絵葉書(14)「瀬戸内海に於ける源平の合戦(その2)」
『瀬戸内海に於ける源平の合戦(その2)』 (当研究館所蔵)
「瀬戸内海に於ける源平の合戦
(その2)」
長谷川小信、先生画
原色版八枚組
(9) 佐々木盛綱、藤戸先陣
平家は屋嶋に城廓を構へ四国九州に威を振ひ、行盛を大将として備前国児嶋に陣せり。三河守範頼は室の津より藤戸に押寄せ、源平両軍海上4、5町を隔て対陣す。佐々木盛綱は浦人を語らひ浅瀬あるを聞取り、郎党15騎を率ひて海中に乗入り先陣を打ちければ、土肥梶原千葉の面々続て乗入対岸に駆上りて平軍を討破りければ、遂に児嶋城を捨て、屋嶋へと漕ぎ逃れける。
(10)那須與市扇を射る
源平は牟禮高松を落し、屋嶋城へと攻懸る。平氏は先帝以下殿上人等船にて沖合へと逃落給ふ。両軍共戦ひ労れて暫く息ふ折柄沖より一艘の船漕来り。檣頭高く紅に日の丸の扇をかざし玉虫の前てふ女房を乗て是を射およと指招きける。義経那須與市宗高に射よと命じ給ふ。宗高心に神を祈り日の丸を射るは恐ありと扇の要を見事に射切たり。敵も味方も射たり射たりと誉立ける。
(11)景清のしころ曳き
那須與市の功名に平軍も負けじと悪七兵衛景清等小舟に打乗り陸に上って戦ひを挑む。源軍の兵士等それ逃すなと打向ふ。武蔵の住人三保谷十郎名乗を上て切懸る。景清薙刀を揮ひ戦しが、三保谷遂に叶じと逃出せば、景清追ひかけ兜の錏(しころ)を攫みエ、ヤット曳く程に錏はちぎれて三保谷は逃げ行く。景清進み出しも其大力に恐て刃向ふ者なければ、悠々として引退きけり。

(12)義経、弓を流す
義経、勝に乗し馬の太腹迄騎入って戦ふ。越中次郎盛嗣船より熊手を下して義経に迫る。義経は錏を傾け太刀を以て打払ふ程に弓を海中へ落したり。直に是を拾はんとするに盛嗣得たりと兜に熊手を打かけたり。源氏の兵共危みて弓を捨給へと叫ぶを、義経は太刀を以て熊手を打切り鞭を以て弓を引上げたり。後義経曰く、弓を惜むにあらず吾将として此面目を惜むなりと。

(13)義経の八艘飛
平家は屋嶋に破れ、逃れて長門國壇の浦に漂ふ其兵船500余艘、源軍は勝に乗じて兵船700余艘を以て追撃す。能登守教経は平軍切ての強者なれば、源軍兵士の討らるゝ者数知れず。知盛是を見て由なき殺生を止め給へと言ひければ、さらば義経を討つべしとて船を漕ぎ寄せて義経の船へ飛び移り、兜を脱ぎ捨大童と成て判官目がけて討ちかゝりける。判官敏くも小長刀を脇に挟み、隣の船へと飛移り又飛移りて其危を脱れたり。
(14)能登守教経、最後
教経は力こそ抜群なれ早業義経に及ばず、今は是迄と荒れ巡りけるが、安芸太郎時家とて三十人力を有せる強者と外に2人の強者共力を合せて3人一度に教経に討てかゝりぬ。教経今ぞ最後の時なりと、1人を海中に蹴込み落し、2人を両脇にかき挟み一しめしめて、いでや能登守の御伴申せと一喝、海底深く沈みたりける。
(15)安徳帝御最後
二位殿も今は限りと見給ひて、幼帝を抱き帯びにて確と我身に結びまいらせ、宝剣を腰にさし神璽を脇に挟みて艇に臨み給ふ。幼帝は驚き御気色にて、こは何処へと行くぞと宣ひければ、兵共が御船に矢を進め参らすれば、安全の地に行幸なし参らせんと申て、(今ぞ知る御裳濯河の流れには、波の下にも都ありとは)と宣ひはてず、海中に躍り入給ひける。
(16)壇の浦平氏の最後
内大臣宗盛郷及子息清宗郷等は遂に敵手に捕へられ、新中納言知盛郷、中納言教盛教等は遂に術なく自刃し給ふ。其外百司百官の人々も銘々自害して、茲にさしも平家の一門は元暦2年春の暮西海の藻屑と消え失せたりける。

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