宮本武蔵は生国播磨の武士なり
 (郷土史の談話 52)
宮本武蔵は生国播磨の武士なり
 江戸時代から、歌舞伎・浄瑠璃等の演劇、読本に取り上げられ、現在でも小説や漫画、映画・TVドラマなどに登場してきた剣聖宮本武蔵。剣術家・武道家・兵法者のみならず芸術家としての事績は伝わっているが、出生その他詳しいことは諸説あってそれほど定かではありません。
●諸説について

宮本武蔵・伊織の像「文武両道」
(高砂市米田町の来迎山西光寺境内にて。富山県在住の喜多敏勝氏制作)
(1)生年は
 宮本武蔵自身の著書『五輪書』(1645年作)の記述から算定すると、1584年(天正12)となる。武蔵の伝記『二天記』にも、天正12年2月播州に生れたとする。また、武蔵の養子伊織の子孫が江戸後期(1846年)に記した小倉宮本家系図の『宮本氏正統記』には、1582年(天正10)生まれとなっている。やはりここは、本人著述の1584年の方が確かと思われます。
 ※『五輪書・地の巻』より
  「生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十」
   ・・・1645年から59歳(数え60歳)を引けば、生年は1584年となります。
 ※『二天記』より
  「天正十二年二月播州に生まる」
 ※『宮本氏正統記』より
  「天正十年(1582年)壬午の生まれ、正保二年(1645年)享年六十四」
2)出生地は
 出生地を記した資料としては、『五輪書』に「生国播磨」、播磨の地誌『播磨鑑』(1762年作)に「揖東郡鵤ノ庄宮本村ノ産ナリ」、武蔵の養子伊織が寄進した播磨の泊神社の棟札に「播州印南郡河南庄米堕邑に居し、・・・作州の顕氏に神免なる者有り、無嗣にして・・・家を承くるを、武藏掾玄信と曰す」、『二天記』に「播州に生まる」とあり、もう一つは、江戸後期の地誌『東作誌』に、「美作国宮本の人」とあります。
 このうち、『東作誌』については、吉川英治氏の小説『宮本武蔵』に取り入れられたために広く知られることとなったが、他の史料との非整合性多く、個人著書の感あって、ほとんど否定されています。やはり、伊織の棟札等の武蔵関係資料も多い「播州印南郡河南庄米堕邑(高砂市米田)」か、『播磨鑑』でいう「揖東郡鵤ノ庄宮本村(揖保郡太子町宮本)」かは別として、自著『五輪書』にいう「生国播磨」は間違いないと思われます。

宮本武蔵生誕之地碑
(揖保郡太子町(旧宮本村)の石海神社境内

宮本武蔵産湯井戸
(生家跡と伝わる石海神社西の宮本武蔵公園内

宮本武蔵生誕地碑
(高砂市米田町。元細川首相の父君の揮毫による)

田原・宮本父祖の地碑
(伊織・武蔵の元赤松一族代々の地で、田原家を名乗っていた)
 ※『五輪書・地の巻』より
  「生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十」
 ※『播磨鑑』より
  「宮本武蔵、揖東郡鵤ノ庄宮本村ノ産ナリ」
 ※『二天記』より
  「天正十二年二月播州に生まる」
 ※『東作誌・宮本武蔵傳』より
  「宮本武蔵ハ美作國英田郡讃甘村大字宮本ノ人(舊吉野郡宮本村)」
 ※泊神社棟札より
  「播州印南郡河南庄米堕邑に居し、子孫世々、此に産せり・・・作州の顕氏に神免なる者有り、天正の間、無嗣にして筑前秋月城に卒す。遺を受け家を承くるを、武藏掾玄信と曰す。後に宮本と氏を改む。亦た無子にして、以て余(伊織のこと)、義子と為る」
●宮本武蔵の略記について
 それでは、『五輪書』や龍野御坊圓光寺史料などから、宮本武蔵の生涯をトレースしてみましょう。
(1)1584年(天正12)3月、播磨の印南郡米田村(高砂市米田町)もしくは揖東郡宮本村(太子町)に生まれた武蔵(幼名、辯助)は、5歳にして1588年(天正16)に美作(岡山県大原町)の平田家(新免家)に養子に行ったとされています。義父無二斎が武蔵7歳のときに亡くなり、義母よしこが佐用町平福(義母のお里)の田住家に再嫁したため、武蔵は義母のいる平福の正蓮庵に預けられ、幼少時代を過ごしました。

正蓮庵
(佐用郡佐用町平福。武蔵が幼少の頃に預けられた)

宮本武蔵決闘之地碑
(同平福。新当流兵法者の有馬喜兵衛と決闘して勝った)
(2)武蔵13歳のとき、1596年(慶長1)、佐用平福(佐用郡佐用町)で新当流の兵法者、有馬喜兵衛に勝ち、1597年(慶長2)に多くの剣士の集まる龍野の圓光寺に旅装を解き、2年間修練。後、武者修行に出て但馬の兵法者、秋山新左衛門に打ち勝ちました。
(3)1600年(慶長5)の関ヶ原の合戦に、17歳で、父新免氏と共に東軍側の黒田官兵衛に従って九州に出陣した模様。龍野圓光寺に戻り、圓光流の兵法を学び、自分の兵法を圓明流と名付けました。

龍野御坊「圓光寺」
(たつの市龍野町)

