古代の道「山陽道」の駅家(うまや)を辿る
 (郷土史の談話 18)
古代の道「山陽道」の駅家(うまや)を辿る 
1.古代の道「山陽道」の概要
  古代の道「山陽道」は、7世紀末から8世紀初めの律令国家制度確立期に駅制が整えられ、9世紀頃に衰退の傾向で、駅家や駅馬が一部縮小化され、10世紀辺りまで機能していたと思われます。駅路の30里(現在の約16q)間隔で駅家が置かれ、駅馬が原則20匹が常備され、駅家には駅館院など蕃客(外国の賓客)に備えて瓦葺粉壁(瓦葺きで粉壁)の立派な宿泊施設・迎賓施設が整備されていました。
  山陽道については、927年に編纂された『延喜式』には、山城国の山崎駅から筑前国の久爾駅まで58駅とありました。
 兵庫県内には、平城京や平安京を発って山城国から摂津国に入って、摂津の県内には2駅、続いて播磨国に9駅(当時廃止されていた駅が2駅ある)あって、西隣の備前国へと繋がっていました。しかし、瀬戸内海の水運の発達と、律令制の弱体化による駅伝制が意味をなさないようになり、1000年ほど前には廃絶されました。
 山陽道の駅家の所在については『播磨国風土記』、『類聚三代格』、『延喜式』、『日本三代実録』、『令義解』などの古文書に僅かに出てきますが、実際の場所が発掘等で確定されたのは全国400ヶ所のうちでも本当に少ないのです。その中でも、県下の布施駅、野磨駅の研究が全国的にも教科書的モデルとなっています。また、県立考古博物館による賀古駅等の調査も進んでいて、全駅全容解明が待たれています。

 駅路の重要性から、道幅や整備される駅馬の数などの規模も最大でした。古代の道、特に山陽道とはどんな駅路だったのでしょうか。
(1)基本的に直線道路になるように路線を決定している。集落を経由する日常利便性を考慮していない。
(2)一定の幅広(12m前後)の道路幅員を確保していた。後に(9世紀〜)5,6mに半減(改変)さた。
(3)平坦路、少々のことなら切通しや埋め立てして路線を確保した。
(4)駅路の両側に側溝や並木が植栽されていた。
(5)基本的に、一定間隔(30里=約16kmごとに)に宿泊や騎乗駅馬の交代駅馬20匹を具備する駅家が整備されていた。
(6)駅家の周辺には、駅家関連の機能を果たす施設として、厩舎、牧場、厨房、専属の倉庫、遠くを眺望する塔の駅楼、駅管理事務所的建物が整備されていたと考えられます。

※「古代の道と驛家(うまや)」の詳細については、右の写真をクリックしてください。LINKしています。

(47)古代の道と
駅家 (うまや)

〜兵庫県内〜
※古代史の謎に、
いま注目が集まる!
2.古代の道「山陽道」の駅路図
 古代の道「山陽道」は、都と大宰府を結ぶ最大の幹線道でした。五畿七道の中でも「大道」としての格付けで、40里(約16km)ごとの豪勢な瓦葺粉壁の駅家、駅馬も20匹を常備していました。『延喜式』によると、京都を出た山陽道は、「山埼駅」(京都市)、「草野駅」(箕面市)を経由し下河原(伊丹市)あたりから兵庫県内に入ります。
 下図の路線概略と駅家については、『延喜式』には「邑美駅」と「佐突駅」の記載がないので、当時は廃止されたものと思われます。駅路は、平野部は直線的に、高い丘は迂回しながらも極力短距離を、また峠などは難路の程度和らげながら低地を地形に併せて通っていたようです。
 それでは、以上のことなどから考察して、まず図面上で、山陽道の駅路を辿ってみましょう。
古代山陽道の駅路(兵庫県内)

下河原(伊丹市)〜JR「さくら夙川」周辺(西宮市)

