古代の港、摂播五泊と敏馬泊
 (郷土史の談話 55)
古代の港、摂播五泊と敏馬泊
 古来、瀬戸内海の海上交通は盛んで、基本的には風を読み、潮流に乗り、陸地近辺を航行し、夜には座礁遭難を恐れて碇泊地に留まっていた。それで、各地に「泊」が建設され、港町として発展してきました。
 兵庫県内でも、飛鳥・奈良時代から存在が伝わる摂津国・播磨国に5つ、そして万葉の世から歌に詠まれる敏馬があります。しかしながら、摂津・播磨の5つの建設当時については関係する古文書も極少で、その全容は余り伝わっていません。

摂播五泊と敏馬泊
 わずかに、914年(延喜14)4月28日付けの従四位上の三善清行が上申した『意見十二箇条』の第十二条において、奈良時代に行基菩薩が、一日の航程を計って建置(8世紀前半頃)した、室(=かわやなぎ)生泊、韓泊、魚住伯、大輪田泊、河尻泊の「摂播五泊」に言及し、長く廃港になって民が困っている魚住泊を修造するべし、と建議しています。同じく50年程前の867年(貞観9)3月27日付けの太政官符に、魚住の船瀬を繕修する旨を右大臣(藤原良房)が命じた、と『類聚三代格』巻十六に載っています。
●『意見十二箇条』延喜十四年四月廿八日(従四位上式部大輔臣三善朝臣清行)
「(第十二条)一重請修復播磨国魚住泊事
右臣伏見山陽・西海・南海三道舟船海行之程、自室(=かわやなぎ)生泊至韓泊一日行、自韓泊至魚住泊一日行、自魚住泊至大輪田泊一日行、自大輪田泊至河尻泊一日行、此皆行基菩薩、計程所建置也、而今公家唯修造韓泊・輪田泊長廃魚住泊、由是公私舟船、一日一夜之内兼行、自韓泊指輪田泊、至于冬月風急、暗夜星稀、不知舳艫之前後、無弁浜岸之遠近、落帆棄かい、居然漂没、由是毎年舟之蕩覆者、漸過百艘、人之没死者、非唯千人、・・・・・」
●『類聚三代格』巻十六「船瀬〇浮瀬布施屋事」貞観九年三月廿七日
「太政官符 応令播磨国聴造魚住船瀬事
右得元興寺僧傳燈法師位賢和牒稱(但し、人偏)、夫起長途者、次客舎而得息、渡巨海者、入隅泊而免危、則知海路之有船瀬、猶陸道之有逆族、伏見明石郡魚住船瀬、損廃己久未能作治、往還舟船動多漂没、・・・・・」
 この摂播五泊については、「河尻泊」が尼崎市神崎町附近、「大輪田泊」が神戸市兵庫区、「魚住泊」が明石市魚住町、「韓泊」が姫路市的形町、「室生泊」がたつの市御津町室津とされています。
●河尻泊
 淀川河口にあって、奈良・京都方面の都からの河川交通と瀬戸内海航行との結節点で、人間や物資の小舟への積み替え基地になっていた。近代まで、その港湾機能・利便性は宿場町の賑わいや繁栄をもたらしていた。現在地は尼崎市神崎町の神崎川岸(神崎橋西詰めの北側)となっている。

神崎川西岸

神崎川・猪名川との合流
●大輪田泊
 和田岬東側の天然の良港として、古来整備運営に取り組まれてきた。平安時代812年(弘仁3)の修築、平清盛による「経が島」増設など大改修、その後の日宋貿易、鎌倉時代の1196年(建久7)の東大寺僧重源による修築などなど、その後の日明貿易、江戸時代の瀬戸内の一大港湾・宿場町「兵庫津」(神戸市兵庫区のJR兵庫駅南側〜和田岬)として発展してきた。

築島寺前の船溜り

発掘された石椋(港湾基礎石)
●魚住泊
 泊の比定について異説もあったが、赤根川河口(明石市大久保町西島)から発掘された井桁状組合せ用切込み丸太材が10世紀初頭伐採と判明し、 延喜時代に魚住泊の修築に使われたものと思われます。古代、この魚住泊が使えない時には、公私万人が不便し、無理な夜間航行で、遭難事故などが毎年100隻死者1,000人を下らなかったと記録されている。

赤間川河口の丸太材発掘現場

発掘現場向いの魚住泊の碑
●韓泊
 海に迫出す奇岩の小山、夜間には頂上に灯火をともした景勝「小赤壁」の懐に抱かれた細長い入江「福泊」が「韓泊」(神功皇后の朝鮮出兵に因むか)であったと思われます。 平安時代には、海外の唐や韓からの船も多いとの記述(三善清行)、鎌倉時代の1292年(正応5)頃また1302年(乾元1)に福泊の修築の記録が伝わっている。現在地は、姫路市的形町福泊。

