豊臣秀吉の埋蔵金一考察(多田銀山)
  (郷土史にかかる談話 9)

豊臣秀吉の埋蔵金一考察(多田銀山)  

 慶長3年(1598年)6月、病床にあった秀吉は、豊臣家の将来・危急の時のために、大阪城御金蔵にあった4億5千万両(現在では約200兆円)を摂津の国、多田銀山の21カ所に分けて埋蔵したと伝えられています。

多田銀山の台所間歩
 しかも、埋蔵及び管理に携わった者や一族の遺した古文書(下段にて簡介)からは、瓢箪間歩、新千石間歩など5箇所の坑道が示唆されています。それで秀吉の埋蔵金は、瓢箪間歩や台所間歩などのある当時全盛を誇った銀山町(現在の猪名川町銀山付近)内の豊臣家直轄又はゆかりの坑に秘匿されたと想像されてきたのです。
 以来、徳川家康を始め江戸幕府による探索、明治新政府以降の鉱物資源開拓確保の国是の基に進められてきた鉱山開発、加えて一攫千金の夢を追う個人又は集団の探索者たちの努力も空しく、未だに埋蔵金は発見されていません。
 しかも、埋蔵及び管理に携わった者や一族の遺した文書からは、瓢箪間歩、新千石間歩など5箇所の坑道が示唆されています。それで秀吉の埋蔵金は、瓢箪間歩や台所間歩などのある当時全盛を誇った銀山町(現在の猪名川町銀山付近)内の豊臣家直轄又はゆかりの坑に秘匿されたと想像されてきたのです。
 以来、徳川家康を始め江戸幕府による探索、明治新政府以降の鉱物資源開拓確保の国是の基に進められてきた鉱山開発、加えて一攫千金の夢を追う個人又は集団の探索者たちの努力も空しく、未だに埋蔵金は発見されていません。
 現在でも、危機的国家財政の抜本的解決策として国策(政府直轄)でこの埋蔵金を探索してはどうか、という話しもありますが、笑い話とは思えませんね。
 では一体どこに秀吉は4億5千万両を秘匿したのでしょうか。
 財宝埋蔵の秘法として伝わっている「八門遁甲の陣」によって、世俗が注目している銀山町ではなく、その北部の東光寺周辺に至る山中の旧廃坑と推定されている研究家もいます。しかし、豊臣家の財宝をそんなに簡単に文書に遺して置くでしょうか。口伝又は手掛かりとなる秘物伝承が本来であり、埋蔵掘削関係を人の目に触れる可能性のある文書の形で遺すのは不自然かつ恣意的な感じがします。
 また、埋蔵金は大判、小判、宝石、刀剣類が主と伝わっていますが、4億5千万両というのは当時の国内の金生産量から見ても巨大過ぎます。
 いいところ、その約9分の1の5千万両程度と見るのが常識的ですが、それにしても、埋蔵後一部掘り出した(下段に説明)と伝わるが、天正長大判に換算して骨董価値から、200兆円の約4分の1から半分ぐらいは未だ埋蔵されていると推測できます。
※「埋蔵秘文書」等については、下方の段落にて紹介。
多田銀山絵図(「柵内銀山町御用地略絵図」)
 そもそも多田銀山は、現在の猪名川町を中心とした宝塚、川西、豊能、能勢、箕面の東西20q、南北25qにわたる広大な地域を言います。この地域の鉱脈沿いには約2800もの間歩(坑道)が造られています。わざわざ後世の他人が採掘を手掛ける可能性の高い良鉱脈が集中する銀山町に隠すのは得策ではありません。秀吉が騎馬のまま出入りしたと伝えられている誰でもが注目する瓢箪間歩などをダミーにした陽動作戦の可能性が高いと思います。
 そこで、知恵者豊臣秀吉が大阪城御金蔵の大枚を埋蔵秘匿する場所を決めるとするならば、その条件・要点をどう考えたのか、推測してみました。
(1)万一、徳川家康などが探索した場合に、違った箇所・地域へ誘導する。
 ダミー地は、銀山の賑わいの真っ只中とし、わざと文書で遺す手配をしておく。よって、猪名川町の銀山町周辺はそれらしく装うが、対象とはしないでしょう。
(2)周辺に大きい村や部落が無くて、周りから見通しが利かない場所。
 川西、池田、箕面では村落が多くあり、麓からでも山中の動きが覗えるなど人目に付きやすい。埋蔵、再採掘の作業を外部から隔絶する処置が採り易い奥まった谷間、川筋が良い。
(3)後世の埋蔵金回収が比較的容易な場所。
そのため、大阪城から比較的近距離にあること。宝塚、三田方面では奥過ぎる。また、標高の高い山中に分け入ったりしないで、河道・川筋が洪水で溢れても埋蔵した坑口が安全な位置にあること。川筋の道から少し高い位置に多数あって特定されにくい廃坑が適当と思われます。