JR「さくら夙川」周辺〜「葦屋駅家」〜生田川(神戸市)

生田川〜「須磨駅家」〜境川〜塩屋        
生田川〜「須磨駅家」〜白川〜布施畑      
生田川〜「須磨駅家」〜多井畑〜塩屋      
生田川〜「須磨駅家」〜多井畑〜名谷      

「須磨駅家」〜境川〜塩屋〜舞子〜朝霧〜「明石駅家」 
  「須磨駅家」〜白川〜布施畑〜大山寺〜長坂〜「明石駅家」
「須磨駅家」〜多井畑〜塩屋〜舞子〜朝霧〜「明石駅家」
 
「須磨駅家」〜多井畑〜名谷〜高丸〜舞子〜「明石駅家」 

「明石駅家」「邑美駅家」〜土山(明石市)

土山(明石市)〜「賀古駅家」〜「佐突駅家」

「佐突駅家」「草上駅家」〜桜峠(姫路市)

桜峠〜「大市(邑智)駅家」〜槻坂〜琴峠(たつの市)

琴峠 〜「布勢駅家」〜二木峠〜椿峠〜「高田駅家」〜與井(上郡町)
琴峠 〜「布勢駅家」〜二木峠〜椿峠〜「高田駅家」〜上部(上郡町)

與井〜飯坂〜「野磨駅家」(後期)(前期)〜船坂峠
上部〜飯坂〜「野磨駅家」(後期)(前期)〜船坂峠
3.古代の道「山陽道」の駅路・駅家を辿る(兵庫県内)
 上の図面に基づき、駅路の重要な通過地点および駅家跡などを見てみましょう。駅路については、まだ確定された部分は少なく、気象条件に左右される駅路もあって、迂回路を含めて種々学説があります。また、駅家の位置も発掘等で確認された「邑美駅」「賀古駅」「布勢駅」「野磨駅」を除いて諸説の候補地がありますが、とりあえず、私なりの一考察を加えてみました。

大阪空港北部の下河原を通り猪名川を渡る
(伊丹市)

(直線路)

西への山陽道と北への多田街道との交差する地点、「辻の碑」

(直線路)

西へ伊丹台地に上る伊丹坂

(直線路)

昆陽寺

(直線路)

武庫川を越える「髭の渡し」跡
(尼崎市)

(渡河)

武庫川西岸の報徳学園付近
(西宮市)

(直線路)

門戸厄神近くの古道

(直線路)

西南に直進してきた駅路が西へ転じるJR「さくら夙川駅」付近

(直線路)

この付近に「葦屋駅家」があったとされる深江北町遺跡
(神戸市)

(直線路)
 
葦屋(あしや)驛
 摂津国草野(かやの)駅(豊嶋郡=箕面市萱野)から猪名川、武庫川を渡って少し長距離になる約25q。
 旧武庫郡と旧菟原郡の境界と推定されている夙川(西宮市)附近で京から西南方向だった道が西南西に向きを変えて芦屋川を渡り、葦屋駅(菟原郡)は、白鳳記から奈良時代を通じて栄えていた芦屋廃寺(芦屋市西山町)に近接してあったと思われていたが、1999年、2000年(平成12)に発掘した県営住宅の一画にある深江北町遺跡(神戸市東灘区深江北町・深江本町・本庄町)から、奈良時代の建物群や木簡や道具類に加えて、「驛」と墨書した土器が出土しているので、北に隣接する津知遺跡(芦屋市)を含めて、ここが「葦屋駅」ではないかと思われます。駅馬は20匹。

深江北町遺跡の説明板

深江北町遺跡の碑

遺跡から発掘された「驛」の墨書土器
(神戸市教育委員会の報告書より)

津知遺跡(深江北町遺跡の北隣)、
ここも含めて駅家の候補地

西灘付近の西郷川、若干方向を転じる

(直線路)

古代の港「敏馬泊」にあった敏馬(うねめ)神社横を通る

(直線路)

