生野、神子畑、明延、中瀬と4つの鉱山と飾磨港を繋ぐ「鉱石の道」と「銀の馬車道」
  (郷土史にかかる談話 28)
●鉱石の道
 兵庫県の内陸中国山脈に位置する鉱山地帯には、日本の産業を支え続けた4つの鉱山があります。歴史の古い生野(いくの)鉱山(朝来市生野町)に加えて、明治新政府の鉱物資源確保の国是の下に開発された神子畑(みこばた)鉱山(朝来市朝来町)と明延(あけのべ)鉱山(養父市大屋町)及び明延近隣の中瀬鉱山(養父市中瀬)は、鉱床を中心とした連携による一体的な事業運営がなされ、4つの地域は鉱山の街として賑わってきました。
 しかしながら、昨今の産業構造の変化に併せ、鉱脈開発のコズト問題などあって、生野が1973年(昭和48年)に、次いで明延、神子畑も1987年(昭和62年)にそれぞれ閉山を迎え、中瀬は閉山後も輸入功績の精錬のみを継続しており、地域の賑わいには旧日の勢いは無くなってしまいました。
 最近、これらの地域において、鉱山という産業遺産・近代化遺産に注目して地域の活性化、まちづくり・まちおこしに活用しようと、地域挙げて取り組みが進められています。
 2017年、日本遺産「銀の馬車道・鉱石の道」が認定されました。
 この3つの鉱山の連携とは、明延鉱山で採掘された鉱石を専用電車で神子畑選鉱所に運び選鉱し、専用道路で生野精錬所に輸送、その精錬された鉱石を生野鉱山本部から姫路飾磨港へ「銀の馬車道」を通って貴重な鉱物資源を産業界へ提供していたのです。そして、この明延近隣の中瀬〜明延〜神子畑〜生野間をつなぐ鉱石輸送ルート「鉱石の道」には、鉱山坑道、電車、選鉱所跡、鋳鉄橋、鉱山道路など往時をほうふつさせる産業遺産・近代化遺産が多く残されています。
(1)生野鉱山
 807年(大同8年)の開坑、室町・江戸時代を通じて開発されてきた生野は、1868年(明治元年)政府直轄の近代鉱山の一番手としてコアニエらフランス人技術者を導入して開発が進められてきた生野は、1889年(明治22年)皇室財産となり、1896年(明治29年)に明延、神子畑と併せて三菱合資会社に払い下げられ、国内有数の優良大鉱山として日本の近代化に貢献してきました。しかし、ついに1973年(昭和48年)に閉山を迎えました。
 鉱山街としての生野には、明治初年の総合事務所や電気炉周辺、バキューム室、オリバーフィルター室などのレンガ造りの施設、また、太盛山頂煙突、大盛通詞坑ロ、工場動力源の鷹ノ巣ダムや送水路、武家屋敷風の職員社宅並びに工員社宅など多様な施設遺構が複合して残されています。
 金香瀬坑道付近は、観光坑道、鉱山資料館、吹屋資料館、生野鉱物館(三菱ミナラルコレクション)、旧生野支庁正門門柱(菊の御紋入り)などあって、史跡生野銀山として鉱山観光施設となっています。
 その他、街中には、江戸時代の郷宿吉川家を利用した「生野まちづくり工房・井筒屋」「電気機関車専用軌道跡」「旧生野警察署」などがあります。
 ※詳しくは、下記の『郷土の談話室(8)准世界遺産だ! 生野鉱山』をご覧下さい。

生野鉱山(朝来市生野町)

明延の街の入口にある「鉱山(やま)の里」の碑と鉱山労働者の顕彰碑

明延鉱山の探検坑道(見学には事前申込みが必要)
※「生野鉱山」のページにLINKします。下記のボタンまたは写真をクリックしてください。


郷土の談話室
(8)准世界遺産だ! 生野鉱山
(2)明延鉱山
 平安時代初期の採掘開始といわれているが、1868年官営、1896年(明治29年)生野鉱山の三菱合資会社に払い下げられ、本格的開発は1900年(明治33年)から行われた。1912年(大正元年)に開通した鉱石を神子畑選鉱所に運ぶ鉱山列車「明神電車」(5.75q)は、戦後、鉱山従業員の通勤用として乗車賃1円の「一円電車」と有名。1960年(昭和35年)は人口1万人(旧大屋町)で鉱山関係者が4,000人以上を占め、鉱山地域は賑わった。錫、銅、亜鉛、タングステンなど多品種の非鉄金属鉱脈を有し、錫は日本一の産出、1987年(昭和62年)の閉山の最後まで鉱山として鉱石を採掘していた。多くの採掘機器が内蔵された探検坑道(見学には事前申込みが必要)のほか、街には、1919年(大正8年)建設の大仙選鉱場、総合事務所などがあり、厚生施設としては共同浴場や病院、購買会、娯楽施設(劇場施)の協和会館、一円電車などが残っている。ほか、廃校になった小学校舎を利用した「あけぼの自然学校」「明延近代鉱山研究所(自然学校舎内)」「あけぼのドーム」「明延振興館」「鉱山学習館」が整備されている。

