幕末期、長岡藩士河井継之助がみた摂津・播磨
  (郷土史にかかる談話 22)
幕末期、長岡藩士河井継之助がみた摂津・播磨
 幕末期、越後長岡藩牧野家の家臣、河井継之助は、慶応期の藩政改革において改革推進派として手腕を発揮。明治維新時において、継之助は家老上席、軍事総督として長岡藩は奥羽越列藩同盟に加わり、北越戦争を闘い、負傷し、会津に落ち延びるが、慶応4年8月(1868年10月)そのまま病死しました。
 江戸末期から明治維新において、時代を担った逸材でした。その河井継之助は、安政6年(1859年)に江戸に再び遊学し、さらに経世済民の学を修めんと備中松山藩の山田方谷の元を訪ねる西国遊学の旅に出たのです。

河井継之助が歩いた摂津・播磨の道のりと泊った宿場
 その6月から12月にかけて、江戸から備中松山、長崎を経て、また備中松山に戻るまでの西国遊学の出来事を『塵壺』という旅行記に記しています。自分の日記帳をごみ箱(塵壺)と題するなんて、洒落人だったのですね。
 これによると、安政6年6月7日に神奈川(横浜)泊を皮切りに、東海道を下り、7月9日に大阪の宿を立ち、兵庫県(摂津・播磨)を通過。同14日に岡山県(備前)に入っています。
 今から150年前、河井継之助はわずか6日間で兵庫県を通っています。一日に50キロメートル近く歩きとおす日もあって、昔の武士は本当に健脚だったのですね。松山への急ぎ旅ではあったが、どのような所に立寄り、何を見ていたのでしょうか。

●7月9日(安政6年:1859年) 晴れ
 「不親切なる宿のため、洗濯も出来ず。終に昼時前迄待って、大阪を立つ。十三川を渡り、神埼、伊丹を過ぎて、中山の観音へ参る。何方にても九日、十日は、観音の寄合とか云いて、其の群集、盛んなり。尤も大阪の人、信仰の様子なり。裏の山へ上り、四方を見るに、直に城を見渡し、市中も残さず。尼ケ崎の城ならん。六甲山のはずれに当たる。海上の帆も明らか。好晴ならば、伏見迄もと思う程の処なり。生瀬に宿す。」
 サービスの悪かった宿に言及した大阪を昼前に立ち、十三川・神埼の渡しまで約6.0q、中山寺まで17.5q、宝塚を通り武庫川沿いに北上して5.5qで、生瀬に投宿。この日の走行距離は29.0q。

河井継之助の肖像写真。長崎で撮ったもののようです。
聖徳太子建立と伝わる名刹、中山寺。
現在の生瀬の町なみ。三田・篠山方面と有馬方面との分岐点。
●7月10日 晴れ
 「生瀬を立って、川の中計り四十八丁とか行く。難路なれども、未だ見ざる処の奇山風景、面白し。道の険は、湯治場は皆然り。それより山へ掛る。道の険は、湯治場は皆然り。昼前に着きて、奥坊に宿を取る。五度入湯。夕方、鼓の滝を見る。」
 生瀬から蓬莱峡の奇岩を眺め、有馬温泉の奥坊に泊って、この日、何と五度も入湯しています。大阪から西へ西国街道を行かずに遠回りして有馬に寄っています。行程中の休息もあったのでしょうが、余程、有馬の湯を楽しみたかったのでしょう。有馬泊。
 生瀬の宿から約10.0qで有馬の宿に到着します。この日は10.0qの半日走行のみ。
難路、奇山と讃えられた蓬莱峡。黒澤明監督の「隠し砦の三悪人」の撮影現場としても有名。 有馬温泉街の入口。神戸電鉄の有馬温泉駅もこの近く。 河井継之助が泊った奥の坊。今は、近代的な温泉ホテルに変貌。
●7月11日 晴れ
 「有馬は名高き湯治場、実に名空しからず。家数四五百もある由、盛んなる物なり。朝、二度入湯。七の数を以って、一回に当つるなり。
 四ツ(午前十時)頃立って、六甲山を越ゆ。高くして険、案内あれば、数十ケ国を一目にする所の由、実に然る可きなり。風景愛すべし。更に険を厭わず、十が七を下りし頃、水車の家、数十軒あり。皆、屋根の上より水を落す。水勢も疾く、車、すこぶる早し。ナダ(灘)の為なり。大相の物なり。
 それよりミカゲ(御影)を脇に見て、ナダ(灘)へ出ず。酒屋の多くして大なると、樽木を積めると、夥しき物なり。右に摩耶山の観音を見て、生田明神を拝し、湊川・楠公の墓へ謁し、兵庫に宿す。兵庫の半道計り手前の処に、船附(着)あり、反て(却って)大船あり。追て記すべし。
 これより後は松山にて、只、覚あるを記すのみ。」

