松尾芭蕉が辿った西国の文学・歴史の地、須磨(『笈の小文』『更科紀行』より)
 (郷土史の談話43)
松尾芭蕉が辿った西国の文学・歴史の地、須磨(『笈の小文』『更科紀行』より)
 日本史上最高の俳諧師、松尾芭蕉は、寛永21年(1644年)に伊賀國(現在の三重県伊賀市)に生まれました。寛文2年(1662年)に、京都の北村季吟に師事、俳諧の途を志します。(その頃の俳号は「宗房」)。
 その後季吟より俳諧作法書を伝授、延宝3年(1675年)に江戸へ移り住む。在江戸の俳人たちとの交流が続き、「桃青」の俳号を用い、延宝6年(1678年)に宗匠になって、職業としての俳諧師として江戸や京都の俳壇との交流を続け、多くの作品を生み出した。

(芭蕉が目指した須磨の地、古き伝えの松風村雨堂の昭和初期の様子=江戸期も同様と思われます)
 延宝8年(1680年)に、世俗から離れた静寂で孤独な生活ができる深川に居を移す。侘び寂びへの流れのなか、俳号を「芭蕉」とした。もって、深川の居は「芭蕉庵」と呼ばれるようになった。
 旅の傘に芭蕉庵と同じ侘び寂びの思いを込めて、貞享元年(1684年)に伊賀方面に『野ざらし紀行』の旅に出て、その後、貞享4年(1687年)の『鹿島詣』に続いて、10月に伊勢方面へ『笈(おい)の小文』の旅に出ます。その年は伊賀上野に入り、翌5年(1688年)に吉野・大和方面へ、そして足を伸ばして大阪・須磨・明石を旅して京都に入りました。
 有名な『奥の細道』の旅は、その翌年の元禄2年(1689年)3月に弟子の曾良と出かけた時の紀行です。 そして、元禄7年(1694年)9月に奈良・大阪方面の門人たちの不仲仲裁に来て病を得、
10月に病中吟
 『旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る
を詠み、4日後の12日に息を引き取りました。
 ひょうごの地を廻ったのは、このうち、『笈の小文』で往路の尼崎から須磨までを、『更科紀行』で帰路の須磨から東方京都への行程でしたためられています。既に、侘び寂びを詠んで芭蕉の全盛期にあるこの時に、芭蕉はひょうごをどのように眺めたでしょうか。両著及び芭蕉の友人への書簡等から、足跡を辿ってみよう。
 ※芭蕉は、『笈の小文』『更科紀行』のまとめを、次の旅である奥州・北陸方面の旅の後に手掛けていたために、『奥の細道』に比べて紀行文としては未定稿の状態で残されてしまったと思われています。
 この旅立ちに、芭蕉の多くの友人・門人たちが壮行餞別の俳席を用意しました。特に、貞享4年(1687年)10月11日の餞別會では、
 『旅人と 我名よばれん 初しぐれ
と詠み、客観的に旅の楽しみを予感していることが窺えます。そして、江戸を発ったのは10月25日でした。『笈の小文』の書き出しで、芭蕉は
 『百骸九竅(ひゃくがいきうけう=人の肉体のこと)の中に物有り、かりに名付けて風羅坊(風に翻る薄衣=芭蕉の葉を意味し、自分自身のこと)といふ。
と、この旅の雰囲気、すなわち世俗を離れた風雅、侘び寂びを標榜して表現しています。
 その後、尾張鳴海、伊良湖崎、熱田、名古屋、奈良、河内を辿って大阪に入ります。
 貞享5年(1688年)4月19日、大阪を発って、尼崎から船で兵庫津へ。
 平清盛、福原京ゆかりの「経の島」、「清盛石塔」、「和田の笠松」、「遠矢の浜」、平忠度の「腕塚」、会下山の東方、東尻池の松林にあったとされる「内裏屋敷」などを見て、兵庫で宿をとります。
                                       (右写真:芭蕉も見た清盛石塔)

