守宗圓、其子官兵衛孝高、織田氏に属し、羽柴秀吉を迎ふ。秀吉三重の天守閣を設け、城郭を修築して、中国経略の根拠地となす。慶長5年、池田輝政此の地に封ぜられ、90萬石を領し、五重の天守閣を起す。孫新太郎光政鳥取に移さるるや、本多、松平、榊原、酒井相継いで城主となる。明治維新後、第10師団司令部を置く。
 頼山陽の姫路懐古「五疊城楼挿晩霞、瓦紋時見刻桐花、えん州曾啓阿瞞業、淮鎮堪興匡胤家、甸服昔時随臂指、勲藩今日扼喉牙、猶思経略山陰道、北走因州路作叉」  

(現在)
 戦後、「昭和の築城」といわれた全面解体大規模修理(1964年完了)が施され、白鷺が羽を広げたような荘厳なたたずまいを取り戻した国内最大古城は、名城100選中でも随一の人気を誇り、国宝のほか世界文化遺産に登録されている。5月のお城まつりを始め、年間150万人以上が訪れてる。
 現在は、2009年から2014年にかけて、「平成の大修理」即ち壁面や屋根の修理、耐震性向上のための構造補強工事が進められている。外観が覆われて見えないが、工事期間中も大天守や工事現場が見学できる。
●西播磨(2)  「山陽皮革」(姫路市)
(昭和初期)
 山陰の但馬方面の山間牧牛と対して、ここ播磨の丘陵及び低地にも牧牛が行われる。兵庫牛、神戸牛として出されるのである。京口駅の東北に姫路屠場がある。その皮をここで鞣して製造する。その邊の河原によく皮が乾されて居るのを見る。旅行者はトランクや靴類の廉価に驚くであらう。尚姫路市では工場は一般に山陽線に沿うた東西の一線、播但線に沿うた南北の一線より市外に多い。
  斯うした家内工業を機械力で大規模に扱って居る姫路市の山陽皮革株式会社の写真である。 
(現在)
 昭和20年6月の播磨地方空襲により、本工場を含む周辺地域は焼失した。戦後、この地域の皮革産業(一次製品)は軍需体制から解放されて、小規模ながら民需型産業へと生まれ変わった。皮革業界全体としては、昭和中期に成長し、その後も近代化を進めて、現在は自由貿易や地球環境問題などの課題に取り組む。当時の山陽皮革は、現在この且R陽である。 
●西播磨(3)  「革細工」(姫路市)

(昭和初期)
 生産地は姫路市で其起源は詳でないが、文禄慶長の頃漸く盛となり姫路藩主の奨励により、武器嚢・馬具・煙草入等を製造したもので、後河合寸翁の奨励によって一層發達した。廢藩後衰退に向ったが近年漸次挽回しつつある。現今製品は文庫・硯箱・小提鞄・巻ろう入・札入等が主である。縣下總産額は18萬餘圓で販路は臺灣・朝鮮・満洲・内地一圓である。

(現在)
 播磨においては革のなめし業をはじめ、革製品加工製造の現在でも主要な地場産業である。しかも播磨の白なめし革は、当時の生活様式に沿う製品として知名度は高かった。最近では、なめし革の多様性、種々の革に変る素材の開発普及などで安価な製品が受け入れられ地域産業の一角を担っているが、白なめしとしての製品は伝統的工芸品的な範囲に狭められていると言っても過言ではない。職人対策、後継者育成など、伝統的な技術の保存と復活・伝承に取り組んでいる。
●西播磨(5)  「斑鳩寺」(太子町)

(昭和初期)
 播磨國揖保郡の斑鳩山斑鳩寺は、かって聖徳太子が推古天皇の勅により岡本宮に法華経を講讃したまひし時、天皇より此の揖保郡の水田991平方粁餘を賜わったのであるが、其の後此の地に建てられたのが即ち今の斑鳩寺であるといふことである。
 昔は講堂書院も旺であったが、天文の兵火に焼けて、現在の講堂は何れもその後の営構である。本堂には釈迦薬師、観音の諸尊を安じ、境内には三層塔、弥勒堂、鐘楼其の他の諸建物がある。