三宮付近の西国街道
(古代山陽道)

(直線路)

「須磨駅家」は摂津国最西端のここ前田公園が別道分岐の拠点として最適

(直線路)

海岸路を西へ、ここは摂津国と播磨国の国境を流れる境川

(海岸沿い)

海にせり出す鉢伏山の南麓海岸沿いを回り込み、塩屋へ

(海岸沿い)
須磨(すま)驛
 葦屋駅から生田川、湊川を越えて「須磨駅」(八部郡)まで約20q。駅の位置に関する古文書も発掘発見もありません。ただ、太田町遺跡(須磨区太田町・戎町)が、山陽道の側溝と思われる北側に発掘され、瓦類がほとんど出土しなかったのですが、建物群跡とか陶磁器や土器、皇朝十二銭などが発掘されたので、役所跡の官衙か、駅家の可能性はあるとも見られています。しかし、そこからもう少し西に、後の西国街道沿いにあった旧前田家邸宅跡(神戸市須磨区天神町)があり、その昔の駅家の管理運営を任されていた駅長の末裔ではないかと思われ、しかも、後に須磨の関が設けられる位置で、この周辺に駅家があったものと推測されます。
 前田家の邸内には、元宮長田神社があり、前田家は大宰府神社へ毎年、ここの菅原道真ゆかりの菅の井の水を届けていたそうです。
 また、この駅から山陽道は、近世と同じく海岸沿いを通っていたか、または、切り立った崖の続く鉢伏・鉄拐・高倉の山々を迂回して、北へ向かい、内陸の白川(須磨区)や多井畑(須磨区)を通っていたか、と考えられています。

旧前田家邸宅跡公園

同左、菅原道真ゆかりの菅の井

大田町遺跡、 ここも駅家の候補地

やがて海岸路は高い絶壁の迫られ、浪打際付近を通過

(海岸沿い)

多数の滝が高い絶壁から流れ落ちていた「滝の茶屋」付近

(海岸沿い)

海岸路はやがて、美しい松林が続く舞子の浜を通る

(海岸沿い)

海岸路(国道2号)は朝霧付近から明石内陸方面へ直行する
(明石市)


(海岸沿いを離れ内陸へ)

「明石駅家」があったと思われる太寺廃寺跡

(明石の城山の南麓を目指す)
「須磨駅家」から「明石駅家」に至るまで、3つある迂回駅路ルートについて】
 前田公園ないし太田町遺跡から「明石駅家」に至る駅路ルートについては、3案ある。
(1)「海岸路」=前田公園「須磨駅家」〜境川〜塩屋〜滝の茶屋〜同〜舞子公園〜朝霧〜「明石駅家」
(2)「白川・長坂路」=大田町「須磨駅家」〜板宿〜白川峠〜大山寺〜長坂〜「明石駅家」
(3)「多井畑・塩屋・海岸路」=前田公園「須磨駅家」〜多井畑峠〜多井畑神社〜塩屋〜滝の茶屋〜同〜舞子公園〜朝霧〜「明石駅家」
(4)「多井畑・名谷・舞子路」=前田公園「須磨駅家」〜多井畑峠〜多井畑神社〜名谷〜高丸〜舞子公園〜朝霧〜「明石駅家」
 この4つの駅路ルートのうち、気象条件によって通行の難易度が変わってくる。(1)の「海岸路」は最短距離であり、大雨や大風が無い日は利用されていたであろう。しかし、暴風雨にでもなろうなら、内陸の迂回路を通ったであろう。(2)の「多井畑・長坂路」に入るには、太田町遺跡「須磨駅家」からが便利で、妙法寺川(白川)と伊川沿いの比較的低地を進むが、かなり遠回り・長距離であることは否めない。 (3)の「多井畑・塩屋・海岸路」については、須磨から塩屋にかけての断崖海岸路を避けることができるが、塩屋から海岸路を採ると、滝の茶屋の断崖・滝・狭い海岸があって、同様の難儀は降りかかる。とすると、悪天候時の迂回路は、(4)の「多井畑・名谷・舞子路」なら、断崖・海岸路を避けて、なおかつ距離的なロスが無いことから選択されるべきコースと思われます。
【須磨駅家からの別ルート駅路「多井畑・名谷・舞子路」について】
 内陸の多井畑神社へは、奈良時代末期に畿内最西端に祀られた厄除け神社で、言わば常用の路。ここから「明石駅家」へは、ほぼ直線的に西方に進むのが最短である。しかし、途中の高丸(垂水区)地区などの複数の尾根を横断するよりも、名谷に降りてきて、かつ高丸の尾根南麓を回り込んで海岸の幅広く松林が広がる舞子に出て、あと比較的楽な海岸路を向かうのが、地理的・距離的にも最適な迂回路と考えられます。

