徳川道(西国街道往還付替道)を辿る
  (郷土史にかかる談話 74)

石屋川の西国街道と徳川道との分岐点
 攘夷と開国の両論に湧く江戸時代末期、欧米諸国によるアジア進出の情勢の中で、兵庫開港を迎えます。
 兵庫開港(神戸開港)に際して、外国人たちの居留地に沿って西国街道が通じている。 横浜の生麦事件(外国人殺傷事件)のような衝突が起きるかも知れないので、西国街道を外国人居留地を迂回して山中を通り、衝突がおきない場所に付替えたのが徳川道です。
 安政5年(1858)の日米修好通商条約(安政仮条約)により、神奈川(横浜)は安政6年(1859)に、兵庫開港は文久2年11月(1863)の約定であった。しかしその後の勅命による攘夷宣言や攘夷論の沸騰などあって、その3ヶ月前の同年8月に、横浜の生麦村にて薩摩藩が行き会ったイギリス人を殺傷した生麦事件が勃発、薩英戦争まで引き起こした。それで、兵庫開港は慶応3年(1868)に延期された。
 その後、開港停止の国内議論の沸騰などあって再び混乱。慶応2年(1866)将軍家茂の死去、慶応3年3月に次の将軍慶喜は朝廷と交渉、開港のへの決定を取り付けた。12月からの開港に向けて、外国人居留地の埋立て造成工事、運上所(税関)の整備など準備を進めるなかで、特に急がれたのが、「西国街道の付替」でした。
「徳 川 道」 路 図
 西国街道往還付替を、石屋川から分岐し、杣谷、摩耶山裏、小部、藍那、白川、高塚山を通り、大蔵谷にて合流するルートとして、これに、石井村庄屋の谷勘兵衛と荒田村庄屋の滑川勘三郎が請書仕様帳どおり11月に19,200両で落札請負い(形式的なもので事前着工していた)、実質工事は谷勘兵衛が担った。
 工事の分担をした村々は、摂津と播磨の2国で菟原郡、八部郡、明石郡内の48村(うち住吉村など6村は自前直轄を希望)で、しかも天領や旗本領、各藩所領が複雑に入り交じっており、開港を控えての超特急大工事であった。結局、工事全体は60日以上をかけ、開港の2週間後には完成(道中3箇所の宿駅は未完成)したことになっている。
 しかし、道路は完成し、検分も無事終了しても代金は幕府から支払われず、谷勘兵衛は大変困った。幕府から明治新政府への体制変革のなか、やっと支払を受け石井村の自宅に収納したが、長州勢に御用金として没収強奪されてしまう悲劇に遭遇。谷家は自前の資金にて工事代金の支払いを続けたそうです。
 このように御用金大枚を使い、突貫工事にて大苦労の末に完成させたにも拘わらず、明治元年(1868)1月に西宮警備の命を受けた備前藩は岡山を発って西国街道を通り、大砲を引いていた一部の部隊が里道(田舎道)・山道を避けて往還付替道を回避し、居留地前の神戸三宮で外国人と衝突、一時周辺地域を外国人に占領される「神戸事件」を起こした。唯一、事件を起こした後続部隊が往還付替道を利用した事例となり、道の一部は田畑に戻されたり、地元でも利用することが少なく、遂に廃絶。
 明治も末期になって六甲山ゴルフ場開設や外国人たちの登山グループがハイキング道を改修、うち西国街道往還付替道だった部分を「徳川道」と呼んだ。それにより、ハイキングコースのみならず、一般的に広く付替道全体を「徳川道」と言うようになった。
 徳川道のコースについては、廃絶後の原野化、風水害による崩壊、近代化に伴う農地改良工事や団地造成などにより元の土地形状が消滅したり、辿ることができなくなった部分が多くある。古文書(谷家文書など)にある小字地名の改名や地域での不伝承などあって推定するしかない部分もある。ここに、神戸市が中心となって昭和50年(1975)に発足させた徳川道調査委員会の結果による「徳川道」のコース辿ってみたい。
●「徳川道」全行程路線について(ただし、昭和52〜53年当時)
   ※路線図(拡大版)は、下段のボタンをクリックして下さい。
路線区間
開設時工事区間
昭和53年当時の道筋推定図
摘 要
石屋川
 〜杣谷
(1)石屋村、徳井村 地内