 朝にも二度入湯する温泉好き。六甲山を越えて瀬戸内側の西国街道に合流する。灘の酒処を通って、兵庫津の宿に投宿。港の繁盛にびっくりしたことでしょう。有馬宿から灘まで15.0q、生田神社まで5.4q、楠公墓まで2.6q、兵庫津までは2.0qと近い。兵庫に投宿。この日は六甲山越で25.0qの行程。
灘の酒処。今は近代的な工場が林立する。 源平合戦でも有名な生田神社。現在は三宮の繁華街の真っ只中。 黄門様(水戸光圀公)が助さん(佐々木助三郎)を派遣して建立した楠正成の墓碑。(奥の方に、黄門様自筆の「鳴呼忠臣楠子之墓」碑)
●7月12日 終日風強 曇り
 「兵庫を立って、築島を見、清盛の墓を尋ね、「須磨寺」を右に見て、敦盛の墓を謁し、一ノ谷を通り、舞子の浜へ掛り、松林の景、面白き事なり。
 明石に到り、忠度(平忠度)の墓を見て、人丸の社に登る。好風景なり。城の堀際へ下る。淡州(淡路島)前にあり。須磨の浦よりは三里、明石よりは一里、望遠鏡にあらざるも、家並まで好く見ゆ。此の辺りの風景、名あるも宜なり。淡州の大なるには、案の外なり。
 明石より浜辺へ出、始めに手枕松を見、松原を過ぎて浜の松を見、尾上の松と鐘とを見て、高砂に到り、宿す。」

 この日は摂津から播磨へ。各地の見所多し。兵庫宿から須磨寺付近まで7.0q、海岸沿いを舞子の松林を通り4.0qで明石、加古川までの21.5q、そして高砂の宿へ5.5q、あちこち寄り道しながらの旅。この日の走破距離は何と48.0qでした。
平清盛の塚。鎌倉時代の十三重の石塔。神戸市電敷設時に約50m程現在地に移転させられた。 明石、柿本神社(人丸の社)境内から淡路島を眺望する。明石城の堀からみたものはこれに近い。 明石の善楽寺の浜の松。源氏物語の明石入道ゆかりの地。
●7月13日 晴れ
 「高砂は姫路領にて、家数の余程あり。舟付(着)故、賑かなり。朝立って松を見、船付の様子を伺い(窺い)石の宝殿を右に見て、曽根の天神を拝し、松を見る。古木は六十年計り前に枯ると。屋根に掛かりて、其の古き事、実に神代の物かと思わる。播州は実に松の名所なり。名のある松は云うに及ばず、其の外、松林の奇麗、殊に海辺故、別して面白し。
 それより姫路へ出る。遙かに天守を望む。城下は随分、宜しき所なり。摂州・播州は石の多き故か、石橋の奇麗なる数々あり。書写山を右に見て、山へ掛かる。姫路は大分開けたる所なり。正条に宿す。
 此の夜、久しくなき晴にて、月明なり。座敷に「嶺上雲客」の四字額あり。御棚参り遊ばされ、仏尊の事、御両親の御世話も相い済みて、兄弟方にも御出あらんと、古郷(故郷)を思い出して磁石を立て、遙かに北を拝し居る処へ、山上の月、照りけるに、ふと口ずさみける。
 ふるさとの こし地は遠し はりま山 すめる月こそ かはらざらまし」