「須磨駅家」を出て、内陸を北へ多井畑神社を目指す

海岸路を避けて内陸迂回路へ、多井畑峠を越える

古代の厄神社、多井畑神社

内陸に迂回した駅路は、高丸台地の南麓を通り舞子公園付近で海岸路へ
【須磨駅家からの別ルート駅路「白川・長坂路」について】
 迂回路の候補として有力と言われている。しかし、上の地図で示すとおり、太田町遺跡だったとしても「須磨駅家」から東に戻って板宿から妙法寺川(白川)をさかのぼり、白川峠から伊川伝いに「明石駅家」を目指すには最遠距離の行程となります。
 最近の現地踏査で、伊川の中流付近の長坂台地を南北に通じる古代の道の痕跡が確認されていますが、山陽道の迂回路だったかどうかは分かりません。

「須磨駅家」の別候補地、大田町遺跡(現、郵便局)

左の駅家からなら北へ、板宿から妙法寺川筋をさか上る

白川峠

大山寺山門

長坂で発見された古代の道跡

「明石駅家」に内陸北から到着
【須磨駅家からの別ルート駅路「多井畑・塩屋・海岸路」について】
 「須磨駅家」から悪天候時に内陸の迂回路に回る場合に、須磨鉢伏山の断崖波打ち際を避ければよいから多井畑神社から塩屋谷川沿いに塩屋に降りてきて、それから海岸路を行くことになる。しかし、塩屋から海岸路にもどれば、滝の茶屋付近の断崖を流れ落ちる多数の滝の影響を狭い波打ち際の道でさけるのは困難と思われる。結果、迂回をしたことにならないので、この迂回路は無かったものと考えられます。  

古代の厄神社、多井畑神社。ここから塩屋谷川沿いに南方へ

海岸路の塩屋で合流
明石(あかし)驛
 須磨駅から海岸沿いに播磨国へ、約13q。淡路島、明石海峡を見下ろす高台に、現在の高家寺境内に礎石・塔基盤が残されている太寺廃寺(明石市太寺)がある。「明石駅」(明石郡)はこの廃寺に隣接した場所にあったと想定される。太寺廃寺の西隣に「菅公旅次遺跡」の碑があって、その昔、菅原道真が明石の駅長との出会いが伝わっている。特に、山陽道を内陸迂回路を通ったとすれば、駅家はこの辺りであることは間違いありません。駅馬の数は、原則20匹のところ、記録では30匹とある。次の「邑美駅家」の廃止に伴い、そのうち半分の駅馬10匹が基本の20匹に追加されたと思われます。周辺では昔から住宅開発が進み、現状ではその面影は全くない。
 ここより西北方3qの神戸市西区に駅家の候補と見る向きもある吉田南遺跡が存在するが、街道からは1qも離れているので、駅家跡とは考えにくい。