景勝「小赤壁」と福泊

漁船やクルーザーが碇泊
●室生泊
 摂播五泊で現代も残るたつの市御津町室津の港町・漁港です。その昔、神武東征の先遣隊による建港と伝わる。東西の半島・岬に囲まれた室津の港は、『播磨国風土記』に「この泊 風を防ぐこと 室の如し・・・」とあります。瀬戸内海航行と陸路行の結節点で、古くは遣唐使も、江戸時代の参勤交代や朝鮮通信使の碇泊地とされ、「室津千軒」と称せられるほど賑わいました。

室津の港は今も穏やか

室津の繁栄を残す豪商邸
●『播磨國風土記』「揖保郡」の項目
「室原泊 所以号室者、此伯(泊)防風如室、故因為名、」
●『日本後記』弘仁三年六月辛卯(五日)
「遣使修大輪田泊、」
●「敏馬泊(みぬめのとまり)」
 難波津から一日行程で辿り着く対岸の港として設けられていました。海に突きでた小さい岬の高台(神戸市中央区岩屋中町)にある敏馬神社の東側の入り江を港に「敏馬泊」を形成していました。大和時代から奈良時代中頃までは神戸の中心的港でした。
 敏馬泊をかかえる「敏馬の浦」(入り江の奥は、現在の阪神電鉄西灘駅附近?)は、
畿内である摂津国にあり、大阪湾の外側の瀬戸内海を航行する者にとって、都の存在を感じる最後(往路)または懐かしの畿内(帰路)最初の碇泊地であり、その感慨は、幾多の歌に詠まれてきました。『万葉集』にも大和以外で「敏馬」が多く詠まれました。また、新羅人が来朝した際には、敏馬泊にて、生田社で醸した酒をたまうた(『延喜式玄番寮』より)、とありあります。入京に備えて、秡穢と饗宴の場でありました。
 敏馬泊は、奈良時代中頃に、(行基菩薩の摂播五泊の建設整備に伴って?)「大輪田泊」に港としての機能が移りました。(2014年7月)

敏馬の浦は埋立てで更に沖に
国道2号沿いの敏馬神社

浦に突き出た岬の高台に神社

創建2000年の敏馬神社
●『摂津国風土記逸文』万葉集註釈巻三
「摂津国風土記云、美奴賣松原、今称美奴賣者、神名、其神本居能勢郡美奴賣山、昔息長帯比賣天皇(神功皇后)幸于筑紫国時、・・・・・還来之時、祠祭此神於斯浦、〇留船以献神、亦名此地曰美奴賣(敏馬)」
●歌枕『敏馬』を吟詠した主な和歌等
『万葉集』:「玉藻かる 敏馬をすぎて 夏草の 野島の埼に 舟ちかづきぬ」(柿本人麻呂)、
       「御食(みけ)むかふ 淡路の島に ただ向かふ 敏馬の浦の 沖辺には 深海松(ふかみる)摘も
       浦みには なのりそ刈る 深海松の 見まくほしけど なのりその 己が名惜しみ 間使(まつかひ)も
       やらずて吾は 生けりともなし」(敏馬浦を過きる日作る歌一首・山部赤人・巻六)
『続後撰集(勅撰和歌集)』:「ますかがみ 敏馬の浦は 名のみして おなじ影なる 秋の夜の月」(藤原為教)
『新後撰集(勅撰和歌集)』:「はま千鳥 かよふばかりの あとはあれど みぬめの浦に ねをのみぞなく」(順徳院) 
『加茂翁家集』:「浪の上を こぎ行く舟の 跡もなき 人を見ぬめの うら(敏馬の浦)ぞ悲しき」(加茂馬淵)
(近代より):「涛(なみ)ならぬ 自動車の爆音 背(せな)にして 敏馬神社の 石階(いしだん)をのぼる」(富田砕花・詩人)
        「夏くれば 海の眺めは 葉がくれて みぬめの海と なりにけるかも」(谷崎潤一郎・作家)
ほか多数あります。
※参考資料:『兵庫県史・史料編・古代一』兵庫県、『兵庫県史・史料編・古代二』兵庫県、敏馬神社資料(宮司 花木直彦) その他
●関連ページへのリンク(下記写真をクリックして下さい)

(23)室津風情
〜此の泊風を防ぐこと室の如し

(32)平清盛が目指した
大輪田の泊・ 兵庫津の
賑わいを辿る

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