(在原行平ゆかりの松風村雨堂)
 この方面への旅は、「須磨」が目的であったようです。『笈の小文』も、奈良・大阪から一気に飛んで須磨を取上げています。翌4月20日、芭蕉は念願の西国における万葉歌人や源氏物語などの文学や、源平合戦など歴史の地、須磨にやって来ます。
 『「月はあれど 留主のやう也 須磨の夏」
  「月見ても 物たらはずや 須磨の夏」
卯月中此の空も朧に残りて、はかなきみじか夜の月もいとゞ艶なるに、山はわか葉にくろみかゝりて、ほとゝぎす鳴き出づべきしのゝめも、山はわか葉にくろかみかゝりて、・・・
 「海士(あま)の顔 先(まず)見らるゝや けしの花」
東須磨、西須磨、浜須磨と三所にわかれて、あながちに何わざするともみえず。「藻塩たれつゝ」
(須磨に流されていた時に詠んだ在原行平の歌。源氏物語にも引用されている)など歌にもきこへ侍るも、いまはかゝるわざするなども見えず。・・・

(須磨の関跡の碑)
 けれども芭蕉は、また、紫式部の『源氏物語』の須磨の巻を引用して、やはり須磨は秋の季節がいい、と心を残している。
 『「かゝる所の秋なりけり」(源氏物語より)とかや。此の浦の実(まこと)は秋をむねとするなるべし。かなしささびしさいはむかたなく、秋なりせばいさゝか心のはしをもいひ出づべき物をと思ふぞ、・・・
 謡曲で有名な「松風村雨堂」、「須磨の関屋跡」、源義経の逆落しと平家との激戦地「一ノ谷」や 「鐘懸松」、念願だった「鉄拐山」に地元の童子(16歳と言った里の子の4つばかり弟)の道案内で登山を敢行。

(鉢伏山に登る須磨浦ロープウェイ)
 『猶むかしの恋しきまゝに、てつかひが峯にのぼらんとする。・・・羊腸険阻の岩根をはひのぼれば、すべり落ぬべきことあまたたびなりけるを、つつじ・根ざさにとりつき、息をきらし、汗をひたして・・・
 『淡路島、手にとるやうに見えて、すま・あかしの海、左右にわかる。・・・又、後の方に山を隔てて、田井の畑といふ所。松風村雨ふるさとといへり。尾上につづき、丹波路へかよふ道あり。鉢伏のぞき・逆落など、おそろしき名のみ残で、鐘懸松より見下に、一の谷内裏やしき、めの下に見ゆ。

(一の谷の古戦場跡の碑)
 源平合戦の古戦場に立って、滅亡に向けて敗走を余儀なくされた平家一門、二位の尼(清盛の妻)と皇子(安徳天皇)の悲劇に思いを馳せている。
 『其の時のさはぎ、さながら心にうかび俤につどひて、二位のあま君皇子を抱き奉り、女院の御裳に御足もたれ、船やかたにまろび入らせ給ふ御有さま、・・・千歳のかなしび此の浦にとどまり、素波(しらなみ)の音にさへ愁ひ多く侍るぞや。

(平家の悲劇を語る敦盛塚)
 『須磨のあまの 矢先に鳴くか 郭公
 『ほととぎす 消行(きえゆく)方や 島一つ
 『須磨寺や ふかぬ笛きく 木下やみ
 『かたつぶり 角ふりわけよ 須磨明石』・・・(『庚午紀行』=笈の小文の別稿、から)
 鉢伏から下って明石方面を廻って「人丸塚」、須磨に戻って「敦盛塚」、「須磨寺」を訪ねている。須磨寺には敦盛首塚、義経腰掛松、弁慶の鐘などが残り、敦盛の「青葉の笛」は拝観料が高価につき見ないとしている。

(須磨寺)
 『須磨寺のさびしさ、口を閉たるばかりに候。蝉折・こま笛、料足十疋(銭百文)、見るまでもなし(友人への書簡より)
紀行文では翌21日に須磨、明石を見たように記して『笈の小文』を記述を終えているが、紀行向けの脚色で須磨に戻って泊ったようです。
 『蛸壺や はかなき夢を 夏の月
友人への書簡から実際は、前日の20日には終えて須磨にて宿している。
須磨にて泊。
 須磨、明石見物の後は、『更科紀行』へと続く。4月21日、須磨の宿を発って、楠正成のお墓「良将楠が塚」に詣で、
 『なでしこに かかるなみだや 楠の露
を詠んだとされる。次いで生田の小野坂を越え、「布引の滝」に登って、「能因の塚」や金竜寺の「入相の鐘」を見て、
 『有難き すがた拝まん かきつばた
と詠む(友人への書簡より)。古代の悲恋を伝える「求塚(処女塚)」を訪れて、その後京都を目指して東へ向いました。
                                                      (2013年4月)

(布引の滝)

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