太寺廃寺の塔跡
 また、明石川東岸の海岸寄り、大蔵中町(西国街道の浜街道周辺)で中世の瓦積み井戸が発見(2014年8月)され、古代の廃絶した建物の瓦を井戸枠に活用したものと見られ、駅家が近くにあったのではと推測もされている。天文町遺跡(明石市天文町)や東仲ノ町遺跡(同、東仲ノ町)、明石城跡東側で太寺に隣接した上の丸遺跡(同、上ノ丸)も候補にあがる。

太寺廃寺、礎石など

同左、塔跡の説明板

菅原道真ゆかりの「菅公旅次遺跡」の碑

天文街遺跡、ここも駅家の候補地

東仲ノ町遺跡、ここも駅家の候補地

上の丸遺跡、ここも駅家の候補地
「明石駅家」を出て、明石城跡の高台(城山)南を西へ

(直線路)

古代の道の痕跡、条理余剰帯が残る嘉永橋西詰付近

(直線路)

和坂の集落、ここから駅路は少し西北へ転じる

(直線路)

古代の道付近の雲楽池

(直線路)

『延喜式』に記載はないが、廃止された「邑美駅家」の長坂寺遺跡、ここから少し方向転ず

(直線路)

古代の道が発掘された
福里遺跡

(直線路)
邑美(おうみ)驛
 この駅は、存在を現代に伝える1100年前の『延喜式』(927年編纂)には載っていないが、距離的はここにも古代の道が通り、駅家があったのではないか、と考えられている。明石駅から明石川を渡って、約10q。明石市金ヶ崎の田畑の下に埋まっている長坂寺遺跡(明石市魚住町長寺・金ヶ崎)が「邑美駅」ではないか見られている。「邑美駅」は、『続日本紀』に726年10月の聖武天皇行幸に関して印南野邑美頓宮の設置のことが載っており、駅家の存在が窺われ、駅家名もこれらによって一応名付けられています。附近には駅家の存在が窺える大小の字名で、「大道」「大道池」「古前池」などが残っています。しかし、『延喜式』に載っていないので、その時までに廃止されていたものと思われます。
 現在、兵庫県立考古博物館が調査に入って、発掘調査等の結果、駅家(邑美駅家)の立地を示す遺構(地下)が確認されました。今後の更なる調査が期待されます。

長坂寺遺跡の碑、この前を
古代山陽道が走っていた

同左、この辺りの地下に驛跡が

発掘調査による邑美驛家の推定図(兵庫県立好古博物館の現地説明より)

福里遺跡に隣接する碑沢池、真ん中を駅路跡が通る

(直線路)

「駅池(うまやがいけ)」、近くの駅家を想定させる池の名前(加古川市)

(直線路)

「賀古駅家」跡が発掘された
古大内遺跡

(直線路)
賀古(かこ)驛
  邑美駅から約8qで、播磨の地が西北にまがっているのに沿って、西北上すると、「賀古駅」(賀古郡=加古川市野口町古大内)です。北近くの由緒ある教信寺に伝わる教信上人の往生説話でも、駅家跡が寺の南にあったとしている。『延喜式』によると、駅馬40匹を常備した当時の日本最大の駅だったようです。
 この40匹という数の推理では、昔に設置されていた「邑美駅」の20匹と、次の駅で同じく廃止された「佐突駅」の20匹を、両隣の駅家に半分の10匹づつ引き継がせたことから、「賀古駅」では元の20匹に邑美駅10匹と佐突駅10匹を足すと40匹にし、「佐突駅」の次の「草上駅」が、「佐突駅」の10匹が上乗せされて30匹となった、とされています。
 2009年、2010年(平成22)の県立考古博物館の発掘により、約80m四方の築地塀で囲まれて、古代山陽道から駅家表門への進入路、表門の柱の礎石(唐居敷)が確認されています。中世には城館となったり、また近世では宅地化が進み、隣接する地には工場などあって、それでも大歳神社によく古大内遺跡として残っていました。隣の大きな池は、「駅池(うまやがいけ)」と呼ばれています。今後の調査結果が楽しみです。

