義経の鵯越の坂落とし(逆落し)一考察
 (郷土史の談話33) 
義経の鵯越の坂落とし(逆落し)一考察
 寿永3年(1184年)2月4日、後白河法皇から平家追討の命を受けた源氏軍は、源範頼が率いる大手軍(主力部隊)が山陽道(西国街道)を、源義経率いる搦手(からめて)軍が丹波路を、二手に分かれて摂津国福原・大輪田泊の平宗盛らが駐屯する平家軍の本営に向けて進軍。

(長谷川小信、画「義経の鵯越の坂落とし」より)
 源範頼の大手軍は、平知盛らが守る福原東の生田森の陣に討ちかかりました。丹波へ回った源義経の搦手軍は、三草山(加東市)で平家軍を打ち破り、そこから、搦手軍の主力、土肥軍・田代軍(部隊)を社・小野・三木・明石奉免の西方から、平忠度らが守る一の谷の陣に攻撃を仕掛けました。主力と分かれたもう一方の軍(部隊)は、淡河・衝原・藍那と回り、地元豪族の鷲尾兄弟の道案内を受けて鵯越方面へ秘かに軍を進めました。
 この鵯越軍(山手軍)は、白川・多井畑へ回る岡田軍(部隊)と鵯越の高尾山方面に向かう多田軍(部隊)と分かれ、多田軍から熊谷軍(部隊)が一部抜け出し岡田軍・土肥軍と再合流して共に一の谷方面に乱入しました。
 それでは、義経は搦手軍内の一体どの軍(部隊)に同行していたのでしょう。また、鵯越の坂落としのエピソードは、現在も論争になっている、現在の一の谷の背後の鉢伏山・鉄拐山の崖か、一の谷から約10km弱東に離れた鵯越のどこかの崖か、はたまた本当にあったのでしょうか。
種々の疑問点を整理し、当時の平家の陣構え、進軍ルートの地形などを考慮して、義経軍の動きを考えてみたい。
@ 平家の陣構え
 平家軍は、福原・大輪田泊の平宗盛らの本営に加えて、山陽道の生田森陣と西方の一の谷陣に主力軍を配置し、山手方面からの攻撃に備えて、鵯越方面の西の谷側には平盛俊らが守る明泉寺(古明泉寺)の陣を、東の谷筋の烏原道・平野道に対しては平教経らが山の手の陣(氷室神社・会下山)を構えて用意していたこと。
A 崖を逆落しする危険性
 陣背後または陣の近くで急峻な崖を駆け降りるのが敵に発見されると、槍衾(やりぶすま)を構えられ、矢を多数打ちかけられ、あるいは焼き討ちにあったりして、戦闘する間も無く全滅する可能性は非常に大であること。
B 後白河法皇の主命
 後白河法皇は源氏軍に平家追討を命じた内には、安徳天皇の保護と天皇が保持する「三種の神器」奪還が主命であったこと。
C 「三種の神器」はどこに
 しかも、安徳天皇・三種の神器は福原・大輪田泊にあって、万一源氏が攻めてくれば、瀬戸内海に避難・逃走できるように平家の軍船が停泊していたこと。
D 陽動作戦
 東の生田森と西の一の谷への寄せ手を主体に陽動作戦とし、注意を逸らされて油断していた山の手から一直線に「三種の神器」がある大輪田泊を最短距離で急襲するのが最善策と考えられること。
E 進軍ルートの選択
 急襲を成功させるためには、平家軍の陣や物見の歩哨などから発見され難いように進軍することが重要であった。山の手から撃ちかかるとして、平家の明泉寺の陣や山の手の陣から見通せないルートを採ったものと考えられる。

鵯越の高尾山、義経の馬つなぎの松跡(義経公御陣跡)
F 鵯越の急襲ルート
 以上の条件を勘案して、義経たちは、鵯越を通って山の手ルートを採ったであろう。鵯越の高尾山から、神戸市鵯越墓園内(現在)を通り、明泉寺の陣から隠れる様に西神戸道路トンネル(現在)の上の山の稜線伝いに展望台(現在)のある尾根から、平教経らが待ち構える氷室・会下山の陣の西側の脇を、県立夢野台高校(現在)横のなだらかな斜面を、古来大和朝廷の武器庫があったと伝わる室内(むろうち)を一気に駆け下りて、造成予定であった「和田京」の地を南下、大輪田泊を急襲したものと思われる。

高尾山南(現在の神戸市鵯越墓園入口)の鵯越碑

鵯越の南端、稜線伝いに降りてきた現在の展望台のある丘

展望台附近より大輪田泊の方面を眺望する

稜線伝いのルート近くには急峻な崖もある

平家の陣の横を一気に駆け下ったであろう、なだらかな斜面
G 坂落としは無かった
 このルートには急峻な崖はあるが、通れば脇道に逸れ、明泉寺の陣から発見される恐れがあり、隠れながら稜線伝いに道を採るのが良策で、「坂落とし」の必要性は無かったと考えられる。
H 義経はどの軍(部隊)に同行したか
 義経は、「三種の神器」奪還の主命に沿って、大輪田泊を短時間のうちに急襲したいので、当然、鵯越ルートの多田軍(部隊)に同行していたと見られる。
I 一の谷は福原京だ
 京都から神戸へ東側から生田森を通って入って来ると、山が海に迫っている所が現れる。右に見える山側に諏訪山・大倉山がせり出し、左に見える海側(現在のJR神戸駅南)との狭隘な部分を抜けると福原京がある。この福原京の南に大輪田泊が隣接する。この地に立って山側を見ると、東の大倉山と西の会下山とに挟まれた烏原氷室・平野の谷筋が一望できる。神戸に入って一番目に現れる谷筋がここで、まさに「一の谷」であったとするのが妥当である。
J 義経の戦勝報告
合戦後、院(後白河法皇)への戦勝報告に義経らは「一の谷にて平家軍を打ち破った」とあるが、「福原京」としなかったのは、「京」の存在を無視した表現で通称の「一の谷」としたのも当然である。
 義経の鵯越の坂落としは、実戦上非常に危険な作戦であり、現在の一の谷(鉢伏山・鉄拐山)ではロケーションを見ると無理があって、坂落としは武勇を示す単なる物語と思われる。義経らは、鵯越を通る山の手ルートを採り、坂落としの様な無理をせず、平家陣から発見され難いように隠れながら稜線伝いに大輪田泊を一直線に急襲したと考えるのが自然であろう。
(2012年2月)

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