神戸市街山麓から大量出土した桜ケ丘銅鐸・銅戈
  (郷土史にかかる談話 65)
神戸市街山麓から大量出土した「桜ケ丘銅鐸・銅戈」  

山中の発見地点から1.2km下がった登り口に立つ桜ケ丘銅鐸発見の地碑
  桜ケ丘銅鐸と銅戈は、1964年(昭和39)12月10日、神戸市灘区の桜ケ丘町、旧地名「墓ヶ平」通称「神岡」と呼ばれていた六甲山南麓の土取り場で、壁土用土砂を採取しようと掘削作業をしていた建材店員によって偶然発見され、掘り出されました。事務所に持ち帰り並べて、翌日相談を受けた近隣小学校の先生から教育委員会に一報。考古学の専門家たちが急遽駆けつけ、大騒ぎとなりました。世紀の一大発見だったのです。
 発見された地点は、現在の神戸大学の東側の一王谷、親和高校・中学校の北側背後の尾根の稜線から少し下った斜面で、並べて埋納されていました。埋納地の痕跡は残されていませんでしたが、その後の発見時の事情聴取、各種調査から埋納状態が復元されました。銅鐸は吊り手(鈕)が谷側へ、鰭を上下に立てた状態でびっしり置かれ、2段あるいは3段に俵積みされていたようで、
最も大きな銅鐸(6号)は鰭を水平に、東側に3組の銅鐸と、下部に7本の束ねられた銅戈が埋納されていました。
 当時は、麓の親和女子高校中学校や神戸市立外国語大学から上は鬱蒼とした雑木林で、正に「山中」でした。

桜ケ丘銅鐸銅戈が発見された山麓を望む

桜ケ丘銅鐸銅戈発見地点図(『兵庫県文化財調査報告・神戸市・桜ケ丘銅鐸銅戈調査報告書』より)
 現在は、数100mの登山道入口まで住宅開発が進み、眺望の良いハイランドになっています。そもそも、銅鐸等は、昔の住環境から離れた「住む人を見守る」雰囲気の地に埋納されたように思われ、現在まで開発の手が届きにくかった地において発見されるケースが多い。
 銅鐸が地中埋納された理由は判明していません。銅鐸埋納場所や埋納の仕方には一定の決まりがあったようで、国内各地でも認められることから、銅鐸のまつりとの係わりで意識的に行われたと考えられます。
 銅鐸の埋納には、@墳墓から副葬品として発見されない、A住居跡内ではない、B埋納場所でのまつり(祭祀)の痕跡なし、C埋納穴は収納範囲のみで近隣に施設跡がない、D埋納土層を掘り返した形跡がない、などが観察されています。その理由については、@廃棄説(銅鐸のまつりが終り不要となって地中に埋めた)、A土中保管説(聖域の地中に埋めて保管しまつり時に掘出し使用した)、B隠匿説(銅鐸を地中に隠した)、C境界埋納説(生活していたムラの境界に埋納し邪悪なももの侵入を防いだ)、などあります。
 ※神戸市立博物館展示の桜ケ丘銅鐸14個・銅戈7個(撮影許可)
●14個の桜ケ丘銅鐸
銅  鐸
備考
形式
文様
総高cm
裾底cm
重量kg
1号銅鐸
外縁付鈕1式
流水文
42.5
21.2
5.88
絵画。鈕のつけ根舞部に欠陥多い。舞に故意に穿孔した穴あり。
2号銅鐸
外縁付鈕1式
流水文
42.0
22.0
4.85
絵画。身の片面に湯境い多い。舞部に欠陥、身の欠陥部鋳掛。
3号銅鐸
外縁付鈕2式
横型流水文
45.0
23.8
4.64
裾型持穴にタガネの痕あり、下部流水紋線刻。
4号銅鐸
扁平鈕式・新段階
六区袈裟襷文祖型
42.0
21.6
3.34
絵画。格子紋区画内にはみでている、底部タガネではつっている。
5号銅鐸
扁平鈕式・新段階
六区袈裟襷文祖型
39.2
19.5
2.62
絵画。
6号銅鐸
扁平鈕式・新段階
六区袈裟襷文
64.5
34.0
14.10
鰭の欠損部の破面より材質は脆い。
7号銅鐸
扁平鈕式・新段階
六区袈裟襷文
42.0
22.8
2.96
鰭の損傷部、塑性変形している。
8号銅鐸
扁平鈕式・新段階
六区袈裟襷文
43.0
22.2
3.30
下部損傷部塑性変形。
9号銅鐸
扁平鈕式・新段階
六区袈裟襷文
43.0
22.6
3.72
欠損部塑性変形している。
10号銅鐸
扁平鈕式・新段階
六区袈裟襷文
43.5
22.2
3.23
 