驛家と確定された古大内遺跡

同左、遺跡のある大歳神社

発掘調査による賀古驛家の配置図(兵庫県立好古博物館の現地説明より)

神爪付近(高砂市)

(直線路)

豆崎段丘南麓を回り込みながら通る古代の道(国道2号)

(直線路)

廃止された「佐突駅家」跡と思われる北宿遺跡と駅家碑
(姫路市)

(直線路)
佐突(さつち)驛
 賀古駅から加古川を越え、山を避けて少し曲りながら約9qで、「佐突駅」(印南郡=姫路市別所町北宿)です。「邑美駅」と同様に、『続日本紀』に印南郡佐突駅の記載があるが、『延喜式』の時には廃止されていたものと思われます。しかし、後に『続日本後記』で839年(承和6)は再建された、と伝わっています。
 100年程前に工場開発が進められ、北宿廃寺跡が近くにあり、この北宿遺跡(姫路市で、旧印南郡別所村大字佐土)が駅家跡だったのではないか、と思われている。今は、「馬が谷」などの地名も伝わるほかには、国道2号線沿いにこの陸橋の横に最近置かれた「佐突駅家跡」碑を除いて、何も残っていない。

国道沿いの北宿遺跡に立つ
佐突驛家碑

驛路を彷彿とさせる国道2号線

北宿遺跡の跡地に建つ播州倉庫と駅家碑

播磨国分寺跡、ここから少し方向を転ず

(直線路)

姫山(後に姫路城が建つ)の南麓を西へ

(直線路)

「草上駅家」跡と思われる
今宿丁田遺跡付近

(直線路)
草上(くさかみ)驛
 「佐突駅」から播磨国国分寺(姫路市御国野町)を経由して約11q、「草上駅」(飾磨郡=姫路市今宿)に到着します。元来、姫路市内の駅家の比定は難しく、播磨国府の本町遺跡があった辺りと思われていました。しかし、辻井廃寺跡の近くで、多くの瓦が出土した今宿丁田遺跡(姫路市東今宿1丁目〜4丁目)が駅家跡と思われます。今宿の近くには、「草上寺」「前田」などの小字が残っています。
 昔、因幡国司が宿泊した際に馬を贈呈した駅が「高草駅」との古文書が残っておりますが、草上駅の誤記ではないかと言われています。それで、「草上駅」から、山陽道と分かれて美作・因幡方面への「美作道」があったようです。今、駅跡は住宅・スーパー・工場や田畑が混在する地域となっています。

草上駅家に想定される地域
(今宿丁田遺跡附近)

辻井遺跡から発掘された
辻井廃寺跡(僧坊跡)

播磨国府跡の碑、ここも駅家の候補地

桜が池へと向かう桜峠

(峠道を越えて西側の里へ)

大市中遺跡近くに「大市(邑智)駅家」跡の碑が建つ

(直線路)

槻坂、当時の古代の道もこんな峠道を越えた

(槻坂の険しい山道を越えて直線路へ)
大市(おおち)驛
 途中、市川、夢前川、桜峠を越えて草上駅から「大市駅」まで約6q。古い瓦が多く出土した大市中遺跡(姫路市。旧揖保郡太市村大字太市中)または多数の瓦が発掘された小字馬屋田の向山遺跡(姫路市西脇)が、大市駅家(=邑智駅家)と思われています。遺跡近隣の集落公民館前に「邑智駅家跡」の碑が建っています。
 遺跡の北には多くの古墳や西脇廃寺跡(旧揖保郡太市村大字西脇)があり、周辺は田畑が広がっていますが、古窯跡(峰相山)があり、古代はちょっとした瓦陶器の生産地だったようです。この周辺は少し高台に位置し、宅地化も進んでいますが、「太市中」「馬屋田」などの字名が残っています。
 2016年度に、県立考古学博物館が大市中遺跡に隣接する向山遺跡の発掘を始め、路面幅15m、側溝の幅は南に4m、北は自然の谷を活用してる駅路遺構を確認した。この道に接して近隣に駅家があったものと思われます。

