古代の道「南海道」の駅家(うまや)を辿る
 (郷土史の談話 61)
古代の道「南海道」の駅家(うまや)を辿る

(駅路だった現在の国道28号と、駅路沿線に残る立石)
 律令制五幾七道の「南海道」は、平城または平安の京の都と四国地方を結んでいた。 都を出て、畿内の山城國、河内國、和泉國を経て「南海道」に入る。南海道は、紀伊國を通り、紀淡海峡を渡って淡路國へ、淡路國を横断して鳴門海峡を渡って阿波國、讃岐國、伊予國や、途中分かれて土佐路を土佐國へ至る。総距離約380km(兵庫県内=淡路島内は約26km)。
 律令の規定では、駅路は大路・中路・小路に分けられており、南海道はその重要度と頻度から小路に規定されていた。駅路には約16km(当時の30里)ごとに駅家(うまや)が設けられて駅馬が常備されていた。小路の駅家には、5疋の駅馬を置く、と当時の行政規定であった『延喜式』兵部省式諸国駅伝馬条(927年に編纂)に記されている。
 紀伊國賀太駅(和歌山県)から紀淡海峡を渡り、淡路國に入るが、淡路國には駅家として、「由良」「大野」「福良」の3駅、また、「大野」と「福良」の駅の間には、768年(神護景雲2)には廃止されたとある「神本」駅のつごう4駅が存在していた。福良駅からは鳴門海峡を船で阿波國石隅駅(徳島県)に渡る。
 淡路島内の駅路(経路)と駅家の比定については、神本駅の廃止によって駅路(経路)も変更されていたものと思われるので、神本駅が廃止されるまでを前期、廃止後を後期と分けて考えてみたい。

(47)古代の道と駅家(うまや)〜兵庫県内〜

※上の 「LINKボタン」または右の「写真」をクリックして下さい。
●駅家の配置と経路

赤い線=786年(神護景雲2)神本駅が廃止されるまでの駅路
緑の線=同年の神本駅廃止後の駅路
1.前期(768年神本駅廃止以前)の大野駅の比定には、大きく2説ある。 1つは、洲本市大野の大野白髭神社周辺(野上遺跡)とするもの。経路は、由良駅(洲本市)から海岸沿いに北上して小路谷(同)へ、そこから内陸へ入り、千草(同)、物部(同)、宇原(同)を通り大野白髭神社前(大野駅A説、洲本市)に至る。 そこからは広田(南あわじ市)へ向かう。もう1つは、同じく洲本市大野の大野樽池付近とする。上記の千草から築狭神社、猪鼻、池内、新村を経由して大野樽池付近(大野駅B説、洲本市)に至り、そこから同じく広田(南あわじ市)へ向かう経路である。
 広田からは、次の神本駅を目指す。神本駅の比定にも2説ある。1つは、中山峠から八木茶屋池を西へ榎列下幡多(えなみしもはた)(神本駅A説、南あわじ市)を経由して、そこから榎列大榎列(えなみおおえなみ)、国府のあった十一ケ所、国衙を通り、福良駅(南あわじ市)に至るもの。もう1つは、同じく広田から倭文長田(しとおりながた)、榎列掃守(えなみかもり)から南へ、榎列大榎列(神本駅B説)、南あわじ市)を経由して、前記C説と同じ駅路を辿り、福良駅に至る。
2.神本駅が廃止された後の後期の大野駅は別の立地が窺える。由良駅(洲本市)から海岸沿いに北上して小路谷(同)へ、そこから内陸へ入り、同じく千草(同)からは北西方面の物部(洲本市)、加茂、下内膳を通り、上内膳(下内膳遺跡西端部)(大野駅C説、洲本市)に至る。あとは神本駅が廃止されたので、直接に、広田に出て、八木養宜、八木立石、国衙を通り、福良駅に至ったものと考えられる。
●南海道における駅家(兵庫県内)
由良(ゆら)驛
 紀伊國賀太の港(和歌山県和歌山市)から船で、成山(当時は淡路島と陸続き)で防波された由良の港に入る。『延喜式』には記述はないが、由良驛(洲本市)には馬5疋だけでなく、舟も何隻か配備されていたことが推測される。
 駅家は、『続日本後記・844年5月辛丑条』に「淡路國の官舎や駅家は皆海辺にあり、波間に接する」とあり、由良の海岸沿いにあると考えられる。しかし、由良湾の外海側の砂州で陸続きであった成山部分を、1766年(明和3)に北側の砂州(古川口)を開削して新川口とし、南側の砂州を1789年(寛政1)に切り開き今川口としたことなどによって、由良の港の整備が進み、駅家に近接していたであろう古代の由良湊神社(1870年明治3に八幡社と合祀)の旧地もよくわからなくなっている。「馬」に関する地名字名が伝わり、古代の渡津(入江)があった新川口(由良4丁目)周辺に、由良駅家があったものとしたい。