(現在)
 606年(推古天皇14年)建立。太子が天皇より賜わった土地は360町歩と伝わる。室町時代1541年(天文10年)の焼失から徐々に復興。現在は、天台宗寺院。新西国三十三箇所の32番札所である。三重塔、釈迦如来、薬師如来、如意輪観音は国の重要文化財となっている。
 寺の周辺の田畑は著しく減少して、住宅が建ち並び、街中の感は否めない。
●西播磨(6)  「龍野附近」(たつの市)
(昭和初期)
 戸倉峠より略南北に走って播磨灘に注ぐ揖保川は、龍野町附近を頂點とした三角洲を擴げる。此の寫眞は揖保川の東岸から、龍野町を西北に眺めて撮ったものである。橋の右方松並木に隠れた處に電車の停留所がある。並木は姫路、赤穂あたりに見られる様な、如何にも幕府時代の街道を思はせるものである。橋の左方は舊城址の鶏籠山で、山麓近くに並んだ人家の中に煙突の見えるのは、関西第一と稱せらるる醤油製造工場である。尚此川の香魚は古来龍野鮎とて賞翫される。町は又揖保素麺製産の中心地になって居る。寫眞では見えぬが町の西方に、野見宿禰の墓がある。 
(現在)
 龍野藩5万5千石の城下町は、鶏籠山の緑、残された古い街並み、揖保川の清流、復元された龍野城などが織り成して美しく、「播磨の小京都」と称せられている。周辺の町村を合併し、現在は面積約211u、人口約7万8千人の「たつの市」である。国鉄姫新線の整備に伴い、明治時代よりあった播電鉄道は1934年(昭和9)に全線廃止された。醤油産業は、周辺市町を合わせて12企業が約3万8千リットルを、手延素麺は約460企業が年間2万4千トンを生産する有力な地場産業を形成している。 
●西播磨(7)  「龍野の醤油」(たつの市)

(昭和初期)
 寫眞は龍野町の揖保川べりに散在する醤油醸造工場の一つで、立つのでも一番古い歴史を持った浅井醤油會社の仕込倉の内部である。舊幕時代、脇坂藩主の指圖に依って作ったもので、今尚この一棟は昔の名残を留めて居る。太い黒光のする梁の下には、諸味仕込の大きな桶の中には諸味がどろどろして居る。この倉の直ぐ隣には混凝土の仕込タンクを装置した現代式の仕込倉が明るい感じで建ち並んで居るのだ。舊式な蔵は近々取毀され、全部新式のものに變へられるといふ。醤油の味も昔の味から漸次混凝土の味に變って行く。

(現在)
 龍野醤油の醸造の始まりは1587年(天正15)と伝わる。揖保川の水質に加え、良質な播磨の大豆・小麦・米・赤穂の塩が入手しやすく、 船便や歴代藩主の奨励策などに恵まれて発展してきた。現在でも、千葉や香川と並んで、全国3大産地の1つである。
 現在(平成23年)では、12企業、生産量約38,000kl、生産金額約843億円。
●西播磨(8)  「赤穂町」(赤穂市)
(昭和初期)
 手前は千種川で右から左へ流れてゐる。手前の町と向ふの町との間はもと千種川の分流が右から左へ流れてゐたのを今は改修してそこは川でなくなり二つの町をつなぐ町がそこにできてゐる。赤穂町の中心はその向ふの町の中央の白い所である。有名な赤穂義士を出した士族屋館はその左向ふで今も人家は町家に比して疎であるのでわかる。大石良雄城明け渡しで有名な浅野内匠頭の舊城址は左端の黒い森がそこである。その向ふ山の麓まで黒く極めて平らなのはこれまた有名な赤穂鹽を産する鹽田である。鹽田は千種川の三角洲の上に発達したものである。良質でもあったが時の藩主が江戸で将軍や諸侯の前で披露し進物にしたので一層有名になった。町も勿論千種川の白砂の三角洲の上にある。 
(現在)
 坂越町、高雄村、有年(うね)村と戦後相次いで合併し、また、岡山県日生(ひなせ)の一部を編入して「赤穂市」となった。面積は約127u、人口約4万4千人。忠臣蔵ゆかりの地、赤穂城を中心として、大石神社、花岳寺など城下町の名残り、古い港町(坂越)、風光明媚な温泉地(御崎)などが特徴である。昔、一世を風靡した塩田は、製塩法の進化と、1972年(昭和47)に化学工業化製品となって、遂に廃止された。跡地は工業用地、住宅用地等に転用されている。最近では、特種用塩として自然塩の製造が引き継がれている。 
●西播磨(9)  「赤穂鹽田」(赤穂市)
(昭和初期)
 山陽線有年駅で下車して赤穂鐵道に乗れば35分で赤穂に達する。47士で有名な浅野長主の祖父長直は赤穂の加里屋城を築き治績大に挙り、殊に鹽田開發に力を盡した。現在千種川の川口附近には4,958平方粁餘の鹽田から年額7千萬斤の鹽を産する。赤穂藩が小藩なるも有為の士を多く養へたのは勿論此の鹽田の為であった。瀬戸内海岸一帯は遠浅で激浪無く潮汐の干満の差が適度で砂濱は花崗岩、石英粗面岩の細粒から成ってゐるので鹽田に適し、且晴天よく續き降水量が少い為め製鹽業が發達する。赤穂鹽はこの地理的條件に加ふるに名君の苦心に依って興ったものである。
(現在)
 入浜式塩田として400年の長い歴史の製塩法が、戦後1952年(昭和27)に流下盤・枝条架法にとって代わられ、40年ほど前からイオン交換樹脂膜を使った化学的に工業生産化(1972年)されるに至り、赤穂だけでなく、全国の塩田がその姿を消していった。跡地は、工業団地や発電所のような大型コンビナート、公園などに転換されるケースが目立つ。赤穂もその例にあるが、特色としては、家族連れでキャンプ・遊技・学習ができる海浜公園が整備されている。市立海洋科学館「塩の国」が開館し、瀬戸内海の塩の展示、屋外での各種歴史的製塩法(揚浜、入浜、流下式など)の塩田が復元されて実験・体験できるようになっている。
●西播磨(10)  「大石良雄屋敷跡」(赤穂市)

