鑑真和上の来日に命をかけた留学僧“栄叡大師”ここに眠る(中国)
 
ツーリズム関連のレポート・エッセイ集 7)
鑑真和上の来日に命をかけた留学僧“栄叡大師”ここに眠る(中国)
『香港駐在生活・こぼれた話こぼれなかった話』より
中嶋邦弘 著
2002.2.1、神戸新聞総合出版センター 発行
 中国広東省肇慶市で開催された同市と兵庫県芦屋市との交流事業「日中書画展」に招待され、開会式での挨拶のみならず、満場注視、テレビ中継の中で記念の揮毫をさせられて大汗を掻いた日の午後、鑑真和上(がんじんわじょう)ゆかりの寺へ案内するというお誘いに、長く忘れていた画面が蘇る。そうだ、ここは鑑真和上一行が日本への渡航に失敗し揚州に戻る途中に立ち寄った地ではないか。
 肇慶市郊外、鼎湖山の麓の駐車場で降り、「林海」と称せられるほど珍しく木々が鬱蒼と繁った山道を息を弾ませながら登っていく。途中、忽然と現れる見事な滝「飛水潭」の清涼感に気を持ち直してさらに険しい参道を行く。やがて慶雲寺本堂の手前、立派な亭(堂)内に参道が導かれる。亭内に入り、踏み入れる参詣者に大きく対峙する石碑「日本入唐留学僧榮叡大師記念碑」の前に立つ。ああ、これがあの榮叡(ようえい)大師の碑か。
 752年に、長安(陝西省西安市)の都を目指す遣唐使の藤原清河、副使の大伴古麻呂や吉備真備の一行は、揚州(江蘇省)で普照大師の訪問を受け、長安の都で717年に入唐していた阿部仲麻呂と合流。玄宗皇帝から鑑真和上の渡航の許しが得られないまま、753年10月、日本に向けて3隻の遣唐使の船が蘇州(江蘇省)の港を出航する。
 今を去る約1270年前、紀元733年、遣唐使に随伴して中国に渡った奈良興福寺の榮叡大師は、同僚の留学僧 普照大師と共に洛陽(河南省)の大福先寺で修業を積む。 742年、陽州(江蘇省)の大明寺に唐の高僧 鑑真和上を訪ね、日本への戒律伝法の渡来を懇請する。 鑑真和上の一行は、743年に2回、744年に2回、日本に渡ろうとして、密告や嵐のために失敗。その後、748年に厳重な監視のゆるんだ隙に5回目の出航を果たすが、またも、嵐に遭い、14日の漂流の後、海南島(海南省)にたどり着く。
(左写真:元龍興寺と伝わる慶雲寺。“天平の甍”?)
 そこで、しばらく布教を続けるが、鑑真和上は失明し、やがて唐の揚州に戻る途中、749年、榮叡大師は端州、有名な「端渓(たんけい)の硯(すずり)」の産地で現在は広東省肇慶市、の龍興寺において病没することになる。
 第1船には藤原清河と阿部仲麻呂、第2船には大伴古麻呂と密航する鑑真和上とその弟子たち、第3船には吉備真備と普照大師が乗っていたが、途中大嵐に遭遇して、真備と普照大師の船は紀伊国(和歌山県)に、鑑真和上一行と古麻呂は薩摩国(鹿児島県)から瀬戸内海を難波津(大阪府)へ着く。 清河と仲麻呂の乗った船は遠くベトナムにまで漂流し、2人はやっとの思いで戻った唐の都で一生を終えることになる。 日本へ渡った鑑真和上は、759年唐招提寺を建立、763年に亡くなるまでの間、戒律だけでなく医学、建築、彫刻などの技術を日本に伝えている。
 鑑真和上に伴って海南島から揚州に戻る途中、度重なる苦労に病を得、749年、和尚や同僚の普照大師らと故郷日本の都に立つその志し半ばにして、異国の地に帰らぬ人となった榮叡大師の心中は如何ばかりであったろうか。     この今はない龍興寺ゆかりの、現在の慶雲寺のある肇慶市内の鼎湖山は、禿げ山や砂漠、荒野が多い中国大陸には珍しい深山幽谷の風情を持ち、最近、政府が自然保護地域に指定したところ。 1963年、この寺に、鑑真和上の逝去1200年を期して榮叡大師の記念碑が中国仏教協会の会長の揮亳を得て建てられた。(左写真:中国広東省肇慶市の慶雲寺に安置された栄叡大師像)
 また、榮叡大師の出身地岐阜市や、奈良興福寺や唐招提寺との交流のなかから記念堂が建設され、榮叡大師像が安置されたのは、つい最近のこと。日中の国際交流の歴史の中で知られることの少なかった留学僧の一人、榮叡大師は、大自然のもとに、永久の眠りを続ける。 (中国1989年)
鼎湖山及び慶雲寺の写真(1989年当時)

慶雲寺のある鼎湖山の遊覧案内図

周辺の農業地区では水牛が貴重な動力

深山幽谷の趣きのある鼎湖山中の飛水潭(滝)

日本の留学僧栄叡大師の記念碑

今はない龍興寺ゆかりの慶雲寺

慶雲寺の大雄寶殿

慶雲寺の甍

栄叡大師像を祀るお堂

栄叡大師の紹介看板

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