(由良の港)

(由良湊神社)

(新川口の由良4丁目付近)
大野(おおの)驛
 由良驛を発ち、海岸沿いに北上して小路谷(おろたに)から内陸へ西折する。次の駅家の神本驛が供用されていた際には、大野の地がkと理的にいも最適であっただろう。
 大野の地の北部には大野白髭神社があってその馬場脇に、古代の遺物を伝える野上遺跡とその周辺に奈良・平安時代の窯跡群もあり、ここが大野驛(洲本市)だったと思われる。 また、大野白髭神社南方の大野樽池付近を候補とする説もある。
 次駅の神本驛が768年(神護景雲2)に廃止された後は、大野驛を移転したものと考えられる。特にこの頃には、既に淡路往還(縦断)道が明石から船で岩屋へ渡り、一路南下、南海道と合流していた。 その行き交いの利便性から、大野驛は両道の結節地点となり、大野の地より北部で官衙的遺構や古代の下内膳遺跡西端があった上内膳(洲本市)の地(馬屋尻)に改められて、しかも大野の名称も引き継いだものと考えられる。
 神元驛廃止後に新たに南海道になった駅路沿線には「立石」が一定の間隔で設置されていたものと思われる。ここ下内膳にも、立石(斜めに倒れかけている)が加茂小学校前に現存している。

(下内膳の立石)

(大野白髭神社前)

(大野樽池付近)

(上内膳・
馬屋尻付近)
神本(かみもと)驛
 大野驛を出て、淡路国府があったと推定されている榎列(えなみ)の地を目指して西進する。 神本驛(南あわじ市)は国府近隣にあったと考えられるため、榎列大榎列周辺にあったと推定される。また、同じく榎列下幡多(しもはた)には神本寺や神本八幡社があって、この地が駅家だったとする説もある。
 しかし、当時南海道に使わされていた高向朝臣家主の、「淡路國の神本驛の行程が殊に近い」という進言で768年(神護景雲2)に廃止されてしまう。 その後は大野驛と次の福良驛間を最短距離で結ぶ駅路が通されて、神本驛およおり南方を通る駅路の八木立石(南あわじ市)に設けられた「立石」が旅人たちをずっと見守り続けている。

(八木立石の立石)

(榎列大榎列付近)

(榎列下幡多の神本寺)

(榎列下幡多の神本八幡社)
福良(ふくら)驛
 近世の淡路地誌『味地草』によると、「福良驛は潟(後に入浜式塩田になっていた)の上の南に東馬宿西馬宿の谷があって、ここには往古の駅家の地なるべし」と記されており、東馬宿の谷付近に福良驛(南あわじ市)があったものと推測されます。馬宿には、福良八幡神社があり、現在も港に近い。福良驛にも四国に向かうための船が何隻か整備されていたことであろう。福良驛前の福良の港から、鳴門海峡を渡って四国の阿波國石隅(いわのくま)驛(徳島県鳴門市)へと至ることになる。

(福良八幡神社)

(神社の後背地)

(福良湾に臨む福良港)

 淡路島内(兵庫県内)を通っていた南海道の駅家や経路の比定には、まだまだ遺跡発掘や研究調査が必要と思われます。今後の一層の進展を期待します。
(2015年8月)
※参考資料:『歴史の道調査報告書全集10“近畿地方の歴史の道10”兵庫2』兵庫県教育委員会(海路書院)、『完全踏査・続古代の道(山陰道・山陽道・南海道・西海道)』武部健一著(吉川弘文館)
※下の「写真」をクリックして下さい。

(47)古代の道と
駅家 (うまや)
〜兵庫県内〜

(18)古代の道
「山陽道」
駅家(うまや)を辿る

(71)古代の道
「山陽道」の駅路はどこを通っていたか、一考察

(57)古代の道
「山陰道」
駅家(うまや)を辿る

(62)古代の道
美作道・因幡道」
駅家(うまや)を辿る

※クリックして下さい。
「郷土史にかかる談話室」メニュー へ戻ります。

※クリックして下さい。
「神戸・兵庫の郷土史Web研究館/郷土史探訪ツーリズム研究所」のトップ・メニューへ戻ります。

当研究館のホームページ内で提供しているテキスト、資史料、写真、グラフィックス、データ等の無断使用を禁じます。