 高砂の相生の松、高砂の港、曽根の松、竜山石の地など経由して姫路へ。それにしても、名松は好きですね。御着まで16.5q、姫路城下へ6.5km、山道を正條まで14.0q。正條に投宿。この日は37.0q。揖保川沿いの風光明媚な宿から故郷長岡の方向を眺めて冴え渡る上空の月にホームシックを覚えている。武士も人の子。
菅原道真が大宰府への途中に記念に植えた曽根の松がある曽根天満宮。 白鷺の城と讃えられる天下の姫路城。その壮大さに驚いたことでしょう。 正條の宿。明治天皇正條行在所跡の碑。
●7月14日 晴れ
 「正条を立って、赤穂へ廻る。其の道、多分山にて、赤穂の手前二里計りの所、坂あり。下りに掛かれば、遙に城は見え、城後の海に帆も見えて、好風景なり。元禄の事、思い出して、大変を告ぐる便、此の坂に来れる時は、悲中に喜ありしならんと量り、
  主公有變心如燃
  一片忠勇摧鐵石
  計道百五十五里
  馳到二十四時中
 (主公に変有り。心、燃ゆるが如し。一片の忠勇、鉄石をも摧く。道を計れば百五十五里、馳せ到る、二十四時の中)
 追て調べて詩になさん。城下へ到るに川あり、石を以てセキ(堰)をし、其の上を渡る。義士の寺あり。寺の横に、公の墓を始め、四十七士の墓あり。前に二本の古松ありて、其の碑あり。
 それより少し行きて、塩場に出づ。盛んなる物なり。焚所へ入り見るに、釜は深さ五寸位、横六尺計り、竪(縦)九尺計りの石釜なり。「こば石」の様なるを敷きし故、ツリ手(吊手)あり。石炭にて焚く。焚く者は両人、昼夜とも、夜の者は焚く計り、上げる事はせず。一昼夜、四十俵も出来ると云う。昼夜にて二十四釜上がると。値段を聞くに、四百文位と云う。金の釜もある由。数々ある故、一々は見ず。金(ズク。鋳鉄)の釜にて松を焚く。塩は蜜にして旨しと。塩浜の人、数多き物なり。其の働き、少しも息う者なし。尤も、日中は大切の時なり。砂をホシ(干し)、水をかける。砂を寄せる、夫々職あり。職に難易ありて日傭銭も違う。出来る様子よりは、高値の様に思わるけれども、焚く者と云い、仕事する者と云い、暑さの時分は難儀の業なり。
 塩場へ下りて、其の所を見る。水を取るより焚く迄の事は、覚ある故、記さず。
 一組十人より十四五人位と、冬にても風強くして、砂干(乾上)る故、焚くという。
 それより山を越え、沢へ下る。始終、山計りにて、片上の一里計り手前にて、本道と合す。赤穂を出て一里余り行けば、巳に備前路なり。其の山間の中、堤数々ありて、少しの処にも田地あり。稲よく出来、稲株まばらにして茂り、豊作なり。ここの山間には、田に石垣あり、獅子垣と云う。本道に出ても、猶、山故、堤多し。片上に宿す。赤穂より片上迄、六里計り。誠に艱難の道なり。」

 正條宿を立って坂越の高取峠を通り18.0q、赤穂の街へと入る。義士ゆかりの墓所のほか、製塩の現場(塩場)を覚えがあるから記さないと言いながら、結構レポしている。やはり、藩財政運営上の殖産興業には注目していたことがよく分かる。ここから山越え道を急いで西国街道に戻って24.0q、片上の宿(備前国)へ。この日の行程約42.0q。
高取峠。今は、赤穂事件の松の廊下の異変を知らせる早駕籠の像が立つ。ここからは千種川、赤穂が遠くに見て取れる。 浅野内匠頭、義士たちの墓所がある花岳寺。 赤穂城。1952年(昭和27)に復元された大手門と隅櫓。

●コレラ余談
 摂津・播磨を通過時の記帳にはなかったが、妹尾に投宿した15日に次の特別記述がある。岡山から四国讃岐へわたる予定の本道を離れ、脇道へ逸れている。その理由として、
 「大阪を始め、姫路、岡山、備中も倉敷迄、昨年来コロリの病(コレラ)又流行して、死人多く、大阪よりの往来、兵庫、何れも流行、道に六部(巡礼)の死するを見る。赤穂より片上へ出る山中にて、駕籠に乗せ、手拭にて顔を蔽い、生ける取扱にして行ける女あり。命は天と云い乍ら、好んで到るは愚なりと思い、讃岐に渡らんとするためなり。妹尾に宿す。大阪より備中迄、病神(厄病神)送るとか云って、馬鹿らしき事、何れもあり。」
 どうやら、幕末のコレラ大流行の状況下で、讃岐への船の同行者にコレラ病死体?と思われる女を見つけ、回避した模様である。(2010年6月) 

※河井継之助の旅日記『塵壺』より

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