(昭和初期)
 赤穂義士の頭領大石良雄の屋敷跡は赤穂町舊城址内にある。今は殆ど取り拂はれてその跡が大石神社にあったが、園地泉石の配置が往時を追想するに充分である。寫眞は僅かに残った長屋で、丸槻には大石家の紋所で二つ巴が刻まれてゐる。寫眞には見えないが池邊の老櫻は良雄が遺愛の老木で、武士の心を語りがに今も美しく花を咲かせでゐる。

(現在)
 大石良雄屋敷は、1729年(享保14)の火災で大半を焼失、現在ではこの長屋門しか残っていない。大石家の赤穂入封以来、3代の居宅であった。1979年(昭和54)に一度解体修理が行われた。軒先鐙(あぶみ)瓦に大石の家紋(二つ巴)が刻まれていて、隣接する庭園を含む屋敷跡は国の史跡に指定されている。近隣には、大石以外の赤穂義士たちの居宅跡がある。
●西播磨(11)  「大石神社」(赤穂市)

(昭和初期)
 兵庫縣赤穂郡赤穂町上假屋東組に鎮座で大石良雄を始め寺坂信行に至る47義士と中折の士萱野重實を併せ48士を祀る。祭神の事績は説明を要しない事で元禄15年故主の仇を斬り大義を全うし同16年2月死を賜ったのである。明治33年赤穂町の大石舊邸内に神社を建つ事を許され大正2年6月社殿設備竣成し昭和3年2月縣社に列せられたのが今の神社である。社は舊城址にあるので老松鬱蒼として前に瀬戸内海を望み山海の勝景備はった所で寫眞は拝殿の正面である。

(現在)
 戦後、赤穂城内にあった藩主浅野3代と後の藩主森氏7代を合祀した。1942年(昭和17)に、楠木正成を祀る湊川神社の神門を移築した「義芳門」が境内に残る。2002年(平成14)義士討入り300年記念に、大石をはじめ義士たちの討入り装束や遺品、47義士の木像(平櫛田中らの彫刻)を展示する「義士資料館」が開館した。
 毎年12月14日の赤穂義士吉良邸討入り日には、市挙げて「義士祭」が行われる。
●西播磨(12)  「赤穂千種川」(赤穂市)

(昭和初期)
 寫眞は坂越峠より千種川の河口を望んだもの。左岸に小さく見えるのは坂越村で左の山の間を通って内海に臨んで坂越港があり、港の東方には坂越赤壁で知られる生島がある。坂越村からは寫眞で見える坂越橋を渡り川の右岸に達すれば赤穂町の北郊である。河口に微に見えるのが赤穂町で人口8千許り、有名な赤穂鹽田の中心で専賣局出張所が置かれてある。町には又正保2年浅野長直が近藤三郎左衛門。山鹿素行に築かせた加里屋城址がある。千種川の流域は石英粗面岩又は花崗岩が主で、寫眞に見える高地は石英粗面岩である。是等は雨水に容易に崩壊して河口に流され其處に美事な鹽田を發達せしめる。

