昭和初期の広告マッチから見る神戸の世相
  (郷土史にかかる談話 2)
昭和初期の広告マッチから見る神戸の世相
 昭和初期、神戸に住み働く人たちの生活の一端を、現在の私たちに垣間見せるもの。当時は生活必需品であり、かつプレミア商品としてタダで配布された広告マッチにデザインされ貼付されたラベルは、庶民の要求や世相を反映していました。
 明治の開国以来、文明開化、士族授産、殖産振興の先方として手掛けられたマッチ産業は、有力な輸出品としても貴重な外貨獲得、国力増強に貢献してきました。マッチ産業は、地元神戸が国内での一大産地・一大輸出港であったことを背景に、大正から昭和になって広告マッチが一層普及し、世間を賑わしたのです。
  神戸の昭和は、第一次大戦の好景気から転じた戦後不況、世界的な金融恐慌が地域経済を混乱させ、正に暗雲垂れ込める中で始まりました。
 昭和2年4月、当時、三井三菱と並び称せられていた新興総合商社の鈴木商店が破産。そして大正末期に続いて地域の基幹産業であった造船・鉄鋼もさらなる苦境に入り、繊維関係も加わって労働争議が頻発していました。庶民の生活は益々苦しくなる中で、神戸港からブラジルを目指す移住ムードが流れ、不況の底にあって戦争のきな臭さも漂ってきて、消費生活もこの新しい動きに伴って次第に好転し、苦しいながらも経済は拡大への兆しを見せ初めていました。
 この頃、大丸百貨店が西側の三越百貨店に遅れること2年で、アール・デコ風のすずらん灯が招く元町商店街の東側に進出。正月3が日の人出が10万人を超す人気スポットで全国一の映画館街であった新開地、隣接する歓楽街の福原、そして元町、三宮、阪急の西ターミナルであった上筒井の界隈は賑わい、特に昭和5年9月の海港博覧会では1ヵ月半ほどの会期で約150万人が来場しました。
 昭和6年9月満州事変の勃発に、庶民の生活にも戦時色が濃くなって、いわゆる事変景気の感をうかがわせ始めていました。昭和8年11月には、アメリカの街の祭りを参考にリニューアルして、第1回の「みなとの祭」が催され、懐古行列や花電車、女王選出、市民参加のパレードなどが人気となりました。
 省線電車(現在のJR)の電化開通や阪急電鉄・阪神電鉄の中心地乗り入れなどの交通インフラ整備もあって、庶民が毎日の生活を謳歌し始め、満州国開拓への国民的熱意が多くの人たちを動かしていました。
 しかしこの戻りそうだった景気も束の間で、やがて昭和9年9月の室戸台風の襲来で本当に水を差され、昭和11年の二・ニ六事件、昭和12年の日華事変から国の体制は軍事優先へと舵を切ったのです。特に、神戸に甚大な被害をもたらした昭和13年の阪神大水害あたりから戦時一色となり、自由な生活は遠のいて行きました。
 全盛を誇った広告マッチのブームも、昭和8年の戦争準備体制の基幹産業重視によってマッチ産業も再編集約されて生産統制を受け、原材料確保難も加わって生産量が激減。昭和13年、マッチが物品税の対象となり公定価格制が取り入れられ、ついには昭和15年に切符制度での配給品となって、広告マッチは急速に廃れていきました。
 この事態が解消し、広告マッチが再び脚光を浴びるのは、戦後の昭和21年から23年にかけて統制が廃止されるのを待たねばなりませんでした。
 マッチのラベル・デザインは、明治・大正期にあっては生産会社の登録商標や国民的スローガン、古典的な図柄、全国的商品ブランドなどが主流でした。
 しかし、この戦前昭和初期の広告マッチがもてはやされた時期においては、以前あったものから個別店舗の広告がそのほとんどを占めるようになりました。庶民の消費性向に即した身近な店、それは料理店・食堂・レストラン、カフェ・バー・サロン・飲み屋、喫茶、理髪、百貨店、洋服・服飾、お菓子・食料品、雑貨、そして映画や演劇の出し物などの宣伝広告ラベルを貼付したマッチが、庶民の手に多く行き渡っていたのです。それだけに、硬い文字ばかりのものだけでなく、洒落たデザインで現代でも充分通用するような垢抜けしたものも多く見受けられます。

 当時の庶民が愛用した店も、現在その場所で営業しているのは本当に少なくなっていますが、店の前に立つと、70〜80年前の広告マッチを配っていた頃の繁盛が思いおこされます。(2008年5月)

 郷土ゆかりの「昭和初期の広告マッチラベル」を展示しています。
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