明延鉱山(養父市大屋町)

明延の街の入口にある「鉱山(やま)の里」の碑と鉱山労働者の顕彰碑

明延鉱山の探検坑道(見学には事前申込みが必要)

探検坑道内には数々の掘削用機器(写真はオフセットストーパ)が残されている

探検坑道内をボランティアガイドさんの案内・説明を受ける

明延鉱山探検坑道内にある「案内板」

鉱山関係の体験学習ができる「あけのべ自然学校」

「あけのべドーム」前にある鉱石運搬用のトロッコ

鉱山生活者が無料で使えた「明盛共同浴場(第一浴場)

娯楽施設として使われた「協和会館」。封切映画や、著名な歌手たちも上演した

明延鉱山の歴史が展示されている「明延振興館」

振興館前に展示されている「一円電車」


一円電車「明神電車」の「乗車券」。昭和40〜50年代に実際に使用されたもの(所蔵品)
(3)神子畑鉱山
 1878年(明治11年)に鉱脈が再発見され加盛山鉱山として稼動、1896年(明示29年)に三菱合資会社に払い下げ、1917年(大正6年)に出鉱量の低下により閉山。その後、明延鉱山で採掘された鉱石の選鉱場として1919年(大正8年)に竣工、最盛期には「東洋一」と謳われた選鉱施設となった。選鉱を支える施設としては、木工場、鉄工所、資材倉庫、タービン室、文責室、社宅、購買会売店などがあったが、生野のお雇外国人宅二番館を移築して診療所として使用した旧神子畑鉱山事務舎(ムーセ旧居)(県有形指定文化財)を除き、2004年(平成16年)までに取り壊された。現在は、選鉱所のコンクリート基部やシックナー(液体中に混じる固体粒子を泥状物として分離する装置)の一部が、その他、明延からの鉱石輸送路として明治期の山道およびトロッコ輸送機の明神電車の軌道とトンネル跡、更に生野へ続く旧輸送路の途中には、神子畑鋳鉄橋(国指定重要文化財)、羽淵鋳鉄橋(県指定有形文化財)などが残っている。拠点施設としては、ムーゼ旧宅を展示・案内できる「ムーセハウス写真館」がある。
  朝来市は、神小畑選鉱場前に令和2年6月29日、観光施設「朝来市鉱石の道神小畑交流館」をオープンさせました。 床面積189u、廃山前(昭和50年頃)の明延鉱山と選鉱場のつながりを縮尺500分の1の精巧なジオラマ、映像や写真の展示がある。地元の歴史紹介スペースや、多目的ルームにはゆかりの絵画の展示、オリジナルグッズなどの販売もされている。(10:00am〜17:00pm、入館無料、水曜日休館)

神子畑選鉱所(朝来市朝来町)

往年の神子畑選鉱所全景の再現模型(ムーセハウス写真館内に展示⇒交流館へ)

神子畑選鉱所跡の裏山にかかる「安全第一・明延鉱山」の看板

取り壊しを免れている神子畑選鉱所のシックナーの内部

生野鉱山の外国人居宅を移転したムーセハウス写真館。元「神子畑鉱山事務舎」

取り壊され、コンクリート基盤のみ残る神子畑選鉱所跡

山の斜面に立地していた選鉱場の急坂なインクライン跡

インクラインの左方に残る多数の坑口

神子畑選鉱所前と村落との間を通る道路(春には桜街道となる)

神子畑と生野の間を通る専用輸送路と鋳鉄橋の説明板

神子畑鋳鉄橋(国指定重要文化財)

羽淵鋳鉄橋(県指定有形文化財)