(現在)
 千種川河口周辺に広がる赤穂城(加里屋城)の城下町で、塩田を中心として発達してきた赤穂市は、現在、工業化された製塩業のほか各種産業、農業、港湾、温泉など盛んで、面積127u、人口約5万人。1951年(昭和26)に市制、1963年(昭和38)には岡山県和気郡日生町福浦を珍しい越県編入を行った。赤穂城下街のほか、東部の坂越は港町で、都市景観100選に選ばれるほど伝統的建造物が並ぶ趣のある街並み、港の景観を誇る。
●西播磨(13)  「坂越浦」(赤穂市)
(昭和初期)
 義士と鹽で知られた赤穂の東方約4粁、播磨灘に面した一小港で、前面に生島が横はり安全な碇泊港をなす。古来佐古志(太平記に依る)と稱し赤穂御崎と共に坂越の庄に属し、風光の美を以て聞えて居た。樹木鬱蒼たる生島を前景に遠く家島、四国の島山を望む眺めは、其の間に點々する白帆の影と共に静かな瀬戸内海式の景色の東端をなす。圖の右方の聚落は坂越村で、灣内前方の島が生島である。生島は内務省指定天然記念保護林で、古来活道山、鞍居島と呼ばれ、中古には生浪島と稱し次で現今の生島と言ふ様になったのである。東西345米、南北270米、周囲1473米で海岸より東南の方400米を隔てて孤立してゐる。島中に大避神社の御旅所及び秦河勝の墳墓がある。坂越港は山陽線有年驛より赤穂鐵道にて30分、或は那波驛より自動車にて15分の地位にあり、海路は大阪より神戸を経て隔日に、又讃岐高松より備前牛窓日生を経て汽船の便がある。 
(現在)
 戦後すぐに赤穂市に合併。都市景観100選にも挙げられている港町で、伝統的建造物群が古い町並みを形成し、港、湾内の美しい眺望を誇る。大避神社の「坂越の船祭り」「坂越の牡蠣」は有名である。瀬戸内海国立公園内の赤穂坂越湾の生島の樹林は常緑樹スダジイやアラカシの自然植生で、国の天然記念物に指定されている。生島は古来より神域として立ち入り禁止で原始の森が残されている。 
●西播磨(14)  「書写山」(姫路市)
(昭和初期)
 書寫山は姫路の叡山ともいふべきものにして、姫路の西北7,854粁、夢前・菅生に川の間に介在し、海抜362米の標高を有する。山中天台の道場圓教寺あるによって名高く本尊如意輪漢音は27番の札所に当る。堂塔伽藍・古杉・老檜の間に点在して山陽随一の幽邃静寂境である。村上帝の朝、書写の上人性海の創建する所で7堂備はり、殊に本堂摩尼殿は桁9間梁7間。京都の清水寺の如く懸崖に掛り居り壮覧を呈してしたが、惜しくも大正10年火を失して烏有に帰した。
  圖は夢前川に架する書寫橋の東端より書写を望むもの。橋を渡り10数町にして南麓東坂下に至る。ここより18町の凝灰臺の急坂を登れば寺に達す。途中、姫路平野・播磨灘の眺望最も佳である。 
(現在)
 姫路市郊外にあって、静かで美しい自然に囲まれ、1,000年以上昔に開山された園教寺のある書写山は、現在、海抜371mとされています。境内は史跡地に指定されており、山上へは、書写山ロープウェイが約4分で運んでくれる。
 山の麓周辺は、都市開発が進んで、道路が縦横にあり、住宅団地や工場が多く建っている。現在の書写橋は、昔の橋に隣接して設けられた模様。  
●西播磨(15)  「舟坂山」(赤穂郡上郡町)
(昭和初期)
 舟坂山は備前と播磨との境にあり、古来交通の要點である為に史上にも著はれ、元弘・建武・應仁の諸乱に際し度々合戦の地となってゐる。太平記には元弘の時、備前に児島高徳あって、後醍醐天皇が隠岐に遷幸し給ふを聞いて義兵を挙げ、帝駕を舟坂山に擁して賊の手より奪ひ回さうとしたが、駕は道を變へて播磨より山陰道に出づると聞き山道を斜に馳せて美作と播磨の境なる杉坂に行ったが、惜しくも車駕己にここを過ぎ美作に入らせ給うたときき衆皆四散した。高徳獨り微哀を主上に聞え上げようと美作の院ノ庄に赴き、御館の櫻樹を斫って「天莫空勾踐、時非無叛范蠡」の詩を書いて去った。
(現在)
 兵庫県と岡山県の県境、船阪峠を西国街道(現、国道2号)が通っている。兵庫県から峠を越えて岡山県に入ったところに、児嶋高徳の後醍醐天皇奪還の挙兵顛末に係る「船阪山義挙之碑」が1940年(昭和15)に期限2600年を記念して建てられた。近くの船阪山いこいの広場には由緒説明板もある。JR山陽本線は、船阪峠をトンネルで通過する。
●西播磨(16)  「播州素麺」(たつの市)