一庫ダムの堰堤
 以上の条件を満たす地域はまずは一箇所。銀山町より大阪に近い人里離れた山中の奥まった峡谷で、ダミー作戦のために大阪から人目の多い箕面、池田、川西をあえて通るが、銀山町ではない地域。現在の川西市、豊能町にある、大路次川と田尻川の合流する知明山東側の川筋しかありません。
 今は水資源開発公団によって一庫ダムが建設されて水没してしまっていますが、以前の古来からの地形を知っている者としては確信できます。
 下図の緑色の部分は山または森林、白い部分は集落、点線は街道、黒線は現在の市町境界線です。赤い「×点」が候補地です。要するに、人里離れて人目に着かず、街道からアクセスし易い拠点はここしか無いのです。

一庫ダム堰堤付近
 というのも、一庫ダムが建設される当時、水資源開発(ダム)と地域整備計画に携わっていた私は、昭和46年、その山中現地にありました。
 ダム建設に際しては、周辺地域を「鉱区禁止地区の指定」を行わなければなりません。そもそも鉱物資源確保を国是として私有財産権すら制限(他人の土地でも勝手に鉱区試掘権を設定できる)した法律の適用を除外するために、ダム湛水(貯水)に水抜け水漏れの危険性のある鉱山開発は認めず、湛水地区周辺(山の斜面裏側も)にある旧廃坑は全てコンクリートで埋め戻すことになっています。その指定のための国の現地踏査に同行していた私は、知明山周辺地域の川筋で、道から見上げて5〜20m程高い位置の斜面に無数に廃坑口の存在を確認しました。
※ 鉱区禁止地区の指定
(1)指定地域名:一庫ダム(兵庫県、大阪府)
(2)指定番号:148号
(3)指定面積:712ha
(4)指定公示日:昭和47年1月10日

 特に、その合流地点から大路次川上流にあった銀山町(約3000軒)に次ぐ約1000軒が集まっていたと思われる鉱山関係者の部落「千軒」や、田尻川上流の「黒川」「国崎」の部落から距離があり、後の目印となる知明山の東南向かいにある深く切れ込んだ狭い谷筋、深山幽谷の感すらあった田尻川と保谷川合流地点にも廃坑群(斜面は鬱蒼とした樹木で覆われていて詳しくは確認できなかった)が存在していたのです。
 当時は私も埋蔵金伝説は言い伝えのとおり猪名川町の銀山町のことと思っていたので、廃坑口にはただ昔の人のエネルギーに感心させられるだけで、気も回っていませんでした。その2年後に閉山されることになる銀山の日本鉱業の作業現場におじゃまして、採鉱の現状を視察させていただいた時に、「埋蔵金は見つかりましたか?」と冗談話も出たことを思い出します。
 その頃と比べて、地域を挙げて銀山をテーマに各種の整備が進んでいることに、郷土史探訪によるツーリズム振興を願う者としては心強い限りです。

埋蔵金はこの辺りの水面下?

コンクリートで埋め戻された坑口跡、
ひょっとしたら?