大市(邑智)駅家跡碑

駅家が立地していた
邑智の里(高台)を望む

駅家跡の前を走る道

龍野新大橋付近を揖保川渡河
(たつの市)

(直線路)

琴峠を越える

(比較的なだらかな琴峠を越える)

峠を降りたらすぐ「布勢駅家」跡が発掘された小犬丸遺跡

(直線路)
布勢(ふせ)驛
 「大市駅」から、槻坂と『播磨国風土記』にも出てくる琴坂の二つの峠と林田川、揖保川を越えて約10qで「布勢駅」です。
 地元の郷土史家や市役所が、小犬丸遺跡(たつの市。旧揖保郡布勢村大字小犬丸小字大道の上、大道の下)に注目して1984年〜1988年(平成1)の発掘調査の結果、「驛」と墨書きされた土器や「布勢驛」と書かれた木片、建物跡が見つかりました。地下の遺構でも、その建物は古文書にあるとおり、いずれも礎石柱で瓦葺き、白壁で赤塗りの建物群で、一辺が80mの方形区画の築地塀の駅院館と呼ばれるものでした。駅家遺跡がこれだけ整って出土したのは全国でも最初の価値ある遺跡です。全国の駅家の発掘のモデルと賞賛されています。
 周辺には、駅長で里長だったと推測されている人物の長尾薬師塚古墳や、小犬丸中谷廃寺跡があります。

小犬丸遺跡が布勢駅家跡の説明板

小犬丸遺跡が布勢駅家跡

推定される駅家の構造
(たつの市教育委員会資料より)

駅家附近を一直線に西に走る国道

二木峠

(二木峠を越えて直線路へ)

続いて椿峠を越える(相生市)

(なだらかな椿峠を越えて西側の里へ)

「高田駅家」があったと思われる辻内遺跡(上郡町)

(直線路)
高田(たかた)驛
 布勢駅から山道に入って二木峠を越え、相生市を通過して険しい椿峠を過ぎて約10q、「高田駅」に到るが、位置は特定されていません。古代瓦が出土している神明寺遺跡(赤穂郡上郡町大字神明寺小字中ノ手)のある顔栄寺が塔心礎と思しき庭石が発見されたことなどから廃寺跡で駅家跡でないことが判明した。近くに「前田」という字名、これは、「驛田(まきだ)」から呼び方が転化したものと思われます。また、近くの辻ヶ内遺跡(赤穂郡上郡町佐用谷)からは、奈良・平安時代の瓦や須恵器片が発掘され、ゆかりの地名である「前田」や「大道ノ下」という小字から、ここが駅家跡と思われます。
 顔栄寺前の道路は、そのまま古代山陽道で、峠と峠の間をほぼ一直線に伸びています。

駅家
跡と想定される辻ヶ内遺跡

辻ヶ内遺跡周辺を望む

神明寺遺跡の南にある願栄寺
駅家跡ではなく、寺院跡と考えられる

神明寺遺跡付近の願栄寺、ここから若干南方面へ回り込む

(山の南麓沿いを通り、千種川を渡河)

正面の山を迂回して、與井を通って山野里の大池付近へ

(山野里から飯坂へ谷筋を進む)

なだらかな山道を越える、飯坂

(なだらかな飯坂を越える)
【高田駅家からの別ルート駅路「上郡東町路」について】
 「高田駅家」から西方に向かうには、上部の山が横たわっている。山に分け入るか、南麓を迂回するかして千種川を渡河した。山道の上部を通っても、南麓の與井方面へ回っても、千種川までの距離はほぼ同じである。よって飯坂に向かうには、與井路の方が直線的で、当然こちらを駅路としたであろう。

願栄寺から直接山道へ入り、上部に出る。上部から千種川を渡河

渡河して直線的に大池付近へ

移転新築された「野磨駅家」跡が発掘された落地飯坂遺跡

(直線路)