(昭和初期)
 素麺といへば直ちに播州を聯想する程兵庫縣下の素麺製造が盛である。本縣の素麺製造は文化年間から始まり明治12〜13年頃から逐年生産を増加し、昭和3年には播州素麺同業組合だけで83萬餘箱、367萬餘圓を生産した。播州産小麦の品質と同地の気候が素麺製造に好適し、大需要地京阪神に近く且つ交通の便宜しく九州・中國・四國等の消費地に輸送が便利な為め今日の盛況を来した。製品は手延製品と機械製品に区別せられる。揖保(イボ)の糸、三幡(ミハタ)の糸、御幸の糸、飾磨の糸等は前者に、揖保、三幅、白鷺の糸等は後者に属する。主産地は揖保、飾磨両郡で年産額600餘萬圓である。

(現在)
 播州素麺は、戦前戦後の混乱期に原材料確保問題で一時生産量が激減したが、1952年(昭和27)の統制経済解除や、 工業社会化に伴う労働力不足から国内小麦生産減に対して、外国産輸入などで克服安定。 1960年代には品質管理の徹底とギフト商材開発などで、1970年代には生産量100万箱を突破した。 1997年(平成9)に、揖保乃糸資料館「そうめんの里」をオープン、 手延素麺の歴史文化の伝承、販売促進に力を入れている。組合ブランド「揖保乃糸」は2007年(平成19)のモンドセレクションで最高金賞を、 2012年(平成24)には国際優秀味覚コンテストで「三ツ星」を得るなど、海外展開も進める。
 現在、たつの市と周辺の宍粟、姫路、太子を含めて、473企業、従業員数2,460人、生産数量約24,000トン、生産金額約165億円にのぼる。
●西播磨(17)  「龍野の醤油醸造工場」(たつの市)

(昭和初期)
 近畿に於ける諸工業の中には假令(たとへ)其の發達の一因は文化の為であっても、主として其の原料によって其の所在が定まったものも少なくない。・・・・・(焼物・灘五郷)・・・。
 此の他また其の原料産地、若しは之に近き為に發達した近畿の工業には伊勢の種油、龍野の醤油等がある。

(現在)
 「淡口(うすくち)」という関西に基盤を持った醤油として、全国的にも支持されている龍野醤油。その生産の中心のヒガシマル醤油は創業1580年の歴史を持つ。現在では、醤油以外にも、つゆ・だしなどの関連製品、健康志向、味覚志向の製品開発も活発である。たつの市内に「うすくち龍野醤油資料館」が1979年にオープン、世界初の醤油博物館である。館の建物は、浅井醤油会社と菊一醤油とが合併した龍野醤油を経由して、ヒガシマル醤油の本社に、後に龍野醤油協同組合の事務所として使われていた国登録有形文化財である。
●西播磨(18)  「圓教寺大講堂」(姫路市)

(昭和初期)
 播磨國書寫山の圓教寺は、永延2年性空上人の開創するところ、如意輪観音菩薩を本尊とし、西國三十三所の中第27の札所である。花山法皇が性空上人の高徳を感じて此の山に御幸あり、晝工をして上人の眞像を圖せしめられた時、山動き地震ふにより法皇大に驚きたまふ。上人の面上に小き痣あり。晝工未だ之に気付かざりしを、震動に驚きて筆を落せしために、墨飛んで痣の形をなしたといひ傳へられてゐる。書寫山といへば必ず性空上人の名が出るほどに山も人も有名である。

(現在)
 姫路市郊外の書写山上一帯に多くの伽藍を抱える圓教寺は、境内は史跡として豊かな自然の中にある。県指定の鳥獣保護の特別保護地区に指定されている。1958年(昭和33)に開通したロープウエイを降りたところの仁王門から摩尼殿へ、ほか三十三所堂、本坊、大講堂、常行三味堂、食堂、鐘楼、金剛堂、薬師堂、開山堂、本多家廟所など、重要文化財や県市指定の文化財が並ぶ。近年では、映画『ラストサムライ』やテレビドラマ『軍師官兵衛』など多くの映画・ドラマのロケ地としても人気を高めている。
【取材未了・未掲載の項目】
●西播磨(4)  「揖保川と網干」(姫路市、たつの市)
(参考資料:昭和4年改造社発行『日本地理体系第7巻近畿編』より)

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