観光施設「朝来市鉱石の道神小畑交流館」
(4)中瀬鉱山
 明延鉱山の北西奥の養父市中瀬(旧関宮町)の八木川の大日淵で天正元年(1573年)、砂金が見つかり、探鉱したところ金鉱脈を発見したことが鉱山の始まり。中瀬金山とも呼ばれて、天正10年(1582年)、生野奉行の支配下に入り、豊臣政権の蔵入地となる。引き続き徳川幕府直轄を経て、明治政府官営となり、生野鉱山に工部省鉱山寮生野支庁が置かれており、中瀬鉱山、明延鉱山、神子畑鉱山も一体的に生野支庁が経営した後、民間企業に払い下げられた。一時期には日本最大量の金鉱石を採掘し、選鉱・分離した金を生野から飾磨港へと運ばれ、瀬戸内海の直島精錬所でインゴッド(地金)が造られました。
 最盛期の昭和22年から昭和30年にかけて鉱山関係者500人を超えて、多数の社宅、銭湯や購買施設、倶楽部などが建設され、営業していた。昭和40年頃になり鉱脈が枯渇から採算性が悪化、昭和44年(1969年)9月をもって閉山し、約400年の歴史に幕を閉じた。
  閉山後もアンチモンの輸入鉱石で精錬の操業を継続した。現在では海外からアンチモン地金を輸入し、三酸化アンチモン等のアンチモン製品の製造を行っている。
  中瀬には、平成26年に中瀬鉱山について学び交流する施設として「中瀬金山関所」が開館しました。石間歩抗口、トロッコ広場などもあって、中瀬鉱山の写真、道具、鉱石、解説パネルなどを展示し、交流施設として利用され、中瀬区の住民による中瀬金山会が運営しています。

中瀬鉱山の通洞坑「石間歩抗口」*

交流施設の中世金山関所*

トロッコ広場の鉱山車両*

中瀬鉱山風景

鉱山近くの長久寺宝泉寺*
※(*印)=養父市観光資料より引用(5枚)
●世界遺産登録を目指して
 但馬の鉱山群(生野、神子畑、明延、中瀬)をその関連遺産の世界遺産登録を目指そう!、と民間有志が集い、令和5年10月31日に「世界遺産を実現する会」(代表 澤木正幸)が結成スタートしました。
 稼働中の近代化遺産の保護・継承、地域活性化の起爆剤、産業近代化遺産の教育的効果のため、活動を始めています。
 特に、「生野鉱山群」の歴史的価値として、次をアッピール。
@アジアで最初の資本主義的近代化を実現した。
A官営モデル鉱山第1号。
B明治政府のお雇い外国人技術者第1号。
Cモデル鉱山としての先導的役割を果たした。
D「交流・物流」の近代化への貢献。
E日欧文化交流の促進。
 今後、次の取組を行っています。
@地理的のつながりのない複数の資産が一つのテーマのもとに登録される「シリアル・ノミネーション方式」の検討。
A世界遺産登録にかんする 情報の収集・分析。
B関係機関、関係団体との情報交換。
C地域住民への啓発活動。
  「鉱石の道」をテーマにした生野、神子畑、明延、中瀬の4つの鉱山地域は、産業遺産の保全整備、体験型ツーリズムの実施、学習素材としての活用に力をいれ、地域イメージの創造(ブランド化)と観光(産業観光・教育観光)による地域の活性化を図り、産業遺産ツーリズムの絶好のモデル・コースとなっています。是非、お訪ね下さい。(2011年5月〜、2025年2月)
●「銀の馬車道(旧生野鉱山寮馬車道)
 明治新政府は、殖産興業の要である鉱物資源開発増強のために生野銀山を官営化し、コアニエら外国人技術指導者を招き、最新の技術と設備で生産力アップを図りました。そして、生野銀山の鉱石採掘と精錬と製鋼の工場等需要地との産品・資材の輸送力を飛躍的に工場させる連絡道路を、生野銀山から瀬戸内海の産業港である飾磨の港まで、 明治9年(1876年)市川沿いに49q新規に開通させました。

