浮世絵師「東洲斎写楽」は齋藤十郎兵衛にあらず、写楽一考察
  (郷土史にかかる談話 66)
浮世絵師「東洲斎写楽」は齋藤十郎兵衛にあらず、写楽一考察 

東洲斎写楽画
 江戸時代の中頃、1794年(寛政6)5月に浮世絵界にデビュー、翌1795年(寛政7)3月までの10か月間、従来と違う役者の特徴を誇張したダイナミックな作風で役者絵を世に送りだした浮世絵師の東洲斎写楽。
 作品のすべてを版元の蔦屋重三郎の店より出版、その短い創作期間にもかかわらず、おおむね140余点の絵が伝わる。どの家元にも属さず、経歴はおろか、出身地や生年、没年もすべてはっきりとせず謎だらけ、忽然として登場し忽然と筆を断ち消息を抹殺した稀代の浮世絵師である。
 後年、写楽の正体を求めて、多くの人物が取り沙汰されてきた。当時の有名な文化人の成り済ましとして、版元の蔦屋重三郎自身とか、はたまた別の浮世絵師の歌川豊国、葛飾北斎、喜多川歌麿、絵師の司馬江漢、谷文晁、円山応挙、劇作家の山東京伝、十返舎一九、能役者の斎藤十郎兵衛、歌舞伎役者や洋画家や俳人までが人々の言の葉に乗ってきた。いずれも、決定的な古文書等が伝わっていないからであった。
 ところが、新たな古文書の発掘や最近の研究によって、古文書等での裏付けが無く候補の一人でしかなかったある人物、阿波藩のお抱え能役者、斎藤十郎兵衛が、一定期間、写楽を名乗っていたとすれば辻褄が合う点が多くクローズアップされ、正体説が主流を占めている。
 写楽は阿波國能役者斎藤十郎兵衛であった、とこれで結論付けていいのであろうか。古文書の記録で、明確に写楽イコール斎藤十郎兵衛とするものはない。写楽の活動終焉(断筆?)の25年〜50年後に、四方山話的な伝聞情報として記されているだけである。そのほか、東洲斎写楽と写楽斎は同一人物か別人か、などなど多くの疑問点は残る。
 写楽に関係すると思われることを年表に並べてみれば、斎藤十郎兵衛以外にも可能性のある浮世絵師が存在することに気が付かれるでしょう。

東洲斎写楽画

東洲斎写楽画

東洲斎写楽画
●「写楽」関係年表
(1)鳥居清政のこと(写楽デビュー前)

和暦
内容
出典
1761年
宝暦11
斎藤十郎兵衛生れる。 @『重修猿楽伝記』
1776年
安永5
鳥居清政(四代目家元の鳥居清長の子)、生れる。 A 『劇雅集』
1788年
天明8
鳥居清満(清政の師匠、三代目家元)の娘婿松屋亀次郎に庄之助が生れる。 A 『劇雅集』
1792年
寛政4
四代目家元鳥居清長の息子鳥居清政、浮世絵師デビュー。 A 『劇雅集』
1793年秋
寛政5
鳥居清政、断筆。 A 『劇雅集』
(2)写楽のデビュー
和暦
内容
出典
1794年4月
寛政6
斎藤十郎兵衛の能「宝生座」任務終了。 B『写楽・考』
1794年5月
寛政6
斎藤十郎兵衛の能「宝生座」非番(1年間)。 B『写楽・考』
1794年5月
寛政6
写楽、浮世絵師デビュー。鳥居清政、満18歳。  
1795年2月
寛政7
写楽、10か月で断筆。  
1795年4月
寛政7
斎藤十郎兵衛の能「宝生座」非番終了。 B『写楽・考』
1795年
寛政7
松屋亀次郎の男(息子)庄之助(8歳)(鳥居清長の師、三代目家元鳥居清満の孫)が鳥居清長に入門、養子縁組して鳥居清峰。その時、鳥居清政20歳(満19歳)。 A 『劇雅集』
1799年
寛政11
斎藤十郎兵衛、八丁堀地蔵橋に居住開始。 C『浄土宗本願寺派今日山法光寺(埼玉県越谷市)の過去帳』
(3)齋藤十郎兵衛のこと(写楽断筆後25〜50年)
和暦
内容
出典
1817年
文化14
鳥居清政死去(11月4日)、享年42歳。 A 『劇雅集』
1818年
文政元
「八丁堀」の欄に、浮世絵師の印の付いた「号写楽斎、地蔵橋」とある。  D 『諸家人名江戸方角分』
1820年
文政3
「八丁堀、阿州内、斎藤十郎兵衛、58歳で死去(3月7日)、先住にて火葬」。  C『浄土宗本願寺派今日山法光寺(埼玉県越谷市)の過去帳』
1821年4月
文政4
式亭三馬による、「異本(『諸家人名江戸方角分』)にて写楽の居を八丁堀」と書き込み。 E坂田文庫本『浮世絵類考』
1821年〜
1844年
-
「写楽は、阿州の士、斎藤十郎兵衛という栄松斎長喜老人(蔦屋版元の浮世絵師)の話」と加筆。 F『浮世絵類考(達磨屋伍一旧蔵本)』
1844年
天保15
「写楽、天明寛政年間の人、俗称斎藤十郎兵衛、居八丁堀に住す。阿波候の能役者也。号東洲斎」との記載がある。 G『増補浮世絵類考』
【参考資料】出典
@『重修猿楽伝記』、能役者の伝記で、「斎藤十郎兵衛は1761年(宝暦11)の生れ」、とある。
A『劇雅集』鳥居忠長(兼子伴雨)著、1902年(大正2)に鳥居家七代当主の清忠が門人た忠長に頼んで纏めさせた 鳥居家系・事蹟の集大成。
B『写楽・考』内田千鶴子著。
C 『浄土宗本願寺派今日山法光寺(埼玉県越谷市)の過去帳』、(1997年発見)、齋藤十郎兵衛の菩提寺の過去帳。
D 『諸家人名江戸方角分』。江戸の文化人名録、1818年に竹本が太田南畝に届けた。(1977年発見)
E 坂田文庫本『浮世絵類考』の写楽欄に居について、式亭三馬が「異本(『諸家人名江戸方角分』?)に、八丁堀」と記す。
F 『浮世絵類考(達磨屋伍一旧蔵本)』で、栄松斎の「写楽は阿州の士齋藤十郎兵衛」との話。
G 『増補浮世絵類考』考証家斎藤月岑が編集、1844年。
●写楽は誰? 一考察
 年表を追ってみれば、斎藤十郎兵衛が八丁堀地蔵橋に住み、写楽斎も地蔵橋に居を構えていたことが、写楽断筆後概ね25年後に、また、50年後の古文書に「写楽」「東洲斎写楽」は斎藤十郎兵衛だとの記述が出てくる。斎藤十郎兵衛は阿波藩お抱えの能役者で「士分」であり、浮世絵師兼業はご法度故の正体不明のペンネームを名乗っていたとされ、彼の死後に正体が明かされたこと、また、能の非番中1年間に創作活動したというのも理屈に合う。
 ところが、ちょっと待ってほしい。