最初の「野磨駅家」が発掘された落地八反坪遺跡

(直線路)

国史跡に指定された「山陽道野磨駅家跡」の看板

(直線路)
野磨(やま)驛
 「高田駅」から千種川を渡河して、『続日本紀』にもある山野里を通り、小さな峠を越えた所の「野磨駅」まで約7q。1990年、1991年の発掘調査の結果、落地廃寺に西隣接する八反坪遺跡(赤穂郡上郡町落地八反坪)からは駅家跡を思わせる掘立柱建物跡の駅館院的な跡などが現れました。しかし、瓦片の出土はほとんどありませんでした。
 また、2002年、2003年(平成15)には、落地廃寺の落地飯坂遺跡(赤穂郡上郡町落地飯坂)からは瓦葺の駅館院跡が確認され、これらによって、ある時期に官衙(昔の地方役所)的な要素建物を具備した駅家と思われる八反坪遺跡の地から、「野磨駅家」が飯坂遺跡の地へ移動したことが窺えます。
 2006年7月には、山陽道落地駅家跡は国の史跡に指定されました。本当に谷間の狭い地域、ひなびた田舎山道で忽然と立派な駅家が存在していたのは、賓客たち旅人たちにとって、想像を超えた驚きだったのでしょうね。
 「野磨駅」からは船坂峠を越えて備前国に入り、次の「坂長駅」(和気郡=岡山県備前市三石)まで約7qの道程です。

国の史跡に指定された野磨駅家跡

駅家跡(前期)と発掘で判明した落地遺跡

同左、説明板

落地(八反坪)遺跡の発掘調査による
山陽道と前期の駅家跡
(上郡町教育委員会資料より)

落地(八反坪)遺跡の前期駅家の推定図
(上郡町教育委員会資料より)

発掘された野磨駅(後期)の駅家跡
(落地飯坂遺跡)

同左、説明看板

発掘された野磨駅(後期)の
駅家跡(落地飯坂遺跡)に
配置を示す看板も立っている

落地(飯坂)遺跡の発掘調査
( 上郡町教育委員会資料より)

落地(飯坂)遺跡の後期駅家の推定図
(上郡町教育委員会資料より)


梨ヶ原集落(西国街道の宿場)

(船坂峠に向いて地形なりに進む)

険しい船坂峠を越える
(船坂峠)

備前国との国境(船坂峠)

(船坂峠を備前国の「坂長駅家」へ)
 山陽道の駅路や駅家については、全国的にみて比較的に比定が進んでいるが、まだまだ分からない多くの地点が残されています。今後も、更なる発掘調査、研究が望まれます。(2019年11月)
※参考資料:『歴史の道調査報告書全集9“近畿地方の歴史の道9”兵庫1』兵庫県教育委員会(海路書院)、『歴史の道調査報告書全集10“近畿地方の歴史の道10”兵庫2』兵庫県教育委員会(海路書院)、『山陽道駅家跡〜西日本の古代社会を支えた道と駅〜』岸本道昭著(同成社)、『完全踏査・続古代の道(山陰道・山陽道・南海道・西海道)』武部健一著(吉川弘文館)、『古代官道・山陽道と駅家〜律令国家を支えた道と駅〜』兵庫県立考古博物館、『ひょうごの遺跡』兵庫県立考古博物館、『古代道路の謎〜奈良時代の巨大国家プロジェクト〜』近江俊秀著(祥伝社)、『日本の古代道路を探す〜律令国家のアウトバーン〜』中村太一著(平凡社) など
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(47)古代の道と駅家
(うまや)〜兵庫県内〜

(57)古代の道
山陰道」の
駅家(うまや)を辿る

(61)古代の道
「南海道」
駅家(うまや)を辿る


(62)古代の道
美作道・因幡道」
駅家(うまや)を辿る


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