・西国橋東詰から川に沿って北上
・国道2号南から石屋川右岸(西側)へ
・右岸を平野橋西詰まで
(2)平野村、羽村 地内

・平野橋西詰から西へ高羽郵便局前へ
(3)八幡村 地内

・八幡神社へ向かい、そこから昔は直線(道はない)で阪急電鉄「阪急六甲駅」西方へ
(4)篠原村 地内
・阪急電鉄を越えて、護国神社へ道なりに
杣谷
 〜摩耶山裏
(5)篠原村外12カ村立会山

・長峰中学校から墓園横を通り、河原に降りる
・杣谷川沿いに北上、杣谷峠に至る
・峠を越えて奥摩耶ドライブウェイを横切り、谷間の流れへ(北建石)
・松尾谷下へ

・松尾谷筋へ石垣跡、飛石渡しなど
・布引から北上してきた道(トェンティクロス)と合流、滝谷道へ
・長谷池(森林植物園内)から西六甲ドライブウェイへ
摩耶山裏
 〜小部
(6)東小部村 地内、
 東小部村・西小部村入会地

・森林植物園北門から五辻の関の茶屋へ
・西六甲ドライブウェイを西へ
・下り口からドライブウェイから離れ妙賀坂を有馬街道へ(小部峠の南)
・有馬街道を渡り、小径を鈴蘭台方面へ

・札場跡を西へ道なりに神戸電鉄へ
・神戸電鉄線脇を南下(道は不明)、鈴蘭台変電所方面へ
・神戸電鉄(三田線)を越え北区役所へ
・区役所前を鈴蘭台西口駅で線路南側へ
・鈴蘭公園を通り、星和台団地へ
小部
 〜藍那
(7)藍那村 地内
(8)東尻池村・西尻池村・
 池田・長田村4カ村
 立会野山
(9)白川村 地内

・星和台小学校から鵯越道へ(旧道の面影全くなし)
・藍那〜白川間のハイキングコースへ、白川村方面へ南下
藍那
 〜白川
(9)白川村 地内
・大歳神社下を神戸三木線へ
・白川北下水処理場を西へ布施畑へ(摂津播磨両州の境界標があったが土台のみ)
白川
 〜高塚山
(10)布施畑村 地内
(11)奥畑村 地内

・菖蒲谷を西へ、奥畑へ(団地造成周辺)
(12)門前村 地内
(13)小寺村 地内
(14)長坂村 地内

・ハイキング道の「太陽と緑の道」を行く
・この図内では学園都市開発で道不明
・小寺村内を高塚竜神社手間から右へ長坂方面へ
高塚山
〜 大蔵谷
(15)漆山村、大蔵谷村
 地内
・長坂小学校前から西へ神戸学院大学へ
・漆山下から明石無線受信所方面へ
・団地内を朝霧川右岸(西側)へ斜めに降りる(この辺の道は不明)
・川沿いを南下し西国街道へ
※全行程路線については、『徳川道・西国街道往還付替道)』調査報告書(昭和53年、神戸市徳川道調査委員会)による。
●「徳川道」を辿る
 「徳川道」の路線については、開設された明治元年(1868)から約100年を経て行われた神戸市の調査から更に約50年が経過し、その間の市街地整備、農村開発、道路整備、水害等による崩壊などあって、昭和53年当時の様子からも大きく変貌してきている。
 現在の状況については、実際の踏査を実施することによって判明することが期待される。 徳川道全行程(34.5km)の現状は、下記の行程による実査を経て後日報告(掲載)したい。みなさんもドンドン挑戦してみて下さい。 (2020年4月)
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