11号銅鐸
扁平鈕式新段階・長者原型
四区袈裟襷文
44.5
23.4
4.13
上部に鋳かけ部分あり格子紋線刻、裾内部片面湯口と認められる部分あり。
12号銅鐸
外縁付鈕2式
四区袈裟襷文
31.0
15.6
2.60
 
13号銅鐸
扁平鈕式古段階・石井谷型
袈裟襷文
21.5
10.8
0.72
 
14号銅鐸
扁平鈕式新段階・亀山型
袈裟襷文
21.8
10.8
0.48
鐸身の片側中央部に故意に穿孔している。鈕と鐸身に鋳かけあり。
 ※『兵庫県文化財調査報告・神戸市・桜ケ丘銅鐸銅戈調査報告書』など より
●桜ケ丘銅鐸の絵画
 桜ケ丘銅鐸の最大の特徴として、14個のうち4個(1号・2号・4号・5号)に絵画が描かれています。
 1号銅鐸、2号銅鐸には上部に帯状に描かれています。1号銅鐸には、人のほかに鹿やトンボ、カメなど。2号銅鐸には、人や鹿など。 4号銅鐸A面には、弓矢の人、クモ、猪(ウリボウ)、魚をくわえる鳥、鹿。同B面には、動物と虫のみで、クモ、トンボ、スッポン、イモリ、カスミサンショウウオなどが描かれています。 5号銅鐸A面には、蛙、蛇、人物、カマキリ、クモが、 同B面には、魚をとる人(?)、イモリ、トンボ、スッポン、鳥が描かれています。
 描かれた絵には、種々の解釈がされていますが、古代の弥生人の生活を表して、しかも、狩猟豊猟、豊穣を祈願して銅鐸を打ち鳴らしてまつりを行ったのではないか、と考えられています。

4号銅鐸
※『開館30周年記念特別展“国宝桜ケ丘銅鐸の謎に迫る”』
より

1号銅鐸

2号銅鐸

4号銅鐸A面


4号銅鐸B面

5号銅鐸A面

5号銅鐸B面
 ※『兵庫県文化財調査報告・神戸市・桜ケ丘銅鐸銅戈調査報告書』より
●桜ケ丘出土の銅戈
1号銅戈
2号銅戈
3号銅戈
4号銅戈
5号銅戈
6号銅戈
7号銅戈
全長cm
27.2
27.4
27.9
28.2
27.6
28.3
29.0
関長cm
11.6
11.7
11.6
11.6
10.9
11.1
11.1
【参考】銅鐸の形式分類
形式
鋳型
時代
形式例
菱環鈕式
1式
石製鋳型
弥生時代前期(紀元前3〜前2世紀)
菱環鈕式
外縁付鈕式
2式
外縁付鈕式
1式
弥生時代中期(前2世紀)
2式
弥生時代中期(前1世紀)
扁平鈕式

古段階

弥生時代中期
(前1世紀〜後1世紀初頭)
新段階
土製鋳型
扁平鈕式
突線鈕式
突線鈕式
1式
弥生時代後期(後1世紀)
2式
弥生時代後期(後1世紀後半〜2世紀)
3式
4式
5式
弥生時代後期(後2世紀末まで)
 銅鐸・銅戈の埋納の時期、動機など、未解明な事柄が多く、これからも発見発掘の機会が相次ぐこと、調査研究が進んでその謎が明らかになることを期待します。(2016年1月)
 なお、銅鐸等出土地点の特定は、当該地の掘削等工事があり、近隣に立っていた関西電力の鉄塔も移転されたなどの経緯があって、長年にわたってできませんでした。最近、地元の毎日登山の愛好家たちの活動のお陰で、神戸市が「国宝桜ヶ丘銅鐸・銅戈群出土地 周辺案内図」の看板が設置されています。今後、出土地への登山道や標識なども整備されます。(2024年月)
※参考資料:@『兵庫県文化財調査報告・神戸市・桜ケ丘銅鐸銅戈調査報告書』昭和47年9月兵庫県教育委員会、A『国宝桜ケ丘銅鐸・銅戈』2000年3月神戸市立博物館、B『開館30周年記念特別展“国宝桜ケ丘銅鐸の謎に迫る”』平成24年7月神戸市立博物館、『弥生時代の青銅器研究とひょうごの遺跡〜桜ケ丘遺跡を中心に〜』2015年10月難波洋三 ほか
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(64)淡路島から最古級の「松帆銅鐸」
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