(左写真:銀の馬車道交流館に展示されている鉱石運搬専用馬車の復元)
 当時、鉱山長の朝倉盛明とコアニエが招来したシスロイ技師長は、明治6年(1873年)から欧米での最新式道路造成技術「マカダム式」を導入し、高速通行が可能な馬車道が整備されました。荷駄を満載した馬車が短時間に往来できたこの「銀の馬車道」は、「生野銀山道」とか「生野鉱山寮馬車道」とも呼ばれ、いわば現在で言う「日本で最初の高速産業道路」だったのです。
その後、増大する輸送需要に対応するために、大量輸送が可能な鉄軌道として播但鉄道(現在のJR播但線)が明治28年(1895年)に開通、銀の馬車道はわずか20年足らずで、その使命を終え、徐々に姿を消して行きました。
(右写真:生野銀山の正門。明治22年の元皇室財産として菊の御紋入り石門)
(1)完成から140年近く経過した現在、「銀の馬車道」の大部分は国道や県道等として今も共用されています。銀の馬車道の沿線の中間点付近の神河町には「銀の馬車道交流館」が開設され、手作り馬車の復原模型、鉱石、古文書類、沿線の歴史や特産品を紹介しています。馬車道跡を辿れば、当時の面影を残す記念碑等が見られることでしょう。
銀の馬車道路線図

銀の馬車道の出発地点、旧鉱山寮生野支庁。現、三菱マテリアル生野事業所の正門付近。(朝来市生野町)

生野の鉱山街の中を通り抜けてゆく馬車道。ここは、元、銀山関係の鍛冶屋などの職人街でもあった。(朝来市生野町)

県が平成18年に銀の馬車道の試掘調査を実施した地点に立つ解説看板。(神崎郡神河町)
D
神河町の大歳神社付近にある銀の馬車道馬宿り。馬車道沿いの道の駅ってところか。(神崎郡神河町)
E

現存する昔の開通時の銀の馬車道。原川原池沿いにカーブしている。(神崎郡神河町)
F

旧国道(銀の馬車道)沿いの但陽信用金庫の1階に開設されている「銀の馬車道交流館」。(神崎郡神河町)
G

交流館前の銀の馬車道沿いにある古民家。造酒屋さん。当時の雰囲気が残る。(神崎郡神河町)
H
辻川の元大庄屋「三木家」の門前を通っていた銀の馬車道。大きな看板が、もちむぎ食品センター前に立つ。(神崎郡福崎町辻川)
I
古い道を明治9年に馬車専用高速道に改良した記念碑「馬車道修築碑」。市川を渡った地点に立つ。(姫路市砥掘)
J
飾磨津物揚場跡。 鉱石陸送の終着、飾磨港から船で瀬戸内の精錬所へ積み出した。(姫路市飾磨区宮)
(2)地元では、銀の馬車道という生野鉱山に関連する遺産を活用して、生野から姫路飾磨に至る広域的な地域の連携と交流を図り、多くのツーリストを迎える体制を構築する母体として、商工会議所・商工会をはじめ青年会議所、旅行社、マスコミ等を構成メンバーに「銀の馬車道メットワーク協議会」を結成しました。
 これまで、小学生向けDVD「銀の馬車道アドベンチャー」やパンフレットの制作・配布、銀の馬車道看板の設置、銀の馬車道サイクリング、観光ボランティアガイドの活動支援、マカダム式道路試掘調査と模型作成、銀の馬車道ラッピングバスの運行、関連商品の開発支援、ツアーバスへの支援、交流イベントの開催支援、人情喜劇「銀の馬車道」への支援、銀の馬車道交流館への支援などの「銀の馬車道プロジェクト」を実施しています。
(3) 叉、2012年12月に、日本ユネスコ協会連盟の「プロジェクト未来遺産」に選ばれました。未来遺産は、100年後の子どもたちに残したい産業遺構・自然・文化の保全・普及を促進するために選ばれました。
(4)神河町教育委員会は、2016年11月、「銀の馬車道」を発掘(神河町吉冨)し、当時の築造方法が判明する道跡を発見したと発表しました。 国道312号の脇道で、深さ60cmのところから、石と土の三層構造で、道路端に縁石(補強用)が積まれた道跡を発掘しました。マカダム式の道路断面がはっきりと出ました。道造りの技術、実態解明がすすむことを期待します。(2016年12月)
 今、多くのハイカーたちが銀の馬車道を踏破して、見聞録をブログやホームページで賑わせています。また、生野鉱山から飾磨港まで、ほとんど下り坂傾向のサイクリング・ツアーが大人気です。みなさまも是非トライしてみられてはいかがでしょう。(2011年3月〜、2025年2月)
※関連ページへLINK(写真・ボタンをクリック)

(8)准世界遺産だ! 
生野鉱山

(21)ひょうごの主な鉱山 ・鉱山跡(pdf)

「銀の馬車道」ホームページ
銀の馬車道ネットワーク協議会   http://www.gin-basha.jp
当研究館のホームページ内で提供しているテキスト、資史料、写真、グラフィックス、データ等の無断使用を禁じます。

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