宮本武蔵修練之地碑
(同、圓光寺境内)
(4)1604年(慶長9)、京都にて吉岡一門と三連戦の戦いをして勝ちます。この吉岡一門との決闘伝説については諸説ありますが、現在も活劇として取り上げられ、第3戦で100人近い吉岡勢に闘い勝ったのも二刀流の成果と言われています。
(5)翌年、圓光寺に戻った武蔵は、奥座敷で瞑想しながら兵法書『兵道鏡』全文28条を纏め、地侍の落合忠右衛門に「圓明一流の兵法」の印可状を与えます。そして圓明一流を二天一流と改めました。
その後また武者修行に出かけます。そのうち、佐々木小次郎を想定した鍛錬にのために圓光寺を訪れた模様。そして、関門海峡にある舟島(巌流島)で、1612年(慶長17)4月13日、佐々木小次郎と試合をして勝ったのは有名です。
(6)大坂の役(1615年・元和1)に徳川方水野氏の客将として出陣、活躍した。その後、東軍流の三宅軍兵衛と龍野城下で試合を勝つ(1617年・元和3)。この頃、圓光寺で武芸を指南し、多田頼祐に免許を与えたりしている。
(7)その後、姫路城主の本多忠刻の近習として武蔵の養子、三木之助を支えさせたり、明石城の小笠原忠政の客分として明石に住み、明石城下の町割り、城や寺院の作庭をしたとも伝わる。また、神道夢想流の夢想権之助と試合。1624年(寛永3)、播磨の田原久光の次男伊織を養子に迎え、明石城主小笠原氏に出仕させる。

宮本武蔵庭園(明石公園内)
(明石城内に武蔵が作庭した)

宮本武蔵庭園(明石公園内)

宮本武蔵庭園(明石公園内)
の見取り図

西光寺の「五輪之庭」
(庭園研究家の西桂氏が五輪
の趣旨を生かして作庭)
(8)島原の乱(1638年・寛永15)に中津城主の後見で出陣。小倉滞在中に、宝蔵院流槍術の高田又兵衛と試合。
(9)1640年(寛永17)、熊本城主細川忠利に客分として熊本に招かれ、熊本城東部の千葉城に屋敷を構える。3年後、熊本近郊の金峰山に岩戸霊厳洞で『五輪書』の執筆にとりかかり、2年後の1645年(正保2)、書き終えて、千葉城の屋敷で亡くなりました。享年60歳。
 播磨に生まれ、生涯の3分の2ほどを播磨を拠点に活躍した宮本武蔵は、「文武両道」を表して当時の武士が理想とし、現代でも尚、著書『五輪書』はビジネス・処世指南書として多くの人に読まれています。(2014年1月)
※『五輪書・地の巻』より
生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十。我若年の昔より兵法の道に心をかけ、十三歳にして始て勝負をす。其あひて新當流有馬喜兵衛と云兵法者に打勝、十六歳にして但馬國秋山と云強力の兵法者に打かち、二十一歳にして都へのぼり、天下の兵法者に逢、数度の勝負を決すといへども、勝利を得ざると云事なし。其後國々所々に至り、諸流の兵法者に行合、六十餘度迄勝負をすといへども、一度も其利をうしなはず。其程、年十三より二十八九迄の事也。われ三十を越て跡をおもひミるに、兵法至極してかつにハあらず。をのづから道の器用ありて天理をはなれざる故か、又ハ、他流の兵法不足なる所にや。其後、猶も深き道理を得んと、朝鍛夕錬して見れバ、をのづから兵法の道に逢事、我五十歳の比也。それより以來は尋入べき道なくして光陰をおくる。
※泊神社棟札より
余の祖先、人王六十二代・村上天皇第七王子、具平親王より流伝して、赤松氏に出づ。高祖〔赤松〕刑部大夫持貞に?〔いた〕りて、時運振はず、故に其の顕氏を避け、田原に稱を改め、播州印南郡河南庄米堕邑に居し、子孫世々、此に産せり。
曽祖、左京太夫貞光と曰す、祖考、家貞と曰す、先考、久光と曰す。貞光より来りて、則ち相継て小寺其甲の麾下に属す。故に筑前に於て子孫、今に存るを見る。
作州の顕氏に神免なる者有り、天正の間、無嗣にして筑前秋月城に卒す。遺を受け家を承くるを、武藏掾玄信と曰す。後に宮本と氏を改む。亦た無子にして、以て余、義子と為る。故に余、今其の氏を稱す。
余、結髪の比、元和の間、信州生仕の小笠原右近大夫源忠政、播州明石に主し、今又、豐の小倉に従ふ也。
然れば、木村・加古川・西宿村・船本村・(西河原村)・友澤村・稻屋村・古新村・上新村・米堕・(内又 今在家村・小畠村・奥野村・北河原村)・中嶋・鹽市・今市、総じて十七邑の氏神、泊大明神と號し奉れり。故老の傳へ云ふ所、紀伊日前神を勧請し奉る也。而して、米堕、又別に菅神を崇れり。
近歳、二社共に殆ど頽朽す。余、一族と深く之を嗟く。故に、一に君主の家運榮久を奉祈し、一に父祖世々の先志を慰まむと欲す。
而れば謹みて告ぐ。家兄・田原吉久、舎弟・小原玄昌、及び田原正久等、匠事を幹せしめて、今已に新二社を得たり。
夫れ、神の威嚴、人の之を天に得るに、一として具らぬ無し。所謂、心稱誠道、是なり。爾れば則ち、縱ひ祈らずと雖も、而して神護知る可し。然れども、常人の質、皆、天徳を掩ひて、其の初の如く肆に純一懇丹なる能はず。祈運し志を継ぐ。仰冀ば神人の感通有らんか。
其の玄昌、小原を以て氏と為すは、攝州有馬郡小原城主・上野守源信利、其嗣・信忠、余を生せる母一人にして男無く、天正の間、播州三木城主・中川右衛門大夫麾下に属し、高麗に到りて戰死せり。故に、母命じて、玄昌に其氏を継がせしむ、と云ふ。
時に承應二癸巳暦五月日、宮本伊織源貞次、謹白。

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