絵葉書(13)「瀬戸内海に於ける源平の合戦(その1)」
『瀬戸内海に於ける源平の合戦(その1)』 (当研究館所蔵)
「瀬戸内海に於ける源平の合戦
(その1)」
長谷川小信、画
(1) 義経の鵯越え1
元暦元年2月6日義経公は夜陰に乗じて鵯越に向ふや、先弁慶に命じて道案内者を物色せしむ。 弁慶は彼方此方を辿り深き谷間に僅かに灯の見ゆる家に至り主の老翁に案内を命ず。 老翁曰く我老たり倅をして御伴申させんと言ふ。斯て待設けたる義経の前に伴ひ来る。 松明の明りに義経公はすかし見て逞しき若者なれば大いに喜び、直に太刀甲冑を玉はり鷲尾三郎義久と名乗らせて東道の役目を申付けられる。
(2)義経の鵯越え2
義久が案内、路なき路を上りつ下りつ7日払暁一の谷の頂上に至しも断崖絶壁にして人馬の下るべき路なし。義経は2頭の馬を源平に擬して追い下したり。然るに源氏の馬のみ遙かに下り得て勇しく嘶ければ、吉兆めでたし。一同続けと義経真先に駆下る。畠山重忠は馬を鎧の上に背負ひ、樵木を杖として徐ろに下りける。其強力一軍皆感歎せり。
(3)無官太夫敦盛の最後
無官太夫敦盛は唯一騎一門の船に乗移らんと波際より1町斗り乗入しが、折柄熊谷次郎直実に見られ、敵に後ろを見するは卑怯なり返し玉へと呼はれたり。敦盛は直に馬の首を返して討合ひけるが、遂に力及ばず熊谷の為に討たれたり。直実は討ち取りたる敦盛の首を打見て我子直家と同じ年頃の若武者なるに遙かに世の無常を感じて其首級を平軍に送り、卒然武門を打捨て仏門に入たりける。
(4)一の谷の合戦
義経の一軍一の谷を下り、隊伍を整へ白旗押立て平氏の城廓に攻入る。 平軍不意を食って馬に乗る隙もなく、口を取て逃るあり、後向に乗るあり、乱軍算をみだして海岸に走り船に乗らんとして海中に落込むなど、哀れにも又笑止なりけり。 源軍は城に火を放ちければ、折柄の西風に猛火天を焦して凄まし、なんといふ斗なし。
(5)薩摩守忠度の最後
薩摩守忠度は平家に聞ゆる文武兼備の大将なり。 今や一門の運盡きて落行く處を武蔵の住人岡部忠澄10数騎を従へ追付来る。 忠度は振返り討合ひて敵3騎を切り落し忠澄と亘り合ひ引組て取押へ既に忠澄を斬らんとせしを他の者馳せ付て忠度の右の腕を斬り落したり。 されど怯まず忠澄を左手にて2、3間斗り投退け、砂上に静に端座して念仏を高らかに唱へけるを忠澄は漸く立上りて遂に忠度の首を討落しぬ。
(6)一の谷、落城
一の谷も生田の戦も頼み甲斐なく討破られ、 一門悉く落行く中に新中納言知盛郷も一族と共に浜辺をさして落ち給ふを、源兵3騎追駆け来り。 今や危く成りければ、監物太郎振返りて一騎を射落す。2騎は益々追迫り来るを子息武蔵守知章、敵と引組み取て押へ、1騎を斬る。此時尚1騎の者落ち重って知章を討ち取る。 監物太郎は又此者を討斬り而して太郎も又重傷の為腹掻き切て死てけり。知盛郷は漸く身を以て逃れ、船に乗移り玉ふ。
(7)義経風雨を冒して四国に押渡る
元暦2年2月18日北風烈く吹ければ、摂津国渡邊に陣せし義経、帆を利用して四国に渡らんとす。然に水手揖取等風雨を恐て船を出さず。義経怒て伊勢三郎に首を斬れと命ぜしかば、彼等は驚て漸く船を出しぬ。及ち1番船の義経、2番船に畠山、3番土肥、4番和田、5番佐々木等何れも一騎当千の強者なり。義経の船にのみ篝を焚き、是を目標として怒涛を押切、僅か3時にして阿波國に着船せり。
(8)義経進軍の途平氏の使者を捕らふ
阿波に上陸せし義経の軍は勝浦の平軍を破り、讃岐の国境中山に至れる時、足早に行過ぐる一人の男あり。義経怪て呼止め、聞訊せば、屋嶋へ下る者と答ふ。義経詐て我々は平軍に馳加はる四国の武士なりと欺き、彼が平氏に源氏の動静を密告する使なる事を知り、直に路傍の大木に縛り置きて、急ぎ屋嶋へと押寄せたりき。

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