鳥居清政画

鳥居清政画
 写楽登場の直前まで、才能豊かな浮世絵師鳥居清政が活動していたではないか。鳥居家四代目の鳥居清長の御曹司で、家元を継承する未来の五代目として順調な出版が続いていた。それが、父(四代目)の師匠の孫(庄之助)が養子鳥居清峰として鳥居家に入ることで、父は五代目を自分の師匠の孫にするためか、息子の清政を断筆させ、鳥居家の浮世絵師から外している。有能な人気もあった新進の浮世絵師が突然いなくなってしまったのである。
※鳥居忠長(兼子伴雨)『劇雅集』より「松屋亀次郎の男・庄之助、即ち清満の孫が八、九歳にして清長の門に入るに及び、将来鳥居画家継承についての紛糾を避ける為に、清長は己れの一子・清政が二十歳(数え)になり、浮世絵画家として世に知られていたのを其彩管を折らせた」
 家元継承問題とはいえ、不憫に思い、その腕を埋もれさせてしまうことを惜しんだ版元の蔦屋重三郎が、版元間の出版競争の切り札として、鳥居清政を斬新な画風で覆面の浮世絵師「東洲斎写楽」として密かに世に出したのではなかろうか。
 この説を初めて主張されたのは神戸の有名な浮世絵コレクターの中右瑛さんで、著書『写楽は十八歳だった!』にてその可能性を指摘された。
  探偵推理小説ではないが、その前提(鳥居清政の写楽説)で関係年表を見直すと、いろいろなことが見えてくる。
確かに、阿波國の能役者斎藤十郎兵衛は江戸八丁堀地蔵橋に居住していた。また、八丁堀地蔵橋に「写楽斎」という浮世絵を描く人が居た。だからと言って、斎藤十郎兵衛イコール写楽斎と明記されていない。しかし、浮世絵を趣味としていた斎藤十郎兵衛が鳥居清政(ひょっとして同じ八丁堀内に居住?)に師事し、「東洲斎写楽」のパロディ・ペンネームとして「写楽斎」を貰っていた可能性も捨てきれない。鳥居清政が亡くなった3年後に斎藤十郎兵衛も死亡。この頃より、「写楽」は八丁堀居住との情報が登場して、遂には「写楽」は、 「阿州(阿波國)の人、俗称は斎藤十郎兵衛、八丁堀に居住していた阿州の能役者、号を東洲斎」との記述が両者の死後25年後頃に出てくるのである。要するに「東洲斎写楽」と「写楽斎」を混同しているのではないか。そうなれば、斎藤十郎兵衛は「写楽斎」であって「東洲斎写楽」ではなく、版元蔦屋重三郎によって登場した覆面の浮世絵師「東洲斎写楽」とは鳥居清政であった、と考えてもよいのではないか。秘密裏に斬新な画風の役者絵師として世に出したものの、モデルとなった役者たちからは真実すぎるとして歓迎されず、画風も一般的なものに移り変わって商売・人気に影響が出始めたので、1年足らずで蔦屋が覆面浮世絵師「写楽」に幕を下ろさせたのではないか。
 斎藤十郎兵衛に「写楽斎」というパロディ・ペンネームを与えたのも、両者の死後に栄松斎長喜老人(蔦屋版元の浮世絵師)に偽りの情報を流させたのも、鳥居清政が「東洲斎写楽」であったことを永遠の闇に留めておくために、「写楽」登場の時から描いていた蔦屋重三郎の仕掛けた秘密工作だったのではないでしょうか。(2016年3月)
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FMわいわい番組「ゆうかりに乾杯」放送記録
(89) 浮世絵の収集と謎を追って!
(2014年11月放送)
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