陰陽師、蘆屋道満と安倍清明の播磨対決
  (郷土史にかかる談話 27)
陰陽師、蘆屋道満と安倍清明の播磨対決
 魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)し、百鬼夜行(ひゃっきやこう)する京の都、人知れず、識(式)神を駆使し、方術(魔術)を尽くして闘う陰陽師、葦屋道満と安倍清明。今を去る1,000年の10世紀末、京都や播磨の地を舞台に、あの映画やドラマ、漫画や小説で御馴染みのシーンが繰り広げられていました。
 陰陽師とは、奈良時代の律令で、中国伝来の自然哲学である陰陽五行説に基づき、天文・暦教・卜筮(占い)などにより吉凶・禍福を占う呪術を使う陰陽道に携わる技術官僚グループでした。この二人が活躍した平安時代においては、陰陽師は世の森羅万象の理に通じた今で言う最先端科学者集団だったのでしょう。
  この傑出した二人の陰陽師は、共に兵庫県の播磨にゆかりの深い人たちだったのです。播磨は、陰陽道にとって聖地であり、研鑽・修業の地、まさに陰陽師たちの中心地であり、故郷でもあったのです。 播磨は隣接する吉備(岡山)とともに、陰陽道を伝えた渡来人たち科学技術を掌る人たちが多くいたことからも窺えます。
 陰陽師の説話については、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』、『播磨鑑』などが、京都の安倍清明、加茂忠行、加茂保憲のほかに、播磨では、日照り飢饉を尽きることのない七種の穀物の種を杉の根元から出して救済したという滋岡川人(兵庫県福崎町)、明石の沖に出没した海賊に取られた船や荷物を方術で取り戻したり、京都で安倍清明と識神を駆使した方術比べに負けて弟子入りしたという智徳法師、そして安倍清明も一目を置いて全力対決をした葦屋道満のことを伝えています。このうち、葦屋道満と安倍清明(921年〜1005年)については、多くの痕跡が播磨に残されています。
 道満は、播磨国岸村(加古川市西神吉町岸)に生まれ、幼名を奇童丸、智徳法師のもとで修業し道満を名乗ります。深夜、識神を呼び出して、道満屋敷(生誕地)から湯溝沿いに天下原(加古川市東神吉町天下原)をとおり、現在平荘湖のある升田山古墳の石室で勉学修業に励んだとのことです。

「道満屋敷」が西隣あったと伝わる
正岸寺(加古川市西神吉町岸)

道満が使った識神を閉じ込めていた
「道満井戸」(正岸寺)
 道満が京都に行った留守時に、屋敷の井戸に閉じ込められていた識神が毎晩抜け出して、火の玉となっていつもの修業の地へ通い、天下原の地蔵に体当たりしてこかし、村人がいくら直しても、朝になるといつも前に傾いているので、「こけ地蔵」「道満の一つ火」と呼ばれています。
 一方、清明は、陰陽道の聖地播磨に睨みを利かせるためか、朝廷から播磨守に任じられ当時、花岡太郎という播磨の悪党の亡霊が暴れていたのを、梵字三文字を刻んだ石で封じ込めたそうです。その「清明ゆかりの石」が神戸市西区平野町慶明(当時は播磨国)に残っています。

慶明寺(神戸市西区平野町慶明)墓地横の清明が亡霊を封じ込めたという「清明ゆかり石」

慶明寺(神戸市西区平野町慶明)境内
 その後、道満は、当時の左大臣藤原顕光の依頼により、政的権力者の藤原道長の呪殺を安倍清明に阻止されて、播磨国(兵庫県佐用町大木谷)へと追放されます。しかしここでも、道長の呪殺法を続けていたようで、清明はその呪詛を阻止するために京都から佐用にやって来てます。

清明塚と対峙するように造作され、寛政9年(1797年)の造立銘のある「葦屋道満宝篋印塔」(佐用町乙大木谷)

同左、説明板
 そして道満と清明は、大木谷の相対する小高い東と西の丘陣取って死闘を展開し、遂に道満は清明に討たれてしまいます。

室町時代前期の造作と思われる「いぶし清明塚宝篋印塔」(佐用町甲大木谷)


同左、説明板


清明塚と道満塚は谷を挟み、二つの丘の上から対峙して建てられている(清明塚から道満塚のある丘を眺める)
 その二つの丘の間の沢に架かる橋の地点では矢が飛び交ったという「槍飛橋」、清明が討ち取った道満の首を洗ったという小川のある「おつけ場」など伝わっており、東と西の丘の上には、二人ゆかりの塚、宝篋印塔の「いぶし清明塚」(甲大木谷)と「道満塚」(乙大木谷)が立っています。(2011年5月)

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