昭和40年代前半に日本鉱業の
事務所があった跡
 今、一庫ダムは堤高75m、堤長285m、3300万tの水を湛え、洪水調節のほか上水道、灌漑用水などのための多目的ダムで、阪神地域の人々の水瓶となっています。知明山周辺は、自然公園・親水公園、ゴルフ場、キャンプ場、フィッシングサイトなどとして市民の憩いの場となっています。
 4億5千万両の財宝を埋蔵した廃坑は厚いコンクリートや石材で埋め戻されシールドされて一庫ダム(知明湖)の湖底にひっそりと埋没し、二度と人の目に触れることはないでしょう。
(2009年4月〜、2016年10月)
※「豊臣秀吉の埋蔵金伝説」について、関西テレビ番組「ニュース・アンカー」に出演・解説しました。
  (2011年8月)
※『読売ファミリー』〜関西不思議発見〜に解説掲載されました。(2013年5月)
※NHKテレビ「歴史秘話ヒストリア」の関連情報としての取材に対応。(2016年8月)
【参考1】豊臣秀吉の埋蔵秘文書と伝わる古文書等の簡介
@『幡野三郎光照遺書』慶長3(1958)年11月26日付け
 幡野三郎は秀吉の時の鉱山総奉行。慶長3年6月に秀吉が病床に伏し、大阪城御金蔵の4億5千万両を摂津の国の多田銀山に封鎖した、と記す。
A『清水心竜之巻』慶長3年12月21日付け
 幡野三郎が記したと推測される。秀吉の嫡子秀頼が15歳まで国政を家康に預け、15歳になったら瓢箪間歩(多田銀山)など5箇所の坑道を掘り出せ、と記す。
B『埋蔵坑道詳細と水抜き秘法』慶長3年12月1日付け
 鉱山総奉行の顧問格。幡野三郎の部下で鉱山関係の中国人技師、今川賀蔵(民振竜) が記す。埋蔵した坑道の説明と、掘り出し時に必要な水抜きの手法を解説する。
C『埋蔵坑道詳細絵図及び埋蔵明細記録』日付けは無いが、内容から慶長19年12月か
 幡野三郎の嫡子和田二郎光盛が、大阪冬の陣が終結した直後に記す。既に、埋蔵の責任者の父幡野三郎は慶長19(1614)年12月の大阪冬の陣で戦死、民振竜も同年11月に病死したので、秘密を知るのは和田二郎一人となったので後世に伝えるために記す。これによると、埋蔵金は慶長3年の埋蔵後、2度掘り出した。大阪夏の陣の軍費とするためと、大阪城が落城した際に、真田幸村の十勇士が3日がかりで一部を掘り出し、九州の島津家へ届けた(秀頼が真田の手引きで秘密裏に大坂落城から脱出して島津家へ身を寄せたという説を裏付ける?)、とある。和田二郎は、翌年元和元年(1615)7月に大阪夏の陣の後病死した。
【参考2】豊臣秀吉の埋蔵秘文書が発見された経緯など
(1)昭和26年に、大阪市の工場経営者(先祖は、代々兵庫県神崎郡の大庄屋)が家財整理中に古文書類の中から@、A、B、及びCの埋蔵秘文書を発見(新聞報道)。
(2)大正13年に、畠山氏の友人から提示。大阪の鉱山関係商人が所蔵しているもの、と聞く。「多田銀山の絵図面」1葉で、C一部と推測される。
(3)時期不明(昭和26〜50年のうち)だが、東京の質屋の古文書の中から骨董品マニアが、三重県の伊賀上野の豪族亀井家文書で、@、A、Cと、極彩色の絵図3葉発見。
(4)秀吉の九州にて生存説には、島津藩の公文書『伊知地文書』に「秀頼公宗連と号し、45歳で逝去・・・」とあり、鹿児島の福昌寺の『福昌寺記録』に、宗連の葬儀に島津藩主が直々に拝礼したとある。その他、日出藩の『木下家古文書』や『木下家系略図及び添書』に秀頼公と思しき記入がある。
※【参考1】【参考2】の内容については、『眠ったままの埋蔵金』畠山清行著(S51.4.10青